小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

別海,開拓者

北海道指導

『新・人間革命』第27巻 求道の章 416p~

別海の北海道研修道場で、山本伸一は、菅山に尋ねた。「地域が広いから、活動も大変でしょう」「オートバイ6台、車は5台を、乗りつぶしました。別海の幹部は、皆、そのぐらい走っていると思います。メンバーと会うためでしたら、零下20度ぐらいは、なんでもありません」活動の帰りに吹雪になり、土管の中で一夜を過ごした人や、部員宅を訪問し、吹雪のために三日も帰れなかった人もいるという。

別海での活動は、大自然との闘いなのだ。伸一は、同行の幹部に語った。「誰が広宣流布を進めてきたのか。誰が学会を支えてきたのかーー彼らだよ。健気で、一途で、清らかな、菅山君たちのような“無名無冠の王者”であり、“庶民の女王”だ。

ある人は貧しく、ある人は病身で、辛く、厳しい環境のなかで、時に悔し涙を流し、時に慟哭しながら、御本尊を抱き締め、私と共に広宣流布に立ち上がってくださった。自ら宿命の猛吹雪に敢然と挑みながら、友を励まし、弘教を重ねてこられた。その方々が、広宣流布の主役です。末法出現の地涌の菩薩です。学会の最高の宝なんです」

標津町を訪れ、体調不良に悩む支部長には、健康管理の基本を語るとともに、信心の在り方について懇々と語っていった。経済苦と格闘している大ブロック長もいた。アメリカとソ連が自国の漁業専管水域を二百カイリとし、実施に踏み切ったため、大打撃を受けた。しかし、息子二人を創価大学に在学させ、末の娘も、やがて創価の学び舎で学ばせたいと歯を食いしばり、奮闘していた。

皆が過酷な状況のなかで、懸命に信心に励み、勝利の実証を勝ち取る。その積み重ねが難攻不落の創価の大城を築いてきたのだ。


北海道幹部会では、出来上がったばかりの、支部長・婦人部長バッジの授与が行われた。彼は、「我等が居住の山谷曠野皆皆常寂光の宝処なり」の御文を拝して訴えた。「どこであろうが、私たちが御本尊を持って、広宣流布のために活躍するところは、即寂光の宝処であり、仏国土となるのであります。どうか、今いる場所で勝ってください。それが、大仏法の正義の証明となるからです」

札幌に戻るため、再び140キロの道のりを、釧路空港へと走った。途中、上春別で雑貨店とドライブインを営む、谷沢徳敬と母の千秋のもとへ寄った。徳敬は、獣医への夢が破れた悔しさと悲哀でアルコール依存症になった。その時、兄の勧めで入会した。両親も続いて信心を始めた。

“自分の人生はなぜ、不幸にまつわりつかれているのか”と思っていた母の千秋は、「必ず宿命は転換できる」との話に、息子以上に真剣に信心に励んだ。学会への偏見から客が来なくなっても、“難だ。御書の仰せの通りだ!”と闘志を燃やした。

徳敬は、生活に窮することはなかったが、店を継ぐ決意が固まっていなかった。山本伸一は徳敬の心を見通したかのように「どうか、この上春別の、別海の、大長者になってください」と言った。徳敬は、“先生のご期待にお応えするんだ”と誓った。懸命に祈り、知恵を絞り、オリジナルの土産品を開発。そのなかから幾つもの商品がヒットし、地域のスーパーやホテル、空港、に販路が広がった。

ドライブインの建物は、12坪から二百坪に増築。250台収容の駐車場、土産品製造工場、250人収容の食堂も造り、文字通り、上春別の、別海の、長者となったのである。

この北海道指導は、道内を東西に横断する、16日間に及ぶ渾身の激励行であった。共に記念撮影した人の数は約5千人、延べ二万人を超える会員と会い、励ましたのである。

このころ、宗門は、若手の僧らが急先鋒となって、衣の権威を振りかざし、各寺院で常軌を逸した学会批判を繰り返していた。伸一は、悪逆非道の濁世なれば、全同士の胸中に、何ものにも負けぬ真の信仰の炎を燃やそうと、わが身を燃やして戦った。

烈風が猛れば猛るほど、創価の正義の闘魂が、赤々と強く、激しく燃え盛るーーそれが広布誓願の勇者だ。


<求道の章 終了>
<新・人間革命 第27巻終了>

太字は 『新・人間革命』第27巻より 抜粋

別海の開拓者

『新・人間革命』第27巻 求道の章 401p~

石沢宅を出た伸一たちが向かったのは約70キロ先の別海町の西春別にある個人会館であった。“別海広布”を願う同志の尽力によって、誕生した会館であるという。地元のメンバーと懇談した。語らいのテーマは、別海をどのように繁栄させていくかになった。

さらに、この広大な地域の広宣流布を進めていくうえで、何が大切かも訴えた。「学会員同志が仲良く、どこよりも団結していくことです。」

彼が、別海町尾岱沼の北海道研修道場に到着したのは、午後八時半過ぎであった。伸一は、マフラーを首に巻き、防寒具を着て、建物のなかを回った。“皆、北海の厳しい自然環境に耐えながら頑張り抜き、広宣流布の基盤をつくってくださった尊い方々である・・・”そう思うと、感謝の念が、熱い感動となって込み上げてくるのだった。

伸一は、役員をしていた根室本部の男子部本部長の菅山勝司を紹介されると、「君のことはよく知っています。別海広布の開拓者だもの。三、四年前、『聖教新聞』に体験が載っていたね。すばらしい内容でした」と握手を交わした。菅山は自分の耳を疑った。感動が胸を貫いた。“先生が、俺のことをご存じだなんて!”励ましは、相手を知ることから始まる。

菅山が信心を始めた動機は、“食べるのがやっと”という生活から、抜け出したかったからである。また、もともと内気で、口べたであることに劣等感をいだき、それを克服したいとの、強い思いもあった。菅山は、学会活動を始めた。活動の拠点は釧路であった。経済的にも、時間的にも釧路に行くことは難しく、男子部員4人が手紙で、連絡を取り合うことしかできなかった。

釧路で男子部の会合があると連絡がきたが、汽車賃がなかった。葉書に書いてあった「環境に負けて、いつまでも会合に参加できないと言っていては、成長は望めません」という言葉が深く胸に刺さった。釧路までは列車で3時間である。彼は、自転車で行けばいいんだと決意する。一晩がかり、の百キロを大幅に上回る走行であった。

菅山の顔は、汗と埃にまみれていたが、心は軽やかであった。自らの弱い心を制覇した“求道の王者”の入場であった。男子部の会合では、全参加者が、この“別海の勇者”を大拍手と大歓声で讃えた。彼らは、菅山の姿に、男子部魂を知った。

酪農の仕事には、時間的な制約が多い。菅山は、経済的にも苦闘を強いられていた。郵便配達や板金工場などのアルバイトをし、必死になって働きながら、学会活動に励んだ。5分、10分が貴重だった。
彼は、男子部の地区の責任者である「隊長」の任命を受けた。別海の男子部は、120人になっていた。菅山の活動の足も、オートバイへと変わっていた。百キロ、二百キロと走る日も珍しくなかった。


菅山は、男子部の支部責任者である「部隊長」となり、別海をはじめ、中標津、から弟子屈まで広がる広大な地域であり、面積は福岡県に匹敵した。ここを“戦野”に走りに走った。三百数十人で出発した陣容は、1年後、四百七十人へと拡大する。彼の地道で粘り強い行動と精神は、後輩たちに脈々と受け継がれていった。

第19回男子部総会で、酪農家を志し、東京から別海に移住した杉高優が、8年で得た勝利の歩みを体験発表し、「別海」の名が、一躍、全国に轟いた。杉高のもとへ、通ったのが、菅山が通い続け、立ち上がった青年であった。杉高は、祈りと、努力と、工夫で、経営を立て直し、先輩が自分にしてくれたように、地道に訪問指導を続けた。

杉高の体験談をもとに、学会本部では映画を製作した。タイトルは「開拓者」である。作品を鑑賞した伸一は言った。「別海から、こうしたすばらしい体験が生まれる背景には、皆を励まし、指導してきた“信心の開拓者”が、必ずいるはずだ」その“信心の開拓者”こそ菅山勝司であった。伸一は、菅山の敢闘を讃える一文を、書籍に記して贈った。伸一の励ましに、菅山は泣いた。

菅山は、“地域に、もっと信心の実証を示したい”と決意したが、資金はいたって乏しかった。彼は、原木の伐採から始め、製材や加工、建築などを独力で学びながら、牛舎も、サイロも、すべて自分の手で造ることにした。農機具も中古を購入し、自分で修理しながら使った。資料も自給に努め、牧草を研究し、栄養価の高い草を育て、見事な黒字経営となった。人びとの奇異の目は、感嘆と敬意の目へと変わった。


太字は 『新・人間革命』第27巻より 抜粋
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