小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

信義

日中の留学生交流の歴史

『新・人間革命』第28巻 革心の章 323p~

歓迎宴は、和気あいあいとした雰囲気のなか、各テーブルで語らいが始まった。伸一は、鄧頴超に尋ねた。「鄧頴超先生も、日本にいらっしゃいませんか」「ええ、日本へは、ぜひ行きたいと思います」全国人民代表大会常務委員会副委員長であり、周恩来の夫人である鄧頴超が、訪日の意向を明らかにしたのだ。伸一は「嬉しいです!いつごろお出でくださいますか」と重ねて尋ねた。

「周恩来も桜が好きでしたので、桜の一番美しい、満開の時に行きたいと思います。山本先生は、賛成されますでしょうか」「もちろん大賛成です!創価大学には、周総理を讃える『周桜』が植樹されております。来日の折には、ぜひ、ご覧いただきたい。できれば、周総理と恋愛をされていた時のような気持ちで、日本を訪問していただければと思います」

鄧頴超は70代半ばであったが、人民に奉仕し抜こうとの気概は、いささかも後退することはなかった。思想、信念が本物であるかどうかは、晩年の生き方が証明するといえよう。

孫平化秘書長が、二人の青年を手招きした。新中国からの最初の国費留学生として創価大学に入学し、帰国した二人であった。友好交流の種子は、ここでも大きく育っていたのだ。

翌18日、山本伸一は、中日友好協会を表敬訪問。午後には、趙樸初副会長を訪ね、懇談した。4時過ぎ、北京大学を訪問した。季羨林副学長は、中国を代表する知識人であり、仏教学、言語学、インド学の碩学である。文化大革命では、「走資派」のレッテルを貼られ、残酷な暴行や拷問を受けた。そんな逆境のなかでも、学問への情熱を失うことなく、4年の歳月をかけて、古代インドの大叙事詩「ラーマーヤナ」の翻訳を完成させている。

帰国前日の9月19日山本伸一は、人民大会堂で、副総理でもある李先念党副主席と会見した。現在中国が進めている農業、工業、国防、科学技術の「四つの現代化」の柱は何かを尋ねた。「まず農業です」そして、日本から科学技術などを学びたいとして、こう語った。「留学生や研修生を貴国に送るとともに、こちらで講義をしていただくために、日本からも来ていただきたい」「留学生は1万人ほどになるかもしれません」

伸一は、今こそ日本は、中国からの留学生を全面的に支援し、教育交流を実施する大事な時を迎えていると思った。--日中の留学生交流の歴史は、遥か千四百年前にさかのぼる。日本は、遣隋使、遣唐使として大陸に使節を派遣し、国際情勢や文化を学んだ。

また、清朝末期から中華民国の時代にあたる、明治の後期から日中戦争の開戦まで、今度は、日本が中国から多くの留学生を受け入れた。多い時には、一万人近い留学生が来日したという。終戦、そして、中華人民共和国の成立を経て、再び日本が正式に中国の留学生を迎えたのは、1975年(昭和50年)のことであった。創価大学が、国交正常化後、初となる6人の留学生を受け入れたのである。

もし、李先念副主席の言葉が実現すれば、史上三度目の日中留学生交流の高潮期を迎えることになる。日本への留学は、中国の国家建設に役立つだけではない。青年たちが信頼に結ばれれば、政治や経済が困難な局面を迎えても、時流に流されない友情を育む、万代の友誼の土台となるにちがいない。

そのためには、留学の制度を整えることはもとより、受け入れる日本人も、また、留学生も、さまざまな違いを超えて、“友”として接していこうとする心をもつことである。

会見で伸一は、中国と米国の関係についても、率直に質問した。「国交正常化を前提として、中米条約のようなものを結ぶ考えはおもちでしょうか」77年1月、カーター大統領が誕生し、中米の国交樹立へ動きだすが、交渉は難航。先行きは不透明であるといえた。

伸一は、日中の平和友好条約が調印された今こそ、膠着状態にある中米関係が正常化することを、強く願っていたのだ。李副主席は端的に語った。「国交正常化を前提とした中米条約を結ぶ用意はあります。これは相手のあることで、カーター大統領の胸三寸にかかっています」伸一は、両国の関係正常化を確信した。


太字は 『新・人間革命』第28より 抜粋

鄧頴超と母

『新・人間革命』第28巻 革心の章 308p~

毛沢東、朱徳、そして周恩来らの第一方面軍は、党職員や、その家族など合わせて8万6千余人であり、女性も、老人も、傷病者もいた。鄧頴超は、病に侵されながら、この長征に加わった。担架で運ばれての行軍であった。

鄧頴超は、病と戦いながらも、努めて明るく振る舞い、自身が体験してきた闘争の数々を語り、皆を勇気づけ、希望の光を注いだ。闘争を開始した“初心”を確認し合い、同志の心を鼓舞した。彼女の人生の勝因は、自分に負けずに戦い続けてきたことにあったといえよう。病に侵され、担架に身を横たえ、窮地に立たされても、その心は、決して屈しなかった。

彼女には、自身の闘争を先延ばしにして、“状況が好転したら、何かしよう”という発想はなかった。「今」を全力で戦い抜いた。いつか、ではない。常に今の自分に何ができるのかを問い、なすべき事柄を見つけ、それをわが使命と決めて、果たし抜いていくのだ。そこに、人生を勝利する要諦もある。

長征は肉体の限界を超えた行軍であった。食料もほとんどなく、野草、木の根も食べた。ベルト等の革製品を煮てスープにした。敵の銃弾を浴びるなか、激流に架かるつり橋も渡った。吹雪の大雪山も超えた。無数の川を渡り、大草原を、湿地帯を踏破した。そして、遂に、「長征」に勝利したのだ。

1937年7月、盧溝橋事件が起こり、日中戦争へ突入していく。共産党は、再び国民党と手を結び、国共合作をもって抗日戦を展開することになった。

鄧頴超という不世出の女性リーダーを育んだ最大の力は、この母にあったといえよう。彼女は、娘にこう語ってきた。「あなたは一生懸命学んで、努力して、周夫人としてではなく、頴超として尊敬される人になりなさい」独立した人間であれーーそれが、母の教えであった。

フランスの作家アンドレ・モーロワは言う。「数々の失敗や不幸にもかかわらず、人生に対する信頼を最後まで持ちつづける楽天家は、しばしばよき母親の手で育てられた人々である」

1945年、日本の無条件降伏によって中国の対日戦争は終わる。ところが、それは新たな国共の内戦の始まりであった。周恩来と鄧頴超は、国民党との和平交渉を行った。だが、和平はならず、内戦は激化し、悲惨な全面戦争となっていった。

そして、共産党が国民党を制圧し、49年10月、中華人民共和国が成立するのである。一方、国民党の蒋介石は、台湾へ移っていった。

伸一は、梅園新村記念館を見学しながら、妻の峯子に言った。「お二人が“夫婦”というだけでなく、“同志”の絆に結ばれていたからだろうね」二人が共通の理想、目的をもち、共に同じ方向を向いて進んでいく“同志”の関係にあるならば、切磋琢磨し、励まし合いながら、向上、前進していくことができる。

続いて訪中団一行が訪れたのは、紫金山であった。まず伸一たちが訪れたのは、廖承志会長の両親の墓所「廖陵」であった。中国の要人たちの誰もが、激闘の荒波にもまれ、苦渋の闘争を展開し、時に非道な裏切りにも遭い、肉親や同志を失っていた。

革命の道は、あまりにも過酷であり、悲惨であった。そして、それを乗り越えて、新中国が誕生し、さらに、「四つの現代化」が開始されたのである。訪中団一行は、「廖陵」で献花し、追悼の深い祈りを捧げた。孫文の「中山陵」を訪れ、ここでも献花し、冥福を祈り、題目を三唱した。

夕方には、空路、北京へ向かったのである。翌日、もう主席記念堂へ向かった。その後、定陵を巡りながら、伸一と趙樸樸初副会長と仏教について意見交換した。

17日夜、人民大会堂で歓迎宴が行われた。廖承志が紹介したのは、全国人民代表大会常務委員会副委員長であり、周総理の夫人として大中国を担う柱を支え続けてきた鄧頴超その人であった。

答礼のあいさつに立った伸一は、真心こもる歓迎に、深く謝意を表するとともに、周総理との思い出を語っていった。「私どもは、尊き先人が切り開いた『金剛の道』『金の橋』を、さらに強く、固く、広く、長く構築していく努力をしていかなくてはならない。その道を、新しき未来の世紀の人びとに、立派に継承していくべき使命と責任があることを、痛感するものであります。その軸となる根本は、「信義」の二字であると申し上げたいのであります!」

信義の柱あってこそ、平和の橋は架かる。信義がなければ、条約は砂上の楼閣となる。


太字は 『新・人間革命』第28より 抜粋

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