『新・人間革命』第23巻 敢闘の章 300p
太字は 『新・人間革命』第23巻より 抜粋
牧口常三郎の今日いう学説の発刊の難題は、いかに原稿を整理し、まとめるかであった。牧口の場合、原稿といっても、校長職の激務のなかで、封筒や広告の裏、不用になった紙などに、思いつくままに、書き留めてきた者が、ほとんどである。
それを順序立てて構成し、文章を整理しなければ、とうてい本にはならない。だが、その労作業を買って出る人などいなかった。その時に、名乗りをあげたのも、戸田城聖であった。
切れ切れの牧口の原稿の、重複する箇所はハサミで切って除き、自宅の八畳間いっぱいに並べてみた。すると、そこには、一貫した論旨と、卓越した学説の光彩があった。戸田は、牧口への報恩感謝の思いで、この編纂の労作業を、自らに課したのである。
そして、1930年(昭和5年)11月18日、『創価教育学体系』第1巻が「発行所 創価教育学会」の名で世に出るのだ。表紙の題字と牧口の著者名は、金文字で飾られていた。ここにも戸田の、弟子としての真心が込められていた。
牧口常三郎は、この発刊にあたって、青年たちが、原稿の整理や印刷の校正に尽力してくれたことに触れ、なかでも、戸田城聖の多大な功績について記している。まさに、創価学会は、その淵源から、師弟をもって始まったのである。ゆえに、師弟の道を、永遠に伝え残していくなかに、創価の魂の脈動があるのだ。
師弟の道は、弟子が師匠の精神と実践を学ぶことから始まる。それには、師匠の遺品や、ゆかりの品々に触れることが大事になると、山本伸一は考えたのである。
戸田の講義などのレコード制作を進めたのも、伸一であった。"先生の叫びを、永遠に残したい。いつかレコードのようなかたちで!"
また、伸一は、戸田の映像も、動画として残しておかねばならないと考えていた。1956年の主要行事をはじめ、大阪大会や、横浜・三ッ沢の競技場での「原水爆禁止宣言」、さらに、青年部に広宣流布の後事の一切を託した「3・16」の記念式典などが、映画フィルムに収められていくことになる。
すべては、師匠の真実の姿を永遠に残し、その精神を、誤りなく伝えたいとの、伸一の一念から発したものであった。
特に組織の中核となる最高幹部には、"ただ、ただ、広宣流布のために!"という、清浄にして崇高な師弟不二の大精神が、横溢していなければならない。ゆえに、伸一は、幹部をはじめ、時代のリーダーとなる青年たちに、この師弟の精神を、深く、深く、刻み込んでいかなければならないと思っていたのである。また、堕落の萌芽を目にしたならば、それは、直ちに摘みとらねばならないと、強く決意していた。
勤行会で、伸一は、記念館の意義に言及していった。「牧口先生、戸田先生がいらっしゃったからこそ、私どもは、仏法に、御本尊に巡り会い、御書を教わることができました。それによって、地涌の菩薩としての、この世の尊き使命を知り、絶対的幸福への大道を歩みことができました。その両先生の御遺徳を偲び、弟子の誓いを新たにしていくための記念館です。」
「共に、懇ろに唱題し、師弟不二の、三世にわたる一段と強い生命の絆を、結んでまいろうではありませんか」
「研修所も、会館も、会員の皆さんの浄財によって運営されている。したがって、使わない電気をつけっ放しにしておくようなことがあってはならない。互いに"あなた任せ"にするのではなく、担当者、責任者を明確にすることです」
「ただ、『気をつけよう』とか、『頑張ろう』といった抽象的なことではだめです。具体的な責任の明確化が大事になる」あいまいさがあれば、魔の付け入る隙を与えてしまうーーそれが、若き日から全責任を担って学会の一切の運営にあたってきた、伸一の結論であった。
「また、幹部の祈りも具体的でなければなりません。」「研修所にいる役員も多すぎます。みんな忙しいし、休みを取って、ここに来るのも大変です。少数精鋭での運営を心掛けなければならない」