『新・人間革命』第23巻 学光の章 155p

熊本県の洗足信子という婦人は、戦時中英語は敵性後とされ、満足な授業は受けられなかった。戦後は 夫を空襲で亡くし、女で一つで娘を育て働いた。終戦から30年後、再婚後に生まれた次女が創価大学に入学。通信教育部が開設されると、特修生となり、正科生の資格認定試験をめざし、塾にも通って勉強した。

英語は不合格となったが、学べること自体が嬉しくて仕方なかった。あくなき向上心と挑戦心の中にこそ、人生の輝きがあり、充実があるのだ。翌年、洗足は試験に再挑戦して合格。法学部の正科生となった。

スクーリングの時には、世代を超えて、たくさんの友だちもできた。また、創大生の娘と会って、母子で、学業や人生について語り合うことも楽しかった。

通信教育部は、開設から2年目の1977年(昭和52年)には、教職課程が設けられた。既定の科目を履修すると、中学校教諭一級、高等学校教諭2級の社会科の教員免許状を習得できるようになったのである。創価大学の通教からも、教育界に雄飛できる道が開かれたのだ。

創価大学の第7回入学式の祝辞で伸一は 通学課程の新入生にこう語った。「諸君の何倍かの青年たちが、無念の涙をのんでおります。私は、この青年たちがくじけることなく、たくましく立ち上がってくれていると信じてやみません」

この伸一の言葉は、通教第一期生で、埼玉県から参加した福満寿々子の、胸を射貫いた。自分への励ましのように思え、目頭が潤んだ。"私には通信教育がある!"この入学式に参加した福満は決意した。"山本先生は、すべて、わかってくださっている!通教第一期生として卒業しよう"

日の当たる人より陰の人に、勝利の栄冠を手にした人より涙をのんだ人に心を向けることから、人間主義は始まるのだ。

多くの通教生を悩ませたのは、スクーリングに参加する時間を、いかに確保するかであった。全期間の参加となれば、二週間余の休暇が必要となる。それを卒業するまでに、4年間は続けることになるのだ。難色を示す職場も少なくなかった。


宮城県の平山成勝は、医薬品販売会社の社員となった。彼は、新入社員だけに、長期の休暇を取りたいとは、なかなか言い出しかねていた。意を決して上司に打ち明けると、「社員全員の了解がもらえたら、許可しよう」と言われる。平山は 20人ほどの社員、一人ひとりに頭下げて回った。

懸命に仕事に取り組む彼の真剣な訴えに折れ、結局、皆が了解してくれた。熱意なくして成就するものなど何もない。

スクーリングの開校式の時、参加者の代表と記念写真を撮った伸一は、平山に「頑張るんだよ。卒業を待っているよ」と声をかけた。一言の励ましが、人を奮い立たせることもある。「声」は勇気を呼び起こす新風となる。

平山の仕事への真剣な取り組みと、学業への情熱は、社内でも評判になっていった。3年目の夏季スクーリングは、会社の方から「行ってらっしゃい」と言われた。卒業した時には、上司と同僚が祝賀会を開いてくれた。彼は、会社にとって、なくてはならぬ存在になり、職場に信頼の輪を広げていたのである。

何事かをなすには、周囲の理解と協力が必要である。それには、決して周囲に甘えるのではなく、どこまでも、自己に厳しく挑戦していくことを忘れてはならない。その真剣な生き方に、人びとは共感し、支援もしてくれるのである。

スクーリング参加者のなかで、生後5か月の子どもを背負い、授業に出席していた女性がいた。母乳しか飲まないために、連れて来ざるを得なかったのだ。

"無理だとあきらめる前に、挑戦しよう!必ず来年も来ようと"と心に誓った。3回目の時は、3人目の子どもを宿していた。二人の子どもを夫に預けて参加した。そして、山本伸一との心の約束を果たし、通信教育を4年で卒業したのである。その後、創価大学では、検討を重ね、子どもを連れてのスクーリングの参加は自粛することとなっている。

通信教育が2年目を迎えたころから各地で、通教生が集い、定期的な学習会が行われるようになっていった。皆が互いに助け合い、励まし合おうという連帯が、具体的な形となって花開いていったのである。"大学が何をしてくれるかではなく、自分たちが何をするかだ!伝統は、自分たちの手で作っていくものだ!"それが通教生たちの決意であった。

山本伸一が開学式のメッセージで訴えた、皆が「通信教育部の創立者」という呼びかけは、通教生の揺るぎない自覚となっていたのである。

太字は 『新・人間革命』第23巻より 抜粋