小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

信教の自由

中里炭鉱事件

『新・人間革命』第6巻 波浪の章 P286~

尾去沢の事件のことは、すぐに学会本部にも連絡が入り、さっそく渉外局員などを派遣し対策にあたった。彼らは労働組合幹部ともあい統制の理由を尋ねると、「そりゃあ、今度の選挙のことだと」と本音を漏らした。

労組の臨時大会が開かれるが、"弁明するなら出席せよ"と当事者に通知されたのは、大会の2時間前で、形ばかりの連絡であり、結局二人は欠席のまま除名処分が決議された。それは、二人の会社からの解雇を意味している。

二人は直ちに、地方裁判所に除名決議の効力停止処分を申請した。除名・解雇によって生じる生活上の危険・不安を防止しまた、除去するための措置である。

会社は、二人を呼び出し、解雇を告げた。このままでは、社宅の住居も立ち退かなければならないことになる。周囲の人は、山尾たちとは口をきかなくなった。

ミヤの母親が ここを出ていこうかと言うが、ミヤは「とんでもね。おれだちが出て行ったら、後に残った同志はどうするの。みんながかわいそうだ!おれだちは絶対、ここ動がれねぇ」

山尾らが解雇されたあと、組合は、ほかの学会員にも監視の目を光らせるようになった。じわじわと真綿で首をしめるように、陰湿な圧迫が加えられていった。

この頃、尾去沢の同志が合言葉のように語り合っていたことがあった。「あの夕張も"天下の炭労"に勝った。おれだちも負けるはずはねぇ」それは、北海道の夕張炭労事件のことであった。

1957年、北海道で最大の炭労組織であった夕張炭労は、公然と学会員の排斥に動きだしたのである。この事件も、前年の参院選挙で、炭労に所属する学会員が、学会推薦の候補者を推したことを理由に、炭労の団結を乱したとして起こったものであった。

伸一は、人権を守り、民衆を守るために、北海の大地をひた走った。そして、遂に、夕張炭労は、学会員排除の方針を全面撤回するに至った。この夕張炭労事件の勝利は、晴れ渡る民衆大運動の栄光の歴史として、尾去沢の友の、勇気と希望の光源となっていたのである。

山尾たちが秋田地裁に提出した仮処分は受理され、法廷闘争に移っていった。裁判所は、組合側は除名処分を取り消し、両者は和解するように勧告し、組合側は、この和解勧告を受け入れた。

結局、組合は、臨時大会を開いて、山尾ら二人の学会員の除名処分の撤回を決議したのである。
当然のことが通らず、山尾たちは半年近くにわたって、苦渋と屈辱の日々を強いられた。

だが、わが同志は勝った。組合が自分たちの決議を自ら覆すという、未聞の大逆転となったのだ。
尾去沢のヤマに、不屈の信仰の勝利の旗が翻ったのである。


秋田の尾去沢で、事件が突発したころ、西の長崎、佐世保の中里炭鉱でも、同様の事件が起こった。
炭坑の社宅近くの鮮魚店に、公政連推薦のポスターを一枚張った行為が問題にされたのである。

この中里炭鉱でも、ユニオン・ショップ制をとっており、組合からの除名処分によって、二人が
会社から解雇されることは決定的となったため、長崎地裁に組合除名決議の効力停止の仮処分申請を行った。仮処分申請が認められ、二人は 除名によって職場を追われることはなくなったのである。

しかし、事態は、それほど、生易しいものではなかった。職場では、陰湿極まりない謀略が待ち受けていたのである。

木田悟郎が突然、除名問題とは 別の理由で解雇されてしまった。吉山恒造は、「採炭」から掃除などの雑役の「坑内日役」に移動させられ、給料が 3万2千円から 1万円に減ってしまった。4人の子どもがいる吉山は 生活がひっ迫し、民生委員に生活保護を相談したが、民生委員も組合員で、会社の対面に傷がつくなどといって、なんの対応もしてくれなかった。

職場の不遇には、まだ我慢ができた。しかし、幼い子供たちが除け者にされ、いじめられて帰ってくるのを見ると身を切られるように辛かった。そんな時、妻のヨシエの明るさが彼を励ました。

一途な性格の吉山は、苦しいと思うと、真剣に唱題に励み、むさぼるように御書を拝していった。

社宅には 部外者の立ち入りにも 厳しい監視の目が向けられ、夜、周囲が寝静まるのを待って先輩幹部が激励に通った。


佐世保支部長の松川は、自分が食べたいと言ってうどんを持ってきた。「自分は金銭的には、なんの応援もできんたい。それに、この信心は、誰やらに助けてもらうということば、お願いする信心じゃなか。自分ば人間革命する信心たい。自分で立ち上がり、自分の力で勝しかなかとたい。人ば頼ろうと思っちゃ負けばい。いくら、金ばもらっても自分の宿命は変わらん。宿命ば転換せんば、幸福にはならんとばい。」

「信心して、こぎゃん難が来たことは、いよいよ宿命転換ばできるということたい。戦うことない。獅子のごと戦うたい」

真の信仰とは、"おすがり信仰"ではない。自分の幸福をつくるのは自分自身である。ゆえに、どんな苦境にあっても、自分で立ち上がってみせるという"負けじ魂"こそ、幸福の根本条件であることを、松川は教えたかったのである。

吉山には、松川の気遣いも、思いも、痛いほどわかった。こうした同志の激励をバネに、吉山は苦境を耐え抜いたのである。

中里炭鉱の事件は 本裁判に持ち込まれた。8回にわたる後半の末、長崎地裁は、除名決議は無効との判決を下したが、組合側は、判決を不服として控訴した。福岡高裁は、控訴棄却の判決を出すが、さらに組合側は最高裁に上告したのである。組合の対面を守るためだけの醜い姿であった。

その結果、裁判の決着は 中里炭鉱が閉鎖された後も続いた。判決は、上告から4年後"組合員の政治活動を制限することは、組合の統制権の限界を超えるものであり、違法である"という趣旨の判決を下し、組合の除名処分を剥こうとした。

実に、事件勃発から7年の歳月を経て、遂に、全面勝訴が決まったのである。既に、中里炭鉱の閉山から2年余が過ぎ、吉山の長年の苦闘を思えば、判決は遅すぎたといえるが、彼が裁判で勝ったことには、大きな意味があった。

組合の統制権によって、組合員の信教の自由、政治活動の自由を拘束できないことが、判例としても明らかになったからである。

山本伸一は、尾去沢鉱山と中里炭鉱の事件が起こった時、これは広宣流布の行く手をさえぎる嵐の、ほんの前ぶれにすぎないことを感じていた。

学会は、仏法者の社会的使命を果たすために、波の穏やかな内海から時代の建設という、波浪の猛る大会に乗り出したのだ。

彼は、疾風も、怒涛も、覚悟のうえであった。人類の永遠の平和とヒューマニズムの勝利のために、伸一は、殉難を恐れず、創価の大船の舵を必死に取り続けるしかなかった。

船内の同志たちの幸福と安穏とを、ひたすらに、祈り念じながらー。

<波浪の章終了>


太字は 『新・人間革命』第6巻より抜粋

尾去沢鉱山事件

『新・人間革命』第6巻 波浪の章 P277~

議員のメンバーが、私利私欲に走り、腐敗堕落するなら、彼らを政界に送り出した意味も、公明政治連盟を結成した意味もなくなってしまう。だから、伸一は、未来への警鐘として あえて厳しく言った。

伸一は、この勝利が各政党などに脅威を与え、大きな波紋を呼ぶであろうことを覚悟していた。

労働組合の幹部たちは、学会の躍進に対して大きな脅威をいだいていたことは確かであったようだ。事実、この参院選挙をきっかけとして、一部の労働組合は、組合に所属する学会員に、陰湿な圧迫を加えてきた。


なかでも、秋田の尾去沢鉱山と長崎・佐世保の中里炭鉱の労働組合では、それが実際に「組合除名」となって、あらわれたのである。

秋田県の北部にある、尾去沢鉱山は、日本の三大鉱山の一つとして名高く、日本有数の歴史と規模をもつ鉱山であった。この鉱山の組合で、除名事件が起こったのである。

参院選挙の全国区で、公明政治連盟の関久男は 26位で当選を果たしたのに対し、鉱山の労働組合が押した革新政党の候補は、大接戦の末、次点と約1700票差で、かろうじて最下位当選した。

この肝を冷やすような大苦戦と、学会員が指示した関の町内からの意外な高得票は、尾去沢鉱山の労組の幹部にとって看過できない事態と映ったようだ。

尾去沢鉱山の労働組合は、全国組織の全鉱のなかでも重きをなし、力も強かった。その組合の幹部が、学会員の支援活動に恐れをいだき、このままいけば、労組の基盤が揺るがされるとの、強い危機感を募らせたのである。

参院選挙が終わった直後学会の地区部長をしている山尾久也と言う壮年が組合事務所に呼ばれ、組合の統制委員会にかけられた。

山尾は、温厚な人物で、20年ほどこの鉱山で仕事をしてきたベテラン鉱員であり、町議会議員も務め、周囲の人びとの信頼も厚かった。

彼らは、参院選挙のことには触れず、彼の町会議員としての所属政党のことで追及してきた。組合側は 社会党に入るように進めたが、それを拒否したから組合の統制を破ったというのである。

全鉱の幹部が、恫喝するかのように山尾に言った。「組合の組織につかんもんは、やめてしまえ!」

この前日にも本郷という学会員が組合事務所に呼ばれ、統制委員会にかけられていた。本郷が選挙の折、戸別訪問をしてしまい、罰金刑となったことを指摘し、組合の名を汚したので"今後、創価学会とは手を切る"というを書けば、穏便にすませてやろうと迫ったのだ。

学会員が組合推薦の候補者を支援しなかったことを理由にすれば、「信教の自由」や「選挙活動の自由」に抵触することを懸念し、別の処分の口実を考えたのであろう。

尾去沢鉱山では、ユニオン・ショップ制をとっていたため、従業員は組合員でなければならず、組合から除名され、組合員の資格を失えば、会社からも解雇されることになる。本来、ユニオン・ショップ制は、労働者が団結して雇用者と交渉するために生まれたものだ。それを逆手に取って組合は、学会員の労働者のクビを切ろうとしているのである。


夫の話を聞くと、気丈な性格の妻のミヤは、「こっちは、なあんも悪いごどしてねぇ。クビにするならしてみれ!父さん遂に、来るべきもんが来たな。『行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起こる』だものな・・・。こんなごどで、負げでなんかいられね」と怒りを含んだ声で言った。

ミヤのその言葉は、久也にとって最大の励ましであった。「おれをクビにしたら、このヤマの学会員は、みんな恐れで、信心をやめるど思ってるんだ・・・。そんなごどにならねぇ」


「山本先生も 5月に仙台に来られだ時、広宣流布の前進には、必ず大難が起ごるって言われだ。おれだちの信心も、ようやく一人前になったのかもしれないな」

尾去沢のヤマで働く仲間たちは、それぞれが、それぞれの悩みをかかえていた。病苦、体の不自由な子供をもつ親の悩み、家庭不和、あるいは、夫が稼ぎを博打や酒に注ぎ込み、貧乏暮らしに喘ぐ家族もいた。

皆の悩みの一つ一つは、組合活動による労働条件の改善だけでは癒し難い苦悩であった。
"この仲間を幸福にするのが、おれだちの使命だ"

山尾は、この尾去沢の鉱山を愛し、ともに働く仲間たちを愛していた。夫婦の相手を思う真剣な対話に、信心を始める人が次第に増え始めた。このころには、同志は、尾去沢の街で、120~30世帯を数えるほどになっていた。

こうして燃え広がった信仰の火が、今、激しい嵐にさらされようとしていたのである。



太字は 『新・人間革命』第6巻より抜粋

王法と仏法

『新・人間革命』第5巻 獅子の章 P325~

宗門が、戒壇を「国立」とする根拠と考えていたのが、「三大秘法抄」の「勅宣並びに御教書を申し下して」の御文であった。

現代では、天皇は象徴となり、将軍も執権もいない。主権在民の時代であり、民衆こそが社会の主役である。

戸田は、「国立戒壇」を現代の社会で実現するならば、その御文をどうとらえればよいかに苦慮していた。

「国立」であるかどうかはともあれ、戒壇の建立は、広宣流布を象徴する一つの形式であり、遠い未来の問題である。

戸田は、戒壇建立の作業は、後に続く弟子たちに委ねようとしていた。その前に、「王仏冥合」をどのようにとらえ、いかに実現していくかを課題にし、全精力を注いでいった。

伸一に、「王仏冥合」をどう考えるかということが、これからの大事な課題になると話し、
「『王法』とは、政治だけに限定するわけにはいかず、むしろ、王の定めた法の及ぶ範囲、すなわち、世間法ととらえるべきだろう。政治だけでなく、経済も、教育も、学術も含め、社会の文化的な営みのすべてを『王法』と解釈すべきだ。
『王法』と『仏法』の『冥合』とは、いかなる姿を言うのかが、極めて重要になってくる」と語る。

「『王仏冥合』は、政治と仏法が制度的に、直接、一体化することでは決してない。」

「『王法』と『仏法』が、奥深くで合致することであり、人間の営みである、あらゆる文化の根底に、仏法の哲理、精神が、しっかりと定着するということだ。」

「『仏法王法に合して』とは、仏法の哲理、精神が、一人ひとりの生き方、行動を通して表れ、世間の法が、社会そのものが、仏法の在り方と合致していく姿だ。」

「仏法を一人ひとりの心に打ち立て、人格を陶冶していくことが、大聖人の示された社会建設の基本原理であり、その帰結が『王仏冥合』ということだ」

「要するに『王仏冥合』といっても、あるいは、『立正安国』といっても、具体的な一個の人間を離れてはありえない。それは、どこまでも、人間一人ひとりの一念を変え、生命を変革していく人間革命ということが、最大のポイントになるのだよ」


政治や教育が正しく人間の幸福のために寄与してこなかったし、科学の発展は、人類を滅ぼしかねない原水爆が生まれたことなどを述べ、
「問題は、ここなんだよ。それは、結局、人間が進むべき正しき道を教え政治、経済、科学、教育などをリードする、生命の哲学が確立されていないからだ。その不幸を転換するために大聖人がしめされた原理が『王仏冥合』なのだよ。」

「『王仏冥合』の姿とは、世界のすべての国が栄え、それぞれの国の社会の繁栄と個人の幸福とが一致することであると思っている。」

「そこに、これからの創価学会が果たしていかねばならぬ使命があり、仏法の社会的行動がある。」

「そして、この課題に本格的に取り組むことが、君の生涯の仕事となっていかざるをえないだろう。」


山本伸一も、この戸田の精神を継承し、民衆の幸福のための政治の実現をめざし、戸田亡きあとも、同志を政界に送り出すことに力を注いできた。

本門の戒壇をどうするかは、師の戸田から広宣流布の後事のいっさいを託された伸一の、避けることのできないテーマであった。


伸一は、総本山の日達法主に「国立戒壇」は、本来の大聖人の御精神とは異なることを様々な機会に語っていった。日達も伸一の意見に全面的に同意してくれた。

後年、正式に「国立戒壇」という名称は世間の疑惑を招くし、かえって布教の邪魔にもなるため、「今後、本宗ではそういう名称を使用しないことにいたします。」と本部総会の特別講演で述べている。

かつて、創価学会が「国立戒壇」という名称をしようしたのも 本宗の信徒であったためで、それを学会が使っていたことについて非難するにはあたらないと講演した。

伸一は今、「公明政治連盟」が発足したことによって、個人の幸福と社会の繁栄の一致という「王仏冥合」の実現に向かい、内海から大海に乗り出したことを実感していた。

彼は、未来に競い起こるであろう怒涛を予感していた。しかし、政治を民衆の手に取り戻し、人びとの幸福に真に寄与するものにするためには、あえて、その怒涛に向かって、突き進んでいくしかない。

それが、人間の凱歌の時代を開く、創価の誉れの使命であり、民衆を守りゆく獅子の道であるからだ。




太字は 『新・人間革命』第5巻より抜粋

国立戒壇

『新・人間革命』第5巻 獅子の章 P316~

「公明政治連盟」の基本要綱、基本政策を発表した後、記者団からの質問に答える関。


記者は「憲法のすべての条文を擁護するならば、『信教の自由』も 守り続けるのか。日蓮は他宗派を認めず、折伏を行ってきた。それは、憲法と矛盾するのではないか」と質問した。

「折伏とは自らの宗教的信念を語ることであり、対話による布教です。それは、一人ひとりの納得と共感のうえに成り立つものです。つまり、『信教の自由』『言論の自由』を大前提として、私たちは布教を行っているのです。」

「自分たちの信ずる宗教が最高であると言いきれないとするなら、それを布教することほど無責任なものはありません。キリスト教にしても、あるいはイスラム教にせよ、皆、自分たちの教えが最高であると主張しています。その確信こそ宗教の生命であり、そこに宗教者の誇りと良心があるんです。」

記者たちの質問には、宗教への誤解と偏見が潜んでいた。


ある記者が尋ねた。
「学会は『公明政治連盟』の力で、やがては日蓮正宗を国教にするという考えはあるのですか」

関久男は言下に答えた。「ありません」

本来、信仰とは、人間の最も内発的な営みである。政治権力など、他からの外圧的な力で、強制し、本当の信仰心を育てることなど絶対にできない。

もし、国教になどなれば、かえって信仰の堕落を招き、大聖人の仏法の精神は滅び、形骸化していくだけである。


別の記者が、皮肉な笑いを浮かべながら質問した。
「『公明選挙』をうたっていますが、折伏などといって、無理やり投票させるようなことが、公明選挙になるんでしょうかね」

関は憮然として言った。「君、創価学会がいつ、選挙を折伏だなどといって、無理やり投票させたことがありましたか!」  
「・・・・」
「調べもせずに、偏見と憶測で、ものを言うことは慎んでもらいたい」
学会への無認識をさらけ出す問いであった。


記者会見は間もなく終わったが、「公明政治連盟」の結成を取り上げた新聞はいたって少なかった。
1、2の新聞が 一段ほどで、報道しただけであった。

多くの記者たちは、創価学会は政治を支配し、日蓮正宗を国教にするために、個人の意思とは無関係に、会員を選挙に駆り立てていると、勝手に憶測しているようであった。


彼らが、その憶測の根拠としていたのが、かつて、戸田城聖が広宣流布の姿として、「国立戒壇」の建立という表現を、何度か使っていたことであった。

日蓮大聖人は、法華経の本門文底の教えである三大秘宝の戒壇の建立を、後世の弟子たちに託された。
「三大秘宝抄」に「戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一堂に本門の三秘密の法を持ちて・・・」と仰せである。

この「三大秘宝抄」の戒壇を、「国立戒壇」と言い出したのは、明治期に日蓮宗(身延派)から出て、立正安国会(のちの国柱会)をつくった田中智学であった。

彼の発想は、極めて国粋主義的、国家主義的であった。彼は大聖人の御書を、自らの“国体至上主義”を鼓吹するための道具とした。

"国体思想”に沿って、この御文を解釈していった。そのため、「王法」は即、"神国日本"という国家に直結し、すべては、そこに組み込まれていった。

彼は、法華経は世界を統一すべき教えであり、日本は世界を統一すべき国であると主張し、日本が世界を統一するためには、武力侵略をも、積極的にこうていしていったのである。

彼は、建立すべき地を、富士山とし、この"富士戒壇論"をめぐり、日蓮系各派で論議が わき起こり、その中で、本門の戒壇に安置すべき御本尊にも議論が及び、大石寺の大御本尊への批判があったことから、日蓮正宗も反論するに至った。

このやり取りの中で、相手が用いた「国立戒壇」という言葉を日蓮正宗側も使ったために、日蓮正宗も、戒壇は「国立」を前提としているかのような論の展開になっていった。

そして、軍国主義の流れのなかで、次第に宗門も国家主義的な考え方に傾斜していき、「国立戒壇」は当然であるかのような風潮がつくられていった。

さらに、戦後も、宗門では本門を、「国立戒壇」といっていたのである。

このため、信徒である戸田城聖も、本門の戒壇について語る際に「国立戒壇」という言葉を使用したことがあった。

しかし、戸田が念願としていたのは、単に、戒壇という建物を建立し、それを「国立」にするなどと言ったことではなかった。

彼は、日蓮大聖人の大願は民衆の幸福にあり、戒壇の建立といっても、そのための広宣流布の象徴であると考えていた。


戸田は会合で彼の考えを明確に語っている。
「ある僧侶が、『広宣流布の暁には、天皇陛下がお寺を建ててくださって、りっぱになるのだ』と話すのを聞いて 唖然とした。」

「仮に 広宣流布が現実に行われて、勅宣・御教書をたまわったとして、大御本尊のありがたさを、日本国じゅうの人に伝えるでしょう。すると、信心なき者がたくさん参詣にくる。そうして、この信心なき人々が、どれほど御本尊を粗末にすることでしょうか」

この言葉にも明らかなように、戸田は、仮に「国立戒壇」ができたとしても、人びとの信仰の確立がなければ、民衆の幸福も一国の繁栄もありえないことを痛感していた。むしろ、それによって、人びとの信仰が失われ、形骸化を招くことを恐れていたのである。



太字は 『新・人間革命』第5巻より抜粋

日本人の民主主義と人権感覚

『新・人間革命』第4巻 春嵐の章 P62~


村八分事件は、社会的に見れば、日本という国の、未成熟な民主主義と
人権感覚を物語るものであったといってよい。


古来、日本には土俗的な氏神信仰があり、地域の共同体と宗教とが、
密接に結びついてきた。

江戸時代になると、幕府の宗教政策によって寺檀制度がつくられ、
寺院によって民衆が管理されるようになった。
そのなかで、寺院の言うがままに従うことが、本来の人間の道であるかのような意識が、
人びとに植えつけられていった。

明治以降、神社神道が、事実上、国教化されたことで、神社はもとより、
宗教への従属意識は、ますます強まっていった。

地域の寺院や神社に従わなければ、罪悪とするような日本人の意識の傾向は、
いわば、政治と宗教が一体となり、民衆を支配してきた、日本の歴史のなかで、
培われてきたものといえよう。



戦後、日本国憲法で信教の自由が 法的にも認められても国民の意識は変わらなかった。

そして、昔からの地域の寺院神社への寄付や宗教行事への参加が、
すべての地域住民の義務であるかのように考えられてきた。


なぜ、人びとは民主主義を口にしながらも 旧習から脱することができなかったのか。


それは、民主主義の基本となる「個」の確立がなされていなかったからにほかならない。
一人ひとりの「個」の確立がなければ、社会の制度は変わっても、精神的には、
集団への隷属を免れない。



さらに、日本人には、「個」の自立の基盤となる哲学がなかったことである。
本来、その役割を担うのが宗教であるが、日本の宗教は、村という共同体や
家の宗教として存在してきたために、個人に根差した宗教とは なりえなかった。


日本人は、寺院や神社の宗教行事には参加しても、教義などへの関心はいたって低い。
これも、宗教を自分の生き方と切り離して、村や家のものと、
とらえていることの表れといえる。



もし、個人の主体的な意思で、宗教を信じようとすれば、教えの正邪などの
内実を探求し、検証していかざるをえないはずである。



こうした、宗教への無関心、無知ゆえに、
日本人は、自分宗教につい尋ねられると、どこか恥じらいながら、家の宗教を答えるか、
あるいは、無宗教であると答える場合が多い。


それに対して、欧米などの諸外国では、誇らかに胸を張って、
自分がいかなる宗教を信じているかを語るのが常である。


宗教は自己の人格、価値観、生き方の根本であり、新年の骨髄といえる。
その宗教に対する、日本人のこうした姿は、世界の常識からすれば、
はなはだ異様なものといわざるをえない。


そのなかで、日蓮仏法は個人の精神に深く内在化していった。
そして、同志は「個」の尊厳に目覚め、自己の宗教的信念を表明し、主張してきた。


いわば、一連の学会員への村八分事件は、民衆の大地に兆した「民主」の萌芽への、
「個」を埋没させてきた旧習の抑圧であったのである。



これらの「村八分事件」をうけ、信教の自由、人権を守るため、
国会の 参院予算委員会で 取り上げることにした参議院議員。

自治大臣は 個人の自由だからとやかく言う問題ではないと答弁。
しかし、水道を止められたり、共有林の財産権剥奪など深刻な問題が起きていることを 指摘。
警察も 地元有力者と 結託し、取り調べをしないなどの点を 警察庁保安局の見解も尋ねる。

調査する姿勢を示すも、学会員への有形無形の圧力や差別はなくならなかった。


それらの報告を受ける山本伸一は、常にこう話した。
「長い人生から見れば、そんなことは一瞬です。むしろ、信心の最高の思い出になります。
 仏法は勝負です。最後は必ず勝ちます。決して、悲観的になってはならない。
 何があっても、堂々と、明るく、朗らかに生きていくことです。」



伸一は、同情は その場しのぎの慰めでしかないことを、よく知っていた。
同志にとって大切なことは、何があっても、決して退くことのない、
不屈の信心に立つことである。そこにこそ、永遠に栄光の道があるからだ。



太字は 『新・人間革命』第4巻より抜粋

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