小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

八重山

八重山の繁栄

『新・人間革命』第19巻 虹の舞の章 24P~

同志は次第に増え、山本伸一が 沖縄を初めて訪問した60年には八重山に地区が誕生し、その4年後には支部が結成された。しかし、八重山の社会は、土俗信仰が根強く、御書の仰せ通りに、たびたび三障四魔の嵐が吹き荒れた。偏見と誤解から「村の秩序を乱す宗教には、葬儀の道具などは一切貸さない」という村落もあった。青年部員が暴力を振るわれたこともあった。それでも、島の発展と皆の幸福を願う同志は、一歩も退かなかった。

「二年後に石垣島に山本先生が来られる!」"山本先生を迎えるまでに、さらに、八重山の広宣流布を進めよう!"伸一の訪問を思い描いて、歯を食いしばって頑張り抜いた。

記念撮影会の参加者のなかには、日本最南端の有人島である波照間島から、勇んで駆けつけた同志もいた。この前日、風雨のために、波照間島からの定期船は止まってしまった。メンバーは、やむなく小舟を雇い、西表島を経由し、8時間がかりで石垣島に来たのだ。

"八重山の同志と、生涯にわたる生命と生命の絆をつくるのだ!"伸一は必死であった。
『八重山広宣流布の記念碑』を建立したり、竹富町立中学校への図書贈呈などが行われ、引き続き『八重山祭』が行われた。

『八重山祭』は、社会に開かれた市民祭として開催したもので、メンバーだけでなく、地元の名士をはじめ、多数の市民が参加し、2千人ほどの人が会場を埋めていた。

同行の幹部に語った。「八重山の広宣流布は19年前から始まったんだ。それが、これほどの広がりとなった。つまり、20年間、本気で戦えば、どんな地域でも大きく変えられるということだ。しかし、本当の決意と行動がなければ何年たっても何も変えることはできない。大事なことは戦いを起こし、戦い続けるということだよ。」

西表の代表が、踊っているメンバーと同じハッピと鉢巻を伸一に差し出した。伸一はハッピを着て、鉢巻を締め、踊りの輪に入って一緒に踊り始めた。

島の名士たちは、創価学会に対しては「暴力宗教」などという捏造された噂も耳にしていた。しかし、今、会長の伸一の振る舞いを目の当たりにして、それが、いかに根も葉もない中傷であったかを、実感するのであった。

「ヤドピケの浜」では、八重山の暮らし漁を体験した。伸一は、石垣島の未来像について言及していった。そして、20年後、30年後には、「日本のハワイ」として、必ず、脚光を浴びていくと断言し、こう語った。「そうした時代になればなるほど、八重山の自然や伝統文化を守ることが大事になります。経済的な豊かさばかりを追い求め、自然を破壊し、伝統文化を失っていくならば、本末転倒であり、八重山の生命線を断つことになる」

「自然を守るには、依正不二を説いた生命の哲学が必要です。また、真の幸福を築き上げるには、拝金主義に陥ったり、欲望などに翻弄されることなく、自分を律していける人間革命が不可欠です」

「人生には、さまざまな困難や苦悩がある。真実の幸福は、いかなる事態に直面しても、決して負けない、強い心をもつ以外にありません。さらに、日々、歓喜し、感動し、感謝できる、豊かな心をもつことです。そのための信心です。だからこそ、地域の繁栄と、皆の幸福を考えるならば、八重山の広宣流布が大事になるんです」

伸一は、ここに集ったメンバーで「ヤドピケ・グループ」を結成することを提案した。さらに、大学進学のため、八重山を出ていった青年たちが、地元に戻ってきていることを聞き、『八重山学生会』を結成してはと提案した。

「私たちの願いは、島の人びとの幸福と、郷土の繁栄です。したがって社会と学会の間に壁をつくってはならない。"地域のために尽そう。社会に貢献しよう"という強い一念があってこそ、仏法を社会に開くこともできるし、広宣流布の広がりも生まれる。『立正安国論』にも『一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を禱らん者か』と仰せです。」



太字は 『新・人間革命』第19巻より 抜粋

沖縄広布20周年

『新・人間革命』第19巻 虹の舞の章 7P~

<『新・人間革命』第19巻 開始>
<虹の舞の章 開始>

1974年(昭和49年)2月2日、山本伸一は妻の峯子と共に、沖縄の天地に立った。6日間にわたる香港訪問を終えて、休む間もなく、沖縄に向かったのである。沖縄が本土復帰してからは、初めての訪問であった。


74年は、沖縄広布20周年の佳節にあたっていた。沖縄は、広宣流布の新章節に向かって飛び立つ"旅立の朝"を迎えたのだ。まさに、「新生・沖縄」の出発であった。

伸一は、本土復帰は実現したが、それは、沖縄の平和と幸福を築くうえで、第一歩を印したにすぎないと考えていた。むしろ、これからが、本当の試練と挑戦の時代であるというのが、彼の認識であった。

伸一は皆に尋ねた。「復帰後の沖縄は、どう変わりましたか」政治も経済も、その実像は民衆の暮らしに端的に現れる。真実は評論家の言葉にではなく、生活者の声にある。「民の声」こそが、「天の声」なのだ。

沖縄では、復帰とともに、通貨は米ドルから円へと切り替えられた。かつては1ドル360円の固定相場制であったが、復帰前年に変動相場制となって、円高が進み、通過切替の交換レートは305円となったのである。通過切替に乗じて物価が上げられ、その後も高騰が続いていた。また、本土の企業や観光会社などが、沖縄の土地の買い占めに走り、地価も著しく高騰した。

基地のさまざまな問題も、復帰前とほとんど変わっていないと話し、人びとの関心がモノやお金に向かい、心が荒廃してきているようで、特に子どもたちの心は荒んできていると話す上間球子。人間革命の大仏法を広宣流布しかないと話す壮年。

「状況や事態は、刻々と移り変わっているし、時代も人びとの感性も変化している。したがって、広宣流布を進めるうえでも、常に新しい挑戦を忘れてはならない。」

翌日、八重山諸島の石垣島へ向かった。西表島長に推薦されていたのが、島盛長英だった。彼は竹富島の生まれで、5歳の時に父を亡くし、長兄も早世し、母が生計をたてる貧しい暮らしだった。小学校6年の時、飼っていた牛が暴走し、振り落とされた長英は複雑骨折し、右腕を切断することになってしまった。ハンディに負けず、島の青年団長になり、竹富島に診療所ができると、手伝いながら医学を学んだ。そこで「介補」の資格を取得。その後、西表島でマラリアの撲滅に奮闘。島の医療を一人でになった。彼は、姉夫婦から仏法の話を聞くが、信じられず3年間反対していたが、学会の教える「生命力」という考えに共鳴し入信した。島の人たちの生命を真剣に守り抜いてきた島盛に、人びとは信心を始める人もいた。

大旱魃や大型台風が島を襲い、多くの島民が沖縄本土へ移るなか、西表に残った同志は、歯を食いしばって奮闘してきたのである。石垣島長の候補になっていた与那原朝明は、臨床検査技師をしていて、八重山長に推された石山賢著は、クリーニング業を営み、皆、深く地域に根差し、大きな信頼を勝ち取っていた。

人びとの信頼という土壌の上に、広宣流布の花は開くのだ。ゆえに、大事なのは人材である。だからこそ日蓮大聖人は『法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し』と仰せなのである。


八重山諸島に、最初に妙法の火がともされたのは、1955年(昭和30年)の4月のことであった。沖縄広布の一粒種である高見福安・清子夫妻から清子の兄にあたる石山賢著が仏法の話を聞いて信心を始めたのである。経済苦と喘息に悩んでの入会であった。

石山は勤行をするうちに、体調がよくなり、功徳を実感し、弘教に励み始めた。石垣島はもとより、島から島を尋ねては仏法対話を重ねた。

太字は 『新・人間革命』第19巻より 抜粋

カテゴリー


新・人間革命 第30巻 下 / 池田大作 イケダダイサク 【本】


→メルマガで届く 『小説 新・人間革命』に学ぶ
ブログでは 言えないこと

メルマガ『勝利の哲学 日蓮大聖人の御書に学ぶ』