『新・人間革命』第19巻 虹の舞の章 24P~
西表の代表が、踊っているメンバーと同じハッピと鉢巻を伸一に差し出した。伸一はハッピを着て、鉢巻を締め、踊りの輪に入って一緒に踊り始めた。
島の名士たちは、創価学会に対しては「暴力宗教」などという捏造された噂も耳にしていた。しかし、今、会長の伸一の振る舞いを目の当たりにして、それが、いかに根も葉もない中傷であったかを、実感するのであった。
「ヤドピケの浜」では、八重山の暮らし漁を体験した。伸一は、石垣島の未来像について言及していった。そして、20年後、30年後には、「日本のハワイ」として、必ず、脚光を浴びていくと断言し、こう語った。「そうした時代になればなるほど、八重山の自然や伝統文化を守ることが大事になります。経済的な豊かさばかりを追い求め、自然を破壊し、伝統文化を失っていくならば、本末転倒であり、八重山の生命線を断つことになる」
「自然を守るには、依正不二を説いた生命の哲学が必要です。また、真の幸福を築き上げるには、拝金主義に陥ったり、欲望などに翻弄されることなく、自分を律していける人間革命が不可欠です」
「人生には、さまざまな困難や苦悩がある。真実の幸福は、いかなる事態に直面しても、決して負けない、強い心をもつ以外にありません。さらに、日々、歓喜し、感動し、感謝できる、豊かな心をもつことです。そのための信心です。だからこそ、地域の繁栄と、皆の幸福を考えるならば、八重山の広宣流布が大事になるんです」
伸一は、ここに集ったメンバーで「ヤドピケ・グループ」を結成することを提案した。さらに、大学進学のため、八重山を出ていった青年たちが、地元に戻ってきていることを聞き、『八重山学生会』を結成してはと提案した。
「私たちの願いは、島の人びとの幸福と、郷土の繁栄です。したがって社会と学会の間に壁をつくってはならない。"地域のために尽そう。社会に貢献しよう"という強い一念があってこそ、仏法を社会に開くこともできるし、広宣流布の広がりも生まれる。『立正安国論』にも『一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を禱らん者か』と仰せです。」
同志は次第に増え、山本伸一が 沖縄を初めて訪問した60年には八重山に地区が誕生し、その4年後には支部が結成された。しかし、八重山の社会は、土俗信仰が根強く、御書の仰せ通りに、たびたび三障四魔の嵐が吹き荒れた。偏見と誤解から「村の秩序を乱す宗教には、葬儀の道具などは一切貸さない」という村落もあった。青年部員が暴力を振るわれたこともあった。それでも、島の発展と皆の幸福を願う同志は、一歩も退かなかった。
「二年後に石垣島に山本先生が来られる!」"山本先生を迎えるまでに、さらに、八重山の広宣流布を進めよう!"伸一の訪問を思い描いて、歯を食いしばって頑張り抜いた。
記念撮影会の参加者のなかには、日本最南端の有人島である波照間島から、勇んで駆けつけた同志もいた。この前日、風雨のために、波照間島からの定期船は止まってしまった。メンバーは、やむなく小舟を雇い、西表島を経由し、8時間がかりで石垣島に来たのだ。
"八重山の同志と、生涯にわたる生命と生命の絆をつくるのだ!"伸一は必死であった。『八重山広宣流布の記念碑』を建立したり、竹富町立中学校への図書贈呈などが行われ、引き続き『八重山祭』が行われた。
「二年後に石垣島に山本先生が来られる!」"山本先生を迎えるまでに、さらに、八重山の広宣流布を進めよう!"伸一の訪問を思い描いて、歯を食いしばって頑張り抜いた。
記念撮影会の参加者のなかには、日本最南端の有人島である波照間島から、勇んで駆けつけた同志もいた。この前日、風雨のために、波照間島からの定期船は止まってしまった。メンバーは、やむなく小舟を雇い、西表島を経由し、8時間がかりで石垣島に来たのだ。
"八重山の同志と、生涯にわたる生命と生命の絆をつくるのだ!"伸一は必死であった。『八重山広宣流布の記念碑』を建立したり、竹富町立中学校への図書贈呈などが行われ、引き続き『八重山祭』が行われた。
『八重山祭』は、社会に開かれた市民祭として開催したもので、メンバーだけでなく、地元の名士をはじめ、多数の市民が参加し、2千人ほどの人が会場を埋めていた。
同行の幹部に語った。「八重山の広宣流布は19年前から始まったんだ。それが、これほどの広がりとなった。つまり、20年間、本気で戦えば、どんな地域でも大きく変えられるということだ。しかし、本当の決意と行動がなければ何年たっても何も変えることはできない。大事なことは戦いを起こし、戦い続けるということだよ。」
同行の幹部に語った。「八重山の広宣流布は19年前から始まったんだ。それが、これほどの広がりとなった。つまり、20年間、本気で戦えば、どんな地域でも大きく変えられるということだ。しかし、本当の決意と行動がなければ何年たっても何も変えることはできない。大事なことは戦いを起こし、戦い続けるということだよ。」
西表の代表が、踊っているメンバーと同じハッピと鉢巻を伸一に差し出した。伸一はハッピを着て、鉢巻を締め、踊りの輪に入って一緒に踊り始めた。
島の名士たちは、創価学会に対しては「暴力宗教」などという捏造された噂も耳にしていた。しかし、今、会長の伸一の振る舞いを目の当たりにして、それが、いかに根も葉もない中傷であったかを、実感するのであった。
「ヤドピケの浜」では、八重山の暮らし漁を体験した。伸一は、石垣島の未来像について言及していった。そして、20年後、30年後には、「日本のハワイ」として、必ず、脚光を浴びていくと断言し、こう語った。「そうした時代になればなるほど、八重山の自然や伝統文化を守ることが大事になります。経済的な豊かさばかりを追い求め、自然を破壊し、伝統文化を失っていくならば、本末転倒であり、八重山の生命線を断つことになる」
「自然を守るには、依正不二を説いた生命の哲学が必要です。また、真の幸福を築き上げるには、拝金主義に陥ったり、欲望などに翻弄されることなく、自分を律していける人間革命が不可欠です」
「人生には、さまざまな困難や苦悩がある。真実の幸福は、いかなる事態に直面しても、決して負けない、強い心をもつ以外にありません。さらに、日々、歓喜し、感動し、感謝できる、豊かな心をもつことです。そのための信心です。だからこそ、地域の繁栄と、皆の幸福を考えるならば、八重山の広宣流布が大事になるんです」
伸一は、ここに集ったメンバーで「ヤドピケ・グループ」を結成することを提案した。さらに、大学進学のため、八重山を出ていった青年たちが、地元に戻ってきていることを聞き、『八重山学生会』を結成してはと提案した。
「私たちの願いは、島の人びとの幸福と、郷土の繁栄です。したがって社会と学会の間に壁をつくってはならない。"地域のために尽そう。社会に貢献しよう"という強い一念があってこそ、仏法を社会に開くこともできるし、広宣流布の広がりも生まれる。『立正安国論』にも『一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を禱らん者か』と仰せです。」
太字は 『新・人間革命』第19巻より 抜粋