小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

八王子

創価大学開学

『新・人間革命』第15巻 創価大学の章 116P~ 

期待の声の一方で、偏見と憶測に基づく創価大学への批判も、社会には少なくなかった。「創価大学は、学会のエリート幹部を養成する大学であり、偏った宗教教育が行われる」とか、「卒業生を各界に送り出し、国家、社会を支配し、意のままに操ることにある」など、妄想じみた話も流された。

学会が反社会的な集団であるかのように思わせ、イメージダウンを図ろうとした、嫉妬による悪質な喧伝であったといってよい。前年、創価学会は「言論・出版問題」の嵐に襲われたが、今なお、会長の山本伸一を狙い撃ちにし、学会の前進を阻もうとする勢力の画策は続いていたのだ。

創価大学は、牧口常三郎の創価教育を根本にした大学であり、さらに、その根底には、仏法の人間主義の哲理がある。そして、真実の仏法は、万人に尊極の「仏」を見る、生命の尊厳と平等の哲理である。人類の幸福と平和を実現する、普遍的な原理を説き示しているのが仏法であり、決して特別なものではない。仏法の精神は人道となって、光輝くのである。

それを、教育の基本理念として具体化したのが、「人間教育の最高学府たれ」「新しき大文化建設の揺籃たれ」「人類の平和を守るフォートレスたれ」とのモットーである。

ゆえに伸一は、大学として特別な宗教教育はしなくとも、教職員や学生が、この建学の基本理念に賛同し、その実現に取り組むなかに、仏法の人間主義の精神は、創価大学の教育に、自ら脈打つはずであると確信していた。教職員の人格、生き方を通して、創価教育の道を開いてほしいというのが彼の希望でもあった。

開学式の行われた日、伸一は、戸田城聖の墓前に誓ったのである。「わが生涯をかけて、この創価大学を、日本一、世界一の大学にしてまいります」

4月2日開学式が行われた。校舎の正面玄関の左右に立つ、一対のブロンズ像の除幕式が行われた。伸一が、大学のシンボルとして寄贈したものである。作者はフランスの彫刻家アレクサンドル・ファルギエールである。

向かって右側の台座には、「労苦と使命の中にのみ 人生の価値は生まれる」との、伸一の言葉が刻まれていた。そして、左側にはの台座には、「英知を磨くは何のため 君よそれを忘るるな」と、刻まれていた。

学問や学歴は、本来、立身出世のための道具ではない。人びとの幸福に寄与するためであり、むしろ、大学で学ぶのは、大学に行けなかった人たちに奉仕し、貢献するためであるといってもよい。ましてや、創価大学は多くの民衆の真心によって実現した大学である。それだけに、創大生には、その学問の目的を断じて忘れないでほしかったのである。

この二つの言葉は、新入生たちの永遠の指針となっていくのである。

4月10日、いよいよ入学式の日を迎えた。教授たちもまた、烈々たる建設の気概にあふれていた。「松下村塾から近代日本の指導者が出たように、これから創価大学という、いわば『創価村塾』で、世界に貢献する大人材を輩出するのだ」との決意に燃えて、この日の入学式を迎えたのである。

学長の中杉和己が、「大学革命」が極めて重要な課題となっていることを強調し、その先駆を担って誕生したのが、創価大学であると語った。「大学革命」は、時代の社会を建設するうえで、伸一が、最もその必要性を痛感してきたテーマであった。

新入生代表の宣誓となった。福岡県出身の田所康之は、「私たちは、使命深きパイオニアであります」と語り、皆、"すべては、私たちの双肩にかかっているのだ。ほかの誰でもない。私たちこそが建設の主役なのだ!"と思った。



太字は 『新・人間革命』第15巻より 抜粋

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創価大学設立構想

『新・人間革命』第15巻 創価大学の章 106P~ 

< 創価大学の章 開始 >

戸田が伸一に、最初に大学設立の構想を語ったのは、忘れもしない1950年(昭和25年)11月16日のことであった。伸一、22歳の晩秋である。

それは、戸田の経営する東光建設信用組合が経営不振から営業停止となり、戸田が学会の第5回総会で、正式に理事長を退いて4日後の、まさに窮地のさなかのことであった。「人類の未来のために、必ず創価大学をつくらねばならない。しかし、私の健在なうちにできればいいが、だめかもしれない。伸一、その時は頼むよ。世界第一の大学にしようじゃないか!」

最悪の事態のなかで、師は弟子に、大学設立の希望を語り、その実現を委ねたのである。伸一は、この言葉を遺言として受け止め、深く、深く、心に刻んだ。

戸田の胸の中でも、学校創立の構想は、年とともに具体化していった。八王子方面を通りかかった時、戸田は、伸一に言った。「いつか、この方面に創価教育の城をつくりたいな」翌年戸田は、力強く宣言した。「幼稚園から大学まで、一貫教育の学校をつくる。必ず、日本一のがっこうにするよ!」

戸田は、教育の城の実現を見ずして世を去った。創価大学の創立は、牧口常三郎、戸田城聖の念願であり、三代にわたる師弟の精神の結晶として、伸一が断じて成し遂げねばならぬ、一大事業であった。戸田が彼に、その構想を語って以来21年、伸一は、大学設立を実現するため、全生命を注いできたのである。

大学の場所は、豊かな緑に恵まれた広々としたキャンパスで、富士山が見える土地で、都市の喧騒を離れ、冬は少し寒いぐらいで、都心からの交通の便も良い所で、さらに八王子は夕焼けの美しさにも魅せられた。

八王子という名前も、法華経序品に、「日月灯明仏」が出家前王であり、八人の王子がいて、八人の王子が世界をリードしていったと説かれている。伸一は、その八王子という名の場所に大学が建つことに、深い意義を感じた。多くの人材を輩出し、人類の幸福と平和を築く創価大学の使命を、象徴しているように思えてならなかった。

学校建設にあたり、資金の捻出に苦心した伸一は、自分が原稿を書き 働きに働いて資金をつくろうと決意した。自分の全印税7億円を投入、また、学会の出版物による学会収益の25億円も、大学の設立に使われ、学会からの寄付金も投入されたがまだ、足りず、寄付金を公募した。

そして12億円が集まり、創価大学が設立できたのである。寄付をしてくれた方々のなかには質素な暮らしをしている学会員も少なくなかったが、世界の平和を築くリーダーを育成する大事業に参加できることを誇りとし、真心の寄付をしてくれた多くの真心によって建てられたのが創価大学である。

入学試験が行われると募集に対して、文学部では、24・5倍、他の学部でも12倍以上の、新設校としては異例の高い競争率となった。それを聞くと伸一は、「ありがたいね。しかし、そのなかの多くの人が不合格になってしまうんだな。そう思うと、かわいそうでならない」と顔を曇らせた。できることなら、全員に合格してもらいたいというのが、伸一の真情であったのである。

1971年 3月16日、落成開学祝賀会が行われたが、伸一は、出席しなかった。伸一は、大学を創立するが、あとは、学長、理事長をはじめ、大学関係者に、すべてまかせるつもりであった。

創価大学には、それぞれの分野で第一人者といわれる、錚々たる学者が集ってくれた。皆、山本伸一の教育理念、教育哲学に共感し、創価大学に教育の理想を見いだし、勇んで集ってくれたのである。


太字は 『新・人間革命』第15巻より 抜粋

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