『新・人間革命』第9巻 新時代の章 P53~
今回の訪問国は、オーストラリア、セイロン、インドの3か国であった。
伸一の海外訪問と並行して「オーストラリア」「インド・セイロン・シンガポール」「インドネシア・フィリピン」「タイ・カンボジア・ベトナム」「香港・沖縄」の5グループに分かれ、幹部が、派遣されることになっていた。本格的な交流の開幕であった。
太字は 『新・人間革命』第9巻より
なかでも、公明政治連盟の問題については、彼が悩み抜いたテーマであった。師である戸田城聖は、よく「衆議院には進出しなくともよい」と語っていたからである。だが、将来については、「来るべき時が来たら、衆議院にも人を送る。」と言っていたことを、伸一は忘れなかった。
“では、戸田先生の言われた「来るべき時」とは、いつをいうのであろうか”伸一は考え悩んだ。
それは、まず、民衆の要望といえよう。今、その要望は、本当にあるのだろうか。保守も革新も、党利党略に走り、政治不信がつのるなかで、新しい政治家、政党を求める声が民衆の間に澎湃と起こっていることは事実である。
それらを思い合わせると、衆議院への進出の「時」は来ていると、考えざるを得なかった。しかし、創価学会の政治部員がそのまま公政連の議員というかたちで、衆議院に同志を送り出すことは、避けなければならないと思った。
仮に学会員のままで、衆議院に進出したとしても、それは本来、憲法で定める政教分離の原則に抵触するものではない。政教分離の原則は、もともと、戦時中の歴史をふまえ、国家権力から宗教を守るために、国家権力の非宗教性を制度として定めたものであるからだ。
だが、伸一は、宗教と政治とは次元を異にするがゆえに、学会と政治団体である公政連とは、一定の距離を置くべきであると、かねてから考えてきた。そして、協議の末に、学会の政治部を解消することにしたのである。
それでも、やがて公政連が、衆議院に進出することになれば、支援団体である創価学会は、既成政党の激しい攻撃の的になるであろうことは、覚悟しなければならなかった。また、諸外国の政府は、学会を政治的な団体とみて、警戒を強めるであろうことも予測された。伸一の苦悩は、限りなく深かった。
政党をつくり、衆議院に進出するならば、それにともなう危険は、あまりにも大きい。場合によっては、衆議院に進出すれば、政治上の問題から、学会が攪乱されないとも限らない。それでも、大聖人の仏法を社会に開くためにあえて突き進まざるをえないであろうというのが、伸一の結論であった。
伸一は、「本門の時代」とは、学会としても、また会員個人としても、仏法を根本に、本格的な人間文化を開花させ、社会に貢献していく時代であるととらえていた。
だが、世間はその趣旨を理解しようとはしなかった。
すべてに裏があるかのように考え、崇高なものを卑小化してとらえる日本の風土は、精神の貧困さの反映といえまいか。その誤った認識を打ち砕くには、それぞれの分野にあって、着実に実績を積み上げていく以外にない。
それは、長く、遠い道程であろうが、真実は 必ず勝つものだ。
11日に日大講堂で行われた男子部幹部会の席上、山本伸一は、正式に、公政連を政党とし、「公明党」を結成することを提案。以後、本格的に公政連として結党にむけて準備が進められていくことになったのである。
「本門の時代」の開幕を待っていたかのように、会長山本伸一は、世界への新しき旅を開始した。“では、戸田先生の言われた「来るべき時」とは、いつをいうのであろうか”伸一は考え悩んだ。
それは、まず、民衆の要望といえよう。今、その要望は、本当にあるのだろうか。保守も革新も、党利党略に走り、政治不信がつのるなかで、新しい政治家、政党を求める声が民衆の間に澎湃と起こっていることは事実である。
それらを思い合わせると、衆議院への進出の「時」は来ていると、考えざるを得なかった。しかし、創価学会の政治部員がそのまま公政連の議員というかたちで、衆議院に同志を送り出すことは、避けなければならないと思った。
仮に学会員のままで、衆議院に進出したとしても、それは本来、憲法で定める政教分離の原則に抵触するものではない。政教分離の原則は、もともと、戦時中の歴史をふまえ、国家権力から宗教を守るために、国家権力の非宗教性を制度として定めたものであるからだ。
だが、伸一は、宗教と政治とは次元を異にするがゆえに、学会と政治団体である公政連とは、一定の距離を置くべきであると、かねてから考えてきた。そして、協議の末に、学会の政治部を解消することにしたのである。
それでも、やがて公政連が、衆議院に進出することになれば、支援団体である創価学会は、既成政党の激しい攻撃の的になるであろうことは、覚悟しなければならなかった。また、諸外国の政府は、学会を政治的な団体とみて、警戒を強めるであろうことも予測された。伸一の苦悩は、限りなく深かった。
政党をつくり、衆議院に進出するならば、それにともなう危険は、あまりにも大きい。場合によっては、衆議院に進出すれば、政治上の問題から、学会が攪乱されないとも限らない。それでも、大聖人の仏法を社会に開くためにあえて突き進まざるをえないであろうというのが、伸一の結論であった。
伸一は、「本門の時代」とは、学会としても、また会員個人としても、仏法を根本に、本格的な人間文化を開花させ、社会に貢献していく時代であるととらえていた。
だが、世間はその趣旨を理解しようとはしなかった。
すべてに裏があるかのように考え、崇高なものを卑小化してとらえる日本の風土は、精神の貧困さの反映といえまいか。その誤った認識を打ち砕くには、それぞれの分野にあって、着実に実績を積み上げていく以外にない。
それは、長く、遠い道程であろうが、真実は 必ず勝つものだ。
11日に日大講堂で行われた男子部幹部会の席上、山本伸一は、正式に、公政連を政党とし、「公明党」を結成することを提案。以後、本格的に公政連として結党にむけて準備が進められていくことになったのである。
今回の訪問国は、オーストラリア、セイロン、インドの3か国であった。
伸一の海外訪問と並行して「オーストラリア」「インド・セイロン・シンガポール」「インドネシア・フィリピン」「タイ・カンボジア・ベトナム」「香港・沖縄」の5グループに分かれ、幹部が、派遣されることになっていた。本格的な交流の開幕であった。
太字は 『新・人間革命』第9巻より