小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

共存共栄

生命の大変革 三変土田

『新・人間革命』第24巻 灯台の章  347p 

山本伸一は、団地という集合住宅に住む人たちの心がよくわかった。彼も、団地ではなかったが、青年時代にアパートで暮らした経験があるからだ。

東京都・大田区大森にある「青葉荘」というアパートに移り住んだのは、1949年(昭和24年)5月であった。勤行している時、隣室の人から、小さな声でしてくれと、注意を受けたこともあった。集合住宅では、ことのほか、周囲への配慮が必要なことを学んだ。

伸一が、青年として心掛けていたのは、明るく、さわやかなあいさつであった。同じアパートに住んだのは、決して偶然ではない。深い縁があってのことだ。だから、近隣の人びとを大切にし、友好を結ぼうと思った。

伸一は、自分の部屋で座談会も開いた。何人かのアパートの住人や近隣の人たちにも声をかけ、座談会に誘った。そのなかからも、信心をする人が出ている。周囲の人々の幸せを願っての友好の広がりは、おのずから、広宣流布のひろがりとなっていくのである。

1952年5月に峯子と結婚する。8月には、大田区山王のアパート「秀山荘」に移った。伸一は、すぐに名刺を持って、近所にあいさつに回った。正弘が成長し、走り回るようになると、妻の峯子は、隣室や上の部屋に気を使い、なるべく早く寝かしつけるようにした。

いずこの地であれ、誠実さをもって、気遣いと対話を積み重ねていくなかで、友好の花は咲き、信頼の果実は実るのだ。

山本伸一は、団地は、社会の一つの縮図であると考えていた。日本の社会は、やがて、先例のない高齢化の時代を迎えることが指摘され始めていた。古い団地は、たいていエレベーターもなく、また、高齢者や障がい者のためのスロープなども設けられていなかった。

伸一が、何よりも痛感していたのは、人と人との絆を固くし、強い共同体意識を育まねばならぬということであった。将来、高齢者の独り暮らしなどが増えていけば、隣近所の声かけや励まし、助け合いなどが、ますます必要不可欠なものとなるからだ。

災害への対策や防犯などに置いても、行政の支援だけでなく、住民相互の協力や結束こそ、地域を支える大きな力となる。そのために必要なことは、同じ地域、同じ団地のなかにあって、互いに人びとのために尽そうとする、心のネットワークづくりである。人間の心が通い合う新しいコミュニティーの建設である。

"分断された人間関係の果てにあるのは、孤独の暗夜だ。それを転ずるのが団地部だ"
1977年2月17日、山本伸一を迎えて、第一回「農村・団地部勤行集会」が開催された。伸一は、懇談的に話をすすめた。

「大聖人は、『心の一方より国土世間も出来する事なり』と仰せだからです。国土の違いも、わが一念から起こり、わが一念に国土も収まります。心の力は偉大です。何があっても負けない、強い、強い信心の一念があれば、一切の環境を変えていくことができる。それが『三変土田』の法理です」

「三変土田」とは、法華経見宝塔品第十一で説かれた、娑婆世界等を仏国土へと変えていく変革の法理である。「三変」とは、三度にわたって変えたことであり、「土田」とは、土地、場所を意味している。

天台大師は、国土の浄化は、一念の変革によることを表している、さらに、釈尊が、三度にわたって娑婆世界等を変革したことを、人間の迷いである、見思惑、塵沙惑、無明惑の「三惑」に対応させている。

「三変土田」とは、生命の大変革のドラマであり、自身の境涯革命なのだ。自分の一念の転換が、国土の宿命を転換していくーーこの大確信を胸に、戸田城聖は、敗戦の焦土に、ただ一人立ち、広宣流布の大闘争を転換していったのである。

広宣流布に邁進するわれらの生命は、釈尊すなわち仏であり、地涌の菩薩そのものとなるのである。ゆえに、娑婆世界を現実に「三変土田」させ得る力を有しているのだ。

「この私たちが、"断じて、国土の宿命を転換するのだ!"と、決然と立ち上がり、地涌の菩薩の底力を発揮していくならば、三世十方の仏菩薩にも勝る力が湧現します。しかも、その地域に、地涌の同志が陸続と誕生し、生命の宝塔が林立していくならば、国土が変わらぬわけがありません。ゆえに、なすべきは広宣流布です。」

「どうか農村部、団地部の皆さんは、地域広布の先駆けとなっていただきたい。」


団地部員が広げる友情のネットワーク

『新・人間革命』第24巻 灯台の章 335p 

団地部のメンバーは「1973年(昭和48年)10月の結成以来、我が団地を"人間共和の都"にと、懸命に活動に励んできた。

日本で、団地の建設が本格的に始まったのは、戦後のことである。高度経済成長と軌を一にして、団地は日本全国へと広がっていった。当初、団地の間取りは通常の企画よりも小さい、いわゆる"団地サイズ"であった。

しかし、新しい設備を施した団地は、極めてモダンな、都市生活の見本とされていた。特に若い世代には"団地に住みたい"という願望をいだく人が少なくなかった。「団地族」ともてはやされ、流行語にまでなるのである。入居希望者が多く、4200倍を超える団地もあった。

団地生活は、人びとのあこがれではあったが、その一方で、近所付き合いがあまりないことなどが、問題点として指摘されてきた。団地での"孤独死"も起きていた。騒音問題や人間関係が、にわかにクローズアップされることになったのである。

団地部のメンバーは、こうした事件に心を痛めつつ、自分たちの果たすべき使命を強く自覚していったのである。"私たちの団地を、温かい心と心が通い合う人間卿にしなければ・・・"身近に起こっている問題から目を背けるのではなく、それを自身の問題ととらえ、解決のために全力を尽くすーーそれが、立正安国の実現をめざす仏法者の生き方である。

団地入居者の世帯主は、30代が最も多く、若い世代が大半を占めていた。世代が若くなるにつれて、プライバシー意識が高くなり、できるだけ人との関りを避けようとする傾向が強かった。それが、隣家との"心の壁"を厚くしていた面があったことも否めない。

人との関りを断てば、人付き合いに伴う煩わしさを避けることはできる。しかし、集合住宅では、互いに配慮したり、皆で協力しなければならないことも多い。

人間が生きるには、人との協調や気遣い、また、礼儀やマナー、支え合い、助け合いが不可欠である。その心を育むには人間をどうとらえるかという哲学が必要である。まさに、それを教えているのが仏法なのである。

仏法の基本には、「縁起」という教説がある。「縁りて起こる」と読み、一切の現象は、さまざまな原因と条件が相互に関連して生ずるという考え方である。つまり、物事は、たった一つだけで成立するのではなく、互いに依存し、影響して成り立っているのである。人間もまた、一人だけで存在しているのではない。互いに関係し、助け合って生きているのである。

団地部のメンバーは、自分住む団地を、"人間共和の都"にしていこうと、各人が積極的に、行動を起こしていった。自治会の役員などを進んで引き受け、住民のために奔走し、献身していった人も少なくない。

大阪では、泉北ニュータウンの団地で、自治会の運動が実り、団地内に駐車場が完成したことが報じられた。この運動の中心となってきたのが、団地内に住む自治会長を務める学会員の婦人であった。以前は、路上に駐車する車で道がふさがれ、消防車も入ることができないような状態であった。

山本伸一は、折々に「学会員は地域の幸福責任者です」と訴えてきた。この指導は、同志の胸中に深く根差し、社会貢献という使命の自覚を促してきたのである。

学会員のなかには、かつては、社会の底辺で宿命に泣き、来る日も来る日も、ため息まじりに生きてきた人たちも少なくない。その庶民が、決然と頭を上げて、あの地、この地で、社会建設の主役となって、表舞台に躍り出たのだ。そこに、創価学会が成し遂げてきた民衆教育の、刮目すべき偉大な功績がある。

日蓮大聖人は、「人のために火をともせば・我がまへあきらかなるがごとし」と仰せである。そこには、他者への献身が、自身のためにもなるという、共存共栄の思想がある。「立正安国論」には、わが身の安穏を願うならば、地域、社会の安泰を実現しなければならないと言われているのだ。

学会員には、こうした考えに則った行動が、各人の生き方として確立されていたのだ。団地部メンバーの貢献は、いずこの地にあっても、目を見張るものがあった。

学会員が、一つ一つの事柄に対して、懸命に、誠実に取り組み、さまざまな貢献の実績を残すうちに、「学会の人は、よう頑張りはるなぁ」との、簡単の声が上がり始めた。そして、次第に皆が協力してくれるようになっていった。「人間疎外」から「人間共和」へーー団地部員の運動は、各地に人間の輪、友情のネットワークを広げていったのである。


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