『新・人間革命』第15巻 開花の章 326P~ 

写真展を鑑賞した人たちの反響は大きかった。自分の撮った写真を贈ることで、少しでも同志の激励になればというのが、伸一がカメラを手にした最大の動機であった。

写真を目にした本部の職員たちから、「写真を、会館に飾りたい」との声が起こった。会館のロビーや階段の踊り場に絵画を飾れば、かなり高額なものになる。伸一は、自分の写真が少しでも役に立つのならと、その要請に応えることにした。「創価」とは、すべてにわたる価値の創造である。

こうして、全国の会館で、彼の写真が飾られるようになっていった。伸一の写真展は、その後も行われ、やがて『自然との対話』写真展の名で、国内はもとより、世界各地で行われるようになっていった。

写真は「世界語」である。言葉は理解できなくとも、写真を見れば、すべてがわかる。心をわかち合うこともできる。

写真には力がある。ビクトル・ユゴーが、亡命先で数多くの肖像写真を撮らせたことは有名である。それは、権力者ナポレオン三世の暴圧に対する挑戦であったのである。”われは健在なり!”“われは不屈なり!”彼にとって、写真は敵を打ちのめす武器であり、挑戦状であったのである。

伸一にとっても、写真は、人びとの胸の奥深く、歓喜と希望と勇気を送る、蘇生への光の弾丸であった。そして、写真は「負けるな!強くあれ!私とともに進もう」との、同志への励ましのメッセージとなった。

文化は、野蛮に抗する力である。文化という人間性の力をもって、社会を建設していくことーーそれが、われらの広宣流布の運動である。

伸一は、日本の文化の行方を憂えていた。なかでも、各地域文化の著しい衰退に、彼は心を痛めていた。彼が、これまで、各方面ごとに文化祭の開催を提案し、推進してきたのも、地域文化の復興と新しき想像を願ってのことであった。

その学会の象徴ともいうべき各地の会館は、地域社会の誇りと安心の牙城とならねばならない。それが、伸一の信念であった。

神奈川県鎌倉会館で行われる「鎌倉祭り」と翌日に三浦市・三崎会館に隣接した海岸で行われる「三崎カーニバル」は、伸一の提案をもとに、地域との交流を図るために、新たな試みとして開催されることになったものである。

学生部、高等部、中等部のメンバーで結成された人材グループ「鎌倉グルーフ゜」のメンバーは、「言論問題」が起こると、伸一にくつろいでいただこうと、慣れない手つきでお茶をたてたり、琴の演奏をおこなった。

その企画を見て、翌年は地域の人びとも招いて開催しようと提案したのだ。学会の本当の姿を知る機会をつくり、人びととの交流を図るには、どうすればよいかを、常に思索し続けていたのである。

会館は堅固で立派な建物にし、災害の折などには、避難場所としても使えるようにしたいと考えていた。「地域社会への貢献の城」--これが伸一の会館像でもあった。

地域には、大きな屋敷が立ち並び、文化人など、社会的に、著名な人びとの住居も多かった。地元の学会の幹部たちは「鎌倉祭り」の開催にあたって、近隣の家々にあいさつに回った。

幹部たちは、日ごろからの交流がいかに重要であるかを痛感するのであった。あいさつは、心のドアを開くノックである。さわやかで感じのよい、あいさつの姿には、人間性の勝利がある。

会館を使用していくうえで、ほんの少しでも油断があり、注意を怠り、近隣に迷惑をかけるようなことがあれば、蟻の穴から堤が崩れていくように、地域広布は崩れてしまうことになる。

伸一は「鎌倉祭り」を行うに際しても、周囲に迷惑がかからないようにすることと、無事故を徹底してきた。しかも、会館は、学会の前進を阻もうとする、さまざまな勢力に狙われる可能性もある。それだけに、油断して警戒心をなくせば、いつ何が起こるかわからないのだ。伸一は、この催しが無事故、大成功で終わるように、連日、懸命に祈り続けてきたのである。


太字は 『新・人間革命』第15巻より 抜粋

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