小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

創価教育

未来へ創価教育の新たな飛躍

『新・人間革命』第23巻 未来の章 7p
<新・人間革命 23巻 開始>
<未来の章 開始>


創価学会として「健康・青春の年」と定めた、この1976年(昭和51年)は、「創価教育」の新たな飛躍の年であった。

北海道に札幌創価幼稚園が開園しただけでなく、3月には、大阪・交野市の創価女子学園で、第一期生の卒業式が行われ、初めて卒業生を送り出したのである。

また、創価大学も、大きな拡充、発展の時を迎えていた。4月から、新たに経営学部経営学科、教育学部教育学科・児童教育学科を開設。さらに、留学生のために別科(日本語研修課程)が設けられたのである。

山本伸一は、創価教育の新段階ととらえ、生徒、学生の輪の中に飛び込むようにして、全力で激励を重ねていった。彼は、宣言するように語った。「私は、もう一度、学園に力を入れます。そのために奔走します。私の生涯の仕事は教育です。それに賭けているんです」

また、「なんのため」との原点を見失ってはならない。人間主義に根差した創価教育の目的は、民主を蘇生させゆく指導者の育成にあるーーと烈々たる気迫で訴えたのである。

教育の結実には、歳月が必要である。粘り強く語らいを重ね、薫陶していくなかで、人間は目覚め、成長していくのだ。

3月16日は、東京の創価高校の第6回卒業式であった。伸一は、岡山訪問のため、録音テープにメッセージを吹き込み届けた。そのなかで、彼は、学友たちとの友情を永遠のものとしていくために、「精神の故郷」である創価学園に、魂魄をとどめることの大切さを語ったのである。

「魂魄をとどめる」とは、"わが魂は、ここにあり"と、心を定めることだ。つまり、自分は、永遠に創価学園の担い手であり、建設の主体者であると決めることだ。

「学園を、ただ懐かしむだけなら、自分との間に、まだ距離がある関係です。しかし、魂をとどめているという関係ならば、距離は全くなくなって、それは自己と対象とが、いつでも一体となり、同化している状態であります。万事、断絶だらけの現代において、見事に断絶を乗り越えた境涯であります」

皆が、学園と一体であるという信念に立つならば、学友とも、生涯にわたって連帯の絆を、強め続けていけるにちがいない。

清新の息吹も、歳月とともに失われ、惰性化していくのが世の常である。しかし、そうなれば、新しい発展はない。惰性を破るには、原点に立ち返ることだ。伸一は、常に人間と人間の触れ合いという教育の原点に立ち返ろうとしていた。そして、自ら行動することによって、創価教育の城に、魂の新風を送ろうとしていたのである。

山本伸一が、北海道の札幌創価幼稚園を訪れたのは、入園式の前日にあたる、4月15日の夕刻であった。教職員と懇談のひと時を過ごした。

「この創価幼稚園のスタートで、創価教育の最初の『教育の門』が完成しました。その幼稚園が、北海道の札幌の地に誕生した意義は、極めて大きいといえます」創価教育の父・牧口常三郎が学んだ北海道尋常師範学校も、牧口が最初に教壇に立った同校の付属小学校も、札幌にあった。

第二代会長の戸田城聖は、北海道・厚田村で幼・少年期を送り、札幌に出て、雑貨問屋で働きながら、尋常小学校准教員の検定試験を受けて、合格している。

牧口にとっても、戸田にとっても、札幌は、教育者として飛翔しゆく、出発の天地であったのである。伸一は、創価教育の学園構想を練り始めた時から、いずれは、その札幌に、先師・恩師を宣揚するためにも、なんらかの創価教育の城をつくろうと、心に定めていたのである。

牧口常三郎は、創価教育を実践するために、一貫教育の学校を建設するという構想をいだいていた。そして、その実現を戸田城聖に託していたのである。それを、戸田から、伸一が聞かされたのは、戸田の事業が破綻した苦境のなかで、再起を期して激浪の暗夜に船出した1950年の晩秋のことであった。

その時、戸田から、「私の健在なうちにできればいいが、だめかもしれない。伸一、その時は頼むよ」と託されたのである。



太字は 『新・人間革命』第23巻より 抜粋

創価学園開校

『新・人間革命』第12巻 栄光の章 P324~

教職員の選考は最終段階を迎えていた。生徒にとって、最も重要な教育環境は、建物でも、自然環境でもない。教師である。ゆえに、教師の選考には、特に力が入れられ、厳選されたのである。

選考にあたるメンバーに、山本伸一は訴え続けてきた。「教職員を大事にすることを、創価学園の伝統にしていってもらいたい。教育といっても、結局は、教育者によって、決まってしまうからです。」

開校にあたって、伸一は、教職員の代表と懇談の機会をもち、みんなで、力を合わせ、日本一の学校をつくろうと訴えた。

中学の志願者は、200人の募集に対し、800人近くに達し、高校の募集300人対し、1500人近くが出願した。合格者の自宅通学が困難な地域からの合格者は、予想をはるかに超え、寮に入ることができない80人ほどの下宿探しに奔走した。

なかには、学会への偏見と誤解から「創価学園」と聞いただけで、「学会の幹部の養成学校ですか」と尋ねる人もいた。一軒、一軒下宿先を開拓し、3月上旬には、すべて確保することができた。

入学式を終えた新入生と父母たちは、創価学園の正面ロータリーで伸一の到着を待ち、碑の序幕を行った。「栄光橋」と名付けた玉川上水に架かる橋のテープカットを行い、橋の意義を生徒たちに話した。

牧口常三郎と戸田城聖も、戸田と山本伸一の間にも、28歳ほどの年齢の隔たりがある。今、伸一は、40歳であり、この生徒たちとは、ちょうど同じくらいの年の差がある。彼は、世界の平和の実現のために、自分の後に続いてくれるであろう一期生との年齢差に、不思議な感慨を覚えた。

また、歴史を振り返れば、かのプラトンが、師のソクラテスの志を受け継ぎ、学園アカデメイアを創立したのも、40歳といわれる。伸一は、人生の最後の事業と定めた教育への挑戦を、今、この一期生とともに始めたことを思うと、闘志が沸々と込み上げてくるのであった。


午後も、「青年と鷲」の像の除幕式に臨んだ。伸一は、生徒たちに、「鷲は、どこまでも力強く、飛んでいく。空飛ぶ者の王です。皆さんも、鷲のように強く、野性的であってください。そして、英知を磨き、たくましい信念をもって、理想に向かって飛翔し、日本の、いな、世界の平和のために、つくしていただきたいんです。」

「青春時代を生きるうえで大事なことは、自分の弱さに負けたり、引きずられたりしないで、自分に挑戦していくことなんです。自分を制し、自分に打ち勝つことが、いっさいに勝利していく要諦であることを、わすれないでください」

若き純粋なる魂に、真実の人間の道を伝え抜かんと、彼は自らの生命を燃え上がらせ、真剣勝負で臨んでいた。


次に寮へ行き、寮長や 寮生の代表と懇談した。「君たちが開拓者となって、伝統をつくり、誉れの歴史をつくるんだ。君たちの手で、力をあわせて、この栄光寮を、日本一、世界一の寮にしていってほしい。」

伸一は、寮生たちを、力の限り抱き締めたい思いにかられた。「これからは、私が君たちの親代わりだ。みんな、宝のように大事な私の子どもだよ」

この日、新しい歴史の扉が開かれ、創価学園の建設の歩みが、晴れやかに開始されたのだ。それは、伸一にとっても、生涯の事業となる教育という大山への、本格的な登攀の開始であった。

以来、創価学園のことが、山本伸一の頭から離れることはなかった。折に触れ、さまざまなかたちで、学園生への励ましが続けられた。



太字は 『新・人間革命』第12巻より 抜粋

牧口常三郎の創価教育学体系

『新・人間革命』第12巻 栄光の章 P303~

「牧口先生の残された創価教育は、人類の偉大なる精神遺産だ。日本だけでなく、世界の人びとのためのものです。いつになるかわからないが、私は、アメリカにも必ず、創価大学を建設する決意なんです。その大学で、世界平和のために、人間主義の大指導者を、本格的に育成していきます。いずれにしても、教育は、私の最後の事業であると思っています。」伸一の構想は、限りなく広大であった。

創価高校に中学校を併設することが決定し、初代会長牧口常三郎の祥月命日であり、後に学会創立記念日になった11月18日に、起工式が、晴れやかに行われたのだ。

伸一は、戦後、機会均等を基本原理とする戦後の民主主義教育の実施は、国民共通の基礎教養を高め、高校への進学率もあがり、1965年(昭和40年)には、全国平均で7割を超えるに至っていた。しかし、残念なことには、その教育の普及が、「人間をつくる」という教育本来の目的に、つながっていないのが実情であった。

教育の普及は、一方で、学歴偏重主義を招き、受験競争は異様なまでに過熱化し、友達を敵と考える高校生も少ないという事態を、もたらしていたのである。

伸一は、もし、このまま、確固たる教育理念もなく、青少年の心の荒廃が続けば、どうなるのかと考えると、暗澹たる思いにかられた。そのたびに、人生の根本目的を教え、強く豊かな心を、人間性を培う教育が行わなわれなければならないと、痛感してきた。

そして、"牧口先師の創価教育学を実践する学校を、一日も早く建設しよう"と、心に誓ってきたのである。牧口常三郎の創価教育学とは、一言でいえば、「人生の目的たる価値を創造し得る人材を養成する」知識体系といえる。

牧口は、教育の目的は子ども自身の幸福にあると主張し、社会人として幸福生活を営めるようにしていくことに、教育の役割があるとしている。そして、真の幸福生活を実現するには、自他ともの幸福を築くことが不可欠であり、いわば、個人の幸福と社会の繁栄が一致する社会の在り方をめざすものが、教育であるとしている。

牧口は、「半日学校制度」など、教育制度や教育方法の具体的な改革案を打ち出していった。創価教育学は、彼の30余年にわたる学校教育の実践のなかで培われ、実証に裏付けられた教育法であった。つまり、それまでの、観念的哲学理論で構成され、実証性に乏しい教育学とは一線を画した、独創的な教育学説であった。

『創価教育学体系』の第1巻には、当時の日本を代表する3人の学識者が序文を寄せている。新渡戸稲造、民族学者の柳田国男も称賛し、フランス社会学の研究家田辺寿利は、「現代の日本が最も要求するところの教育学である」とし、フランスの昆虫学者ファブルを フランスの誇りとし、文部大臣として、フランスの名において懇篤なる感謝の意を表したと述べ、「文化の国日本は、如何なる方法によって国の誇りなるこの偉大なる教育者を遇せんとするか」と記している。

ところが、日本は、"国賊"とし、獄死をもって遇したのだ。それは、未来永劫に消えぬ、日本国家の汚点であろう。

創価学園の建設は、山本伸一にとって、先師・牧口常三郎の教育思想と正義を宣揚する、第三代会長としての戦いであった。

1967年に、学校法人創価学園の設立、創価中学・創価高校の設置を東京都に申請し、学校設立への動きはいよいよ本格化していったのである。

校章は、中央にペンがあり、その左右に鳳雛の羽が図案化されていた。スクールカラーについても、「英知」「栄光」「情熱」を表す、「青」「黄」「赤」の三色に決まった。

学校法人の認可も下り、開校への歩みは、大きく加速された。


太字は 『新・人間革命』第12巻より 抜粋

創価教育の学校建設

『新・人間革命』第12巻 栄光の章 P303~

伸一は、あえて辞退し、森川に言った。「創立者というのは針です。理事長や校長は、後に残る糸です。ひとたび着物が縫い上がれば、着物を維持していくのは、糸の役目です。」

「生徒たちは、名門校や一流校といわれる学校が数あるなかで、私の創立した、まだ、無名に等しい、この創価学園を選んでくださった。また、家族の方々は、それを全力で応援してくださろうとしている。経済的に大変なご家庭もあるはずです。特に地方から子どもを送りだすのは、大きな家計の負担になるでしょう。しかし、私とともに、牧口先生、戸田先生の理想を実現しようとしてくださっている。涙が出るほどありがたい話ではないですか」

「学園生は、かけがえのない、私の宝です。私の命です。大切な、大切な、私の子どもです。どんなことをしても、生徒を守ります。生徒のために戦い抜きます。それが私の決意です。」

彼の胸には、戸田城聖から学園の建設を託されて以来の思い出が、次々と去来してきた。戸田は、創価教育を実践する、小学校から大学までの学校の建設を悲願としていた牧口が、その実現を自分に託したことを明かし、伸一に、こう語るのであった。

「私の健在なうちにできればいいんだが、だめかもしれない。伸一、その時は頼むよ・・・」この時、伸一は、弟子として、何があろうが、必ず自分の手で創価教育の学校を建設しようと、固く、固く、心に誓ったのである。

戸田亡きあと、伸一は学校建設のための土地を探し始めた。武蔵野の大地にあり、富士が見え、近くに清らかな水の流れがあり、都心から車で、1時間ほどの距離であるという4つの条件を兼ね備えた希望の通りの土地が見つかり、視察したのは、会長就任1か月前であった。

妻の峯子とともに、視察に訪れた伸一は、すべての条件を満たした、最高の教育環境であると思った。峯子は、「学校設立には相当、お金がかかるし、学会にそんなお金はないのでは」と心配すると、伸一は、「僕が働くよ。これから本を書いて、書いて、書き続けて、その印税で、世界的な学園を必ずつくってみせるよ」と言った。

会長に就任した後も、激務の合間を縫って、学校の開校に向けて、小平の土地を買い足し、さらに、八王子にも小学校から、大学までの一貫教育の学校をつくる準備を始めた。

創価大学の設立審議会が発足し、建設への歯車が、本格的に回り始めた。建設用地を視察した時、雑木林の土地がきれいに保たれていると気づいた伸一は、地元の同志が清掃してくれているに違いないと指摘。また、寄付をしたいと言ってくれる大勢の同志がいることも話し、

無名の庶民である会員の皆様が、創価教育の城を築き、守ろうとしてくださっている。学園の建設は、民衆の真心に支えられてきたという、この偉大な事実を、生徒にも、教師にも、永遠に伝えて抜いていかなくてはならない」と話した。

起工式を1か月後に控えた10月、委員から、男子校ではなく、中・高一貫校として、創価高校にも、中学を併設したらどうかと提案がなされた。この段階で、併設に切り替えればさまざまな面で修正や変更が必要になる。しかし、山本伸一は、中学を併設したいという意見を支持した。

中学生には、高校受験という問題が重くのしかかり、それが伸び伸びと学業やスポーツに打ち込む障害となっていることを、彼も憂慮していたからである。

伸一は、委員たちに言った。「私たちがめざしているのは一貫教育です。高校の一期生が卒業する時には、大学を開学させたいと思っています。さらに、小学校も幼稚園もつくっていきます。東京以外にも学校を建てるつもりです。」





太字は 『新・人間革命』第12巻より 抜粋

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