『新・人間革命』第28巻 勝利島の章 414p~

小笠原の島々は、一年中、暖かく、梅雨もない。固有の進化をを遂げた生物が多く、「東洋のガラパゴス」と呼ばれている。しかし、当時、小笠原に行くには東京の竹芝桟橋から出る週一往復の船しかなかった。片道38時間、3日がかりの船旅となる。

離島本部からの報告では、小笠原諸島には、30世帯を超えるメンバーがいるとのことであった。船を下りると、数人のメンバーが、待っていた。そのなかに、母島から来たという、72歳の男性もいた。彼は本土にいた時、ある会合で伸一が語った言葉を胸に焼きつけ、母島で一心に信心に励んできたという。

「師弟の誓い」に生き、「使命」を自覚した同志が、「広布の大道」を切り開いてきたのだ。離島本部の幹部は、求道心にあふれた、その純粋な姿に、生命が洗われる思いがした。

本土などに強制疎開させられていた人たちが、父島に戻った時からはじまっている。佐々本卓也は、漁業を行うために漁業組合をつくって組合長を務め、浅池隆夫は、東京都の小笠原の漁業調査船の船長と
なった。

島に、住民が移って来るたびに、学会員がいないかどうか聞いて回った。父島には、旧島民のほかに、新しい住民も増えていった。また、アメリカは、終戦の翌年には欧米系の旧住民の帰還を認めており、欧米系の人たちが暮らしていた。佐々本や浅池は、その人たちと融和を図りながら、島づくりに励んできた。

浅池は、調査等のほか、父島と母島の物資の輸送や急病人への対応、海上遭難者の救出などにも奮闘した。地域への貢献を通して、信頼を勝ち取ることが、そのまま広宣流布の前進となった。「信心即生活」である。ゆえに学会員一人ひとりの生き方のなかに、仏法が現れる。

学会員のなかには、日本最南端の漁業無線局の局長もおり、多彩な人材がいた。島には、次第に観光客も増えていった。島の未来を憂慮した学会員の有志が中心となって、「小笠原の自然を守る会」を結成。ゴミ拾いや自然保護のための運動を開始した。

母島の広布を担ってきた一人に勝田喜郎がいた。喜郎は父と「一緒に母島へ帰り、農業をしよう」と約束していた。勝田の先祖は、小笠原の母島に定住した最初期の一家であった。彼は、亡き父親が大事に持っていた、勝田家の「総括録」と題した綴りを目にしてきた。

移住二代目にあたる祖父が記していたものだ。そこには、想像を絶する開拓の苦闘と気概が綴られていた。自分の体に、その開拓者の血が流れていることに、彼は誇りを感じた。“よし、帰ろう!先祖が心血を注いで開いた母島の土地を守ろう!そして、島の広宣流布に生き抜こう!”

彼には、農業の経験は全くなかった。しかし、“信心で、どんな苦労も乗り越えてみせるぞ!”という意気込みがあった。農業移住者のうちの一人として母島に渡った。一般の人たちの本格的な母島期間よりも年ほど早かった。

27年間、無人島状態であった母島は、島全体がジャングルさながらであった。勝田は、自分で家を建てることから始めた。六畳一間で、ランプ生活である。“これを乗り越えてこそ、母島広布の道が一歩開かれる!負けるものか!”勇気が沸いた。

離島本部の幹部らは、夜には指導会を行った。この指導会の席上、小笠原大ブロックの結成が発表された。三津島から伸一の伝言が紹介された。三津島は訴えた。「山本先生の心には、いつも、皆さん方がいます。皆さんの心に、先生がいるならば、師弟不二なんです。

師弟の絆の強さというものは、地理的な距離や役職のいかんで決まるものではありません。先生に心を合わせ、胸中に師匠をいだいて、同じ決意で広宣流布に戦う人こそが、最も先生に近い人であり、それが本当の弟子であると思います。どうか、小笠原の皆さんは、師弟不二の大道を歩み抜いてください!」

小笠原の同志の活躍は、東京に戻った離島本部の幹部から、山本伸一に、詳細に伝えられた。離島本部の結成後、各島の学会員は、島の繁栄と人びとの幸福を願って広布の活動に励むとともに、地域貢献に一段と力を注いだ。“わが島に広布のモデルを”“この島こそ常寂光土なり”と、同志は誓い合った。

各島々では、地域の繁栄のために、さまざまな催しも行われた。学会員が中心となって、島ぐるみのフェスティバル等が、開催されていった。また、学会員の多くが、島や集落のさまざまな仕事を積極的に引き受け、責任を担いながら、島民のために献身した。

学会員が島に貢献する姿を通して、島民は創価学会の実像を知り、学会への理解を深めていったのである。法を体現するのは人であり、人の振る舞いが広布伸展のカギとなる。


太字は 『新・人間革命』第28より 抜粋