『新・人間革命』第20巻 懸け橋の章 223P~
モスクワ大学のホフロフ総長の招待を受け、ボリショイ劇場で、バレエ「くるみ割り人形」を鑑賞した。話題は戦争に及んだ。「ナチス・ドイツが侵攻してきた時、モスクワは陥落すると考えませんでしたか」総長は、微笑みを浮かべ、明言した。「思いませんでした。市民は、われらが首都を守り抜くのだと、強く決心していました。」
愛する街を守ろうとする強い思いが、人びとの心に宿る、敵への恐れや臆病を駆逐していったのだ。そして、断じて勝つという、不屈の闘魂を燃え上がらせたのである。
深夜伸一たちは 特急寝台列車「赤い矢」号で、レニングラードへ向かった。8時間半の快適な旅であった。当初、レニングラードは、ドイツ風にサンクトペテルブルクと呼ばれていた。
ソ連の駅名は、列車の駅名になっている。モスクワ行の列車が出発するから「モスクワ」駅である。混乱するという青年に伸一は答えた。「その国、その地域の、文化、伝統、生活様式があるんだから、それをそのまま受け入れていくことが大事だ」
青年は伸一の柔軟な考え方に感嘆した。"先生は、違いをそのまま受け入れ、むしろ、そこに敬意を払っている。相互理解や友好のために最も必要なことは、この姿勢ではないだろうか"
第二次世界大戦の犠牲者が眠るピスカリョフ墓地を訪ねた。兵士と市民が一丸となり、約900日の攻防戦を展開。その戦いで百万を超える兵士、民間人が亡くなった。そのうち60数万人が餓死であった。
墓地の入り口にある、記念資料館を見学した。『ターニャの日記』として知られる9枚のメモには、この攻防戦のなかで、飢えと寒さのために、家族が次々と亡くなっていったことが淡々と記されていた。
伸一は、怒りに体が震える思いがした。墓地に献花し、胸が熱くなった。伸一は怒りをかみしめるように語った。「私は知りませんでした。いや、日本人の多くは、ソ連の人たちが、戦争でこれほど悲惨な思いをしたことを知りません。なぜソ連の指導者は、もっと世界に、この事実を知らせないのですか。ソ連の指導者がしないならば、微力ですが、私が訴えていきます!」強い口調であった。
モスクワ大学のトロ―ピン副総長は説明を聞くと、目を潤ませた。伸一の心に、深く感動したのだ。
翌14日、伸一たちはレニングラード大学を訪問した。セズニャコフ副総長は「わが大学の最大の誇りは『革命的精神』です。」と誇らかに語った。大学では、攻防戦の時にも、防空壕などで講義が行われていたのだ。博士論文の審査も、防空壕や地下室で続けられた。多くの学者が誕生しているのである。
人類の未来を見すえる学究者、教育者は、等しく、国境やイデオロギーを超えた人間の交流を希望しているのだ。地球は一つである。人類も一つである。人間同士、手を取り合うことは歴史の必然である。
それから伸一たちは、ピョートル宮殿、エルミタージュ美術館などを見学した。
翌日、宗教都市・ザゴルスク市へと向かった。ソ連側の強い勧めによるものであった。パトカーに先導され、十数台の車が連なって進んだ。14世紀以来、ロシア正教の中心地である。伸一たちは神学アカデミーを訪問し、ウラジミル学長らと昼食を共にしながら会談した。
二人は、共通した運命を感じた。互いに兄の死と平和への渇望が、求道の契機となっているのだ。
9月16日は、モスクワ大学と創価大学の、交流に関する議定書の調印式の日であった。会場のモスクワ大学には、テレビ、新聞など、ソ連の各報道機関が取材に訪れていた。調印式が終わると峯子は、微笑みながら言った。「また一つ、新しい歴史を開きましたね。未来への金の懸け橋が出来ましたね」
伸一は、ノーベル賞作家M・A・ショーロホフと会見するため、モスクワ市内の彼のアパートに向かった。この会見については、伸一の方から希望したものであった。民衆こそが歴史の底流を支えるという、ショーロホフ文学を貫くテーマに、伸一は強い共感を覚えていたからである。
太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋
モスクワ大学のホフロフ総長の招待を受け、ボリショイ劇場で、バレエ「くるみ割り人形」を鑑賞した。話題は戦争に及んだ。「ナチス・ドイツが侵攻してきた時、モスクワは陥落すると考えませんでしたか」総長は、微笑みを浮かべ、明言した。「思いませんでした。市民は、われらが首都を守り抜くのだと、強く決心していました。」
愛する街を守ろうとする強い思いが、人びとの心に宿る、敵への恐れや臆病を駆逐していったのだ。そして、断じて勝つという、不屈の闘魂を燃え上がらせたのである。
深夜伸一たちは 特急寝台列車「赤い矢」号で、レニングラードへ向かった。8時間半の快適な旅であった。当初、レニングラードは、ドイツ風にサンクトペテルブルクと呼ばれていた。
ソ連の駅名は、列車の駅名になっている。モスクワ行の列車が出発するから「モスクワ」駅である。混乱するという青年に伸一は答えた。「その国、その地域の、文化、伝統、生活様式があるんだから、それをそのまま受け入れていくことが大事だ」
青年は伸一の柔軟な考え方に感嘆した。"先生は、違いをそのまま受け入れ、むしろ、そこに敬意を払っている。相互理解や友好のために最も必要なことは、この姿勢ではないだろうか"
第二次世界大戦の犠牲者が眠るピスカリョフ墓地を訪ねた。兵士と市民が一丸となり、約900日の攻防戦を展開。その戦いで百万を超える兵士、民間人が亡くなった。そのうち60数万人が餓死であった。
墓地の入り口にある、記念資料館を見学した。『ターニャの日記』として知られる9枚のメモには、この攻防戦のなかで、飢えと寒さのために、家族が次々と亡くなっていったことが淡々と記されていた。
伸一は、怒りに体が震える思いがした。墓地に献花し、胸が熱くなった。伸一は怒りをかみしめるように語った。「私は知りませんでした。いや、日本人の多くは、ソ連の人たちが、戦争でこれほど悲惨な思いをしたことを知りません。なぜソ連の指導者は、もっと世界に、この事実を知らせないのですか。ソ連の指導者がしないならば、微力ですが、私が訴えていきます!」強い口調であった。
モスクワ大学のトロ―ピン副総長は説明を聞くと、目を潤ませた。伸一の心に、深く感動したのだ。
翌14日、伸一たちはレニングラード大学を訪問した。セズニャコフ副総長は「わが大学の最大の誇りは『革命的精神』です。」と誇らかに語った。大学では、攻防戦の時にも、防空壕などで講義が行われていたのだ。博士論文の審査も、防空壕や地下室で続けられた。多くの学者が誕生しているのである。
人類の未来を見すえる学究者、教育者は、等しく、国境やイデオロギーを超えた人間の交流を希望しているのだ。地球は一つである。人類も一つである。人間同士、手を取り合うことは歴史の必然である。
それから伸一たちは、ピョートル宮殿、エルミタージュ美術館などを見学した。
翌日、宗教都市・ザゴルスク市へと向かった。ソ連側の強い勧めによるものであった。パトカーに先導され、十数台の車が連なって進んだ。14世紀以来、ロシア正教の中心地である。伸一たちは神学アカデミーを訪問し、ウラジミル学長らと昼食を共にしながら会談した。
二人は、共通した運命を感じた。互いに兄の死と平和への渇望が、求道の契機となっているのだ。
9月16日は、モスクワ大学と創価大学の、交流に関する議定書の調印式の日であった。会場のモスクワ大学には、テレビ、新聞など、ソ連の各報道機関が取材に訪れていた。調印式が終わると峯子は、微笑みながら言った。「また一つ、新しい歴史を開きましたね。未来への金の懸け橋が出来ましたね」
伸一は、ノーベル賞作家M・A・ショーロホフと会見するため、モスクワ市内の彼のアパートに向かった。この会見については、伸一の方から希望したものであった。民衆こそが歴史の底流を支えるという、ショーロホフ文学を貫くテーマに、伸一は強い共感を覚えていたからである。
太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋