『新・人間革命』第6巻 波浪の章 P286~
尾去沢の事件のことは、すぐに学会本部にも連絡が入り、さっそく渉外局員などを派遣し対策にあたった。彼らは労働組合幹部ともあい統制の理由を尋ねると、「そりゃあ、今度の選挙のことだと」と本音を漏らした。
労組の臨時大会が開かれるが、"弁明するなら出席せよ"と当事者に通知されたのは、大会の2時間前で、形ばかりの連絡であり、結局二人は欠席のまま除名処分が決議された。それは、二人の会社からの解雇を意味している。
二人は直ちに、地方裁判所に除名決議の効力停止処分を申請した。除名・解雇によって生じる生活上の危険・不安を防止しまた、除去するための措置である。
会社は、二人を呼び出し、解雇を告げた。このままでは、社宅の住居も立ち退かなければならないことになる。周囲の人は、山尾たちとは口をきかなくなった。
ミヤの母親が ここを出ていこうかと言うが、ミヤは「とんでもね。おれだちが出て行ったら、後に残った同志はどうするの。みんながかわいそうだ!おれだちは絶対、ここ動がれねぇ」
山尾らが解雇されたあと、組合は、ほかの学会員にも監視の目を光らせるようになった。じわじわと真綿で首をしめるように、陰湿な圧迫が加えられていった。
この頃、尾去沢の同志が合言葉のように語り合っていたことがあった。「あの夕張も"天下の炭労"に勝った。おれだちも負けるはずはねぇ」それは、北海道の夕張炭労事件のことであった。
1957年、北海道で最大の炭労組織であった夕張炭労は、公然と学会員の排斥に動きだしたのである。この事件も、前年の参院選挙で、炭労に所属する学会員が、学会推薦の候補者を推したことを理由に、炭労の団結を乱したとして起こったものであった。
伸一は、人権を守り、民衆を守るために、北海の大地をひた走った。そして、遂に、夕張炭労は、学会員排除の方針を全面撤回するに至った。この夕張炭労事件の勝利は、晴れ渡る民衆大運動の栄光の歴史として、尾去沢の友の、勇気と希望の光源となっていたのである。
山尾たちが秋田地裁に提出した仮処分は受理され、法廷闘争に移っていった。裁判所は、組合側は除名処分を取り消し、両者は和解するように勧告し、組合側は、この和解勧告を受け入れた。
結局、組合は、臨時大会を開いて、山尾ら二人の学会員の除名処分の撤回を決議したのである。
当然のことが通らず、山尾たちは半年近くにわたって、苦渋と屈辱の日々を強いられた。
だが、わが同志は勝った。組合が自分たちの決議を自ら覆すという、未聞の大逆転となったのだ。
尾去沢のヤマに、不屈の信仰の勝利の旗が翻ったのである。
秋田の尾去沢で、事件が突発したころ、西の長崎、佐世保の中里炭鉱でも、同様の事件が起こった。
炭坑の社宅近くの鮮魚店に、公政連推薦のポスターを一枚張った行為が問題にされたのである。
この中里炭鉱でも、ユニオン・ショップ制をとっており、組合からの除名処分によって、二人が
会社から解雇されることは決定的となったため、長崎地裁に組合除名決議の効力停止の仮処分申請を行った。仮処分申請が認められ、二人は 除名によって職場を追われることはなくなったのである。
しかし、事態は、それほど、生易しいものではなかった。職場では、陰湿極まりない謀略が待ち受けていたのである。
木田悟郎が突然、除名問題とは 別の理由で解雇されてしまった。吉山恒造は、「採炭」から掃除などの雑役の「坑内日役」に移動させられ、給料が 3万2千円から 1万円に減ってしまった。4人の子どもがいる吉山は 生活がひっ迫し、民生委員に生活保護を相談したが、民生委員も組合員で、会社の対面に傷がつくなどといって、なんの対応もしてくれなかった。
職場の不遇には、まだ我慢ができた。しかし、幼い子供たちが除け者にされ、いじめられて帰ってくるのを見ると身を切られるように辛かった。そんな時、妻のヨシエの明るさが彼を励ました。
一途な性格の吉山は、苦しいと思うと、真剣に唱題に励み、むさぼるように御書を拝していった。
社宅には 部外者の立ち入りにも 厳しい監視の目が向けられ、夜、周囲が寝静まるのを待って先輩幹部が激励に通った。
佐世保支部長の松川は、自分が食べたいと言ってうどんを持ってきた。「自分は金銭的には、なんの応援もできんたい。それに、この信心は、誰やらに助けてもらうということば、お願いする信心じゃなか。自分ば人間革命する信心たい。自分で立ち上がり、自分の力で勝しかなかとたい。人ば頼ろうと思っちゃ負けばい。いくら、金ばもらっても自分の宿命は変わらん。宿命ば転換せんば、幸福にはならんとばい。」
「信心して、こぎゃん難が来たことは、いよいよ宿命転換ばできるということたい。戦うことない。獅子のごと戦うたい」
真の信仰とは、"おすがり信仰"ではない。自分の幸福をつくるのは自分自身である。ゆえに、どんな苦境にあっても、自分で立ち上がってみせるという"負けじ魂"こそ、幸福の根本条件であることを、松川は教えたかったのである。
吉山には、松川の気遣いも、思いも、痛いほどわかった。こうした同志の激励をバネに、吉山は苦境を耐え抜いたのである。
中里炭鉱の事件は 本裁判に持ち込まれた。8回にわたる後半の末、長崎地裁は、除名決議は無効との判決を下したが、組合側は、判決を不服として控訴した。福岡高裁は、控訴棄却の判決を出すが、さらに組合側は最高裁に上告したのである。組合の対面を守るためだけの醜い姿であった。
その結果、裁判の決着は 中里炭鉱が閉鎖された後も続いた。判決は、上告から4年後"組合員の政治活動を制限することは、組合の統制権の限界を超えるものであり、違法である"という趣旨の判決を下し、組合の除名処分を剥こうとした。
実に、事件勃発から7年の歳月を経て、遂に、全面勝訴が決まったのである。既に、中里炭鉱の閉山から2年余が過ぎ、吉山の長年の苦闘を思えば、判決は遅すぎたといえるが、彼が裁判で勝ったことには、大きな意味があった。
組合の統制権によって、組合員の信教の自由、政治活動の自由を拘束できないことが、判例としても明らかになったからである。
山本伸一は、尾去沢鉱山と中里炭鉱の事件が起こった時、これは広宣流布の行く手をさえぎる嵐の、ほんの前ぶれにすぎないことを感じていた。
学会は、仏法者の社会的使命を果たすために、波の穏やかな内海から時代の建設という、波浪の猛る大会に乗り出したのだ。
彼は、疾風も、怒涛も、覚悟のうえであった。人類の永遠の平和とヒューマニズムの勝利のために、伸一は、殉難を恐れず、創価の大船の舵を必死に取り続けるしかなかった。
船内の同志たちの幸福と安穏とを、ひたすらに、祈り念じながらー。
<波浪の章終了>
太字は 『新・人間革命』第6巻より抜粋
尾去沢の事件のことは、すぐに学会本部にも連絡が入り、さっそく渉外局員などを派遣し対策にあたった。彼らは労働組合幹部ともあい統制の理由を尋ねると、「そりゃあ、今度の選挙のことだと」と本音を漏らした。
労組の臨時大会が開かれるが、"弁明するなら出席せよ"と当事者に通知されたのは、大会の2時間前で、形ばかりの連絡であり、結局二人は欠席のまま除名処分が決議された。それは、二人の会社からの解雇を意味している。
二人は直ちに、地方裁判所に除名決議の効力停止処分を申請した。除名・解雇によって生じる生活上の危険・不安を防止しまた、除去するための措置である。
会社は、二人を呼び出し、解雇を告げた。このままでは、社宅の住居も立ち退かなければならないことになる。周囲の人は、山尾たちとは口をきかなくなった。
ミヤの母親が ここを出ていこうかと言うが、ミヤは「とんでもね。おれだちが出て行ったら、後に残った同志はどうするの。みんながかわいそうだ!おれだちは絶対、ここ動がれねぇ」
山尾らが解雇されたあと、組合は、ほかの学会員にも監視の目を光らせるようになった。じわじわと真綿で首をしめるように、陰湿な圧迫が加えられていった。
この頃、尾去沢の同志が合言葉のように語り合っていたことがあった。「あの夕張も"天下の炭労"に勝った。おれだちも負けるはずはねぇ」それは、北海道の夕張炭労事件のことであった。
1957年、北海道で最大の炭労組織であった夕張炭労は、公然と学会員の排斥に動きだしたのである。この事件も、前年の参院選挙で、炭労に所属する学会員が、学会推薦の候補者を推したことを理由に、炭労の団結を乱したとして起こったものであった。
伸一は、人権を守り、民衆を守るために、北海の大地をひた走った。そして、遂に、夕張炭労は、学会員排除の方針を全面撤回するに至った。この夕張炭労事件の勝利は、晴れ渡る民衆大運動の栄光の歴史として、尾去沢の友の、勇気と希望の光源となっていたのである。
山尾たちが秋田地裁に提出した仮処分は受理され、法廷闘争に移っていった。裁判所は、組合側は除名処分を取り消し、両者は和解するように勧告し、組合側は、この和解勧告を受け入れた。
結局、組合は、臨時大会を開いて、山尾ら二人の学会員の除名処分の撤回を決議したのである。
当然のことが通らず、山尾たちは半年近くにわたって、苦渋と屈辱の日々を強いられた。
だが、わが同志は勝った。組合が自分たちの決議を自ら覆すという、未聞の大逆転となったのだ。
尾去沢のヤマに、不屈の信仰の勝利の旗が翻ったのである。
秋田の尾去沢で、事件が突発したころ、西の長崎、佐世保の中里炭鉱でも、同様の事件が起こった。
炭坑の社宅近くの鮮魚店に、公政連推薦のポスターを一枚張った行為が問題にされたのである。
この中里炭鉱でも、ユニオン・ショップ制をとっており、組合からの除名処分によって、二人が
会社から解雇されることは決定的となったため、長崎地裁に組合除名決議の効力停止の仮処分申請を行った。仮処分申請が認められ、二人は 除名によって職場を追われることはなくなったのである。
しかし、事態は、それほど、生易しいものではなかった。職場では、陰湿極まりない謀略が待ち受けていたのである。
木田悟郎が突然、除名問題とは 別の理由で解雇されてしまった。吉山恒造は、「採炭」から掃除などの雑役の「坑内日役」に移動させられ、給料が 3万2千円から 1万円に減ってしまった。4人の子どもがいる吉山は 生活がひっ迫し、民生委員に生活保護を相談したが、民生委員も組合員で、会社の対面に傷がつくなどといって、なんの対応もしてくれなかった。
職場の不遇には、まだ我慢ができた。しかし、幼い子供たちが除け者にされ、いじめられて帰ってくるのを見ると身を切られるように辛かった。そんな時、妻のヨシエの明るさが彼を励ました。
一途な性格の吉山は、苦しいと思うと、真剣に唱題に励み、むさぼるように御書を拝していった。
社宅には 部外者の立ち入りにも 厳しい監視の目が向けられ、夜、周囲が寝静まるのを待って先輩幹部が激励に通った。
佐世保支部長の松川は、自分が食べたいと言ってうどんを持ってきた。「自分は金銭的には、なんの応援もできんたい。それに、この信心は、誰やらに助けてもらうということば、お願いする信心じゃなか。自分ば人間革命する信心たい。自分で立ち上がり、自分の力で勝しかなかとたい。人ば頼ろうと思っちゃ負けばい。いくら、金ばもらっても自分の宿命は変わらん。宿命ば転換せんば、幸福にはならんとばい。」
「信心して、こぎゃん難が来たことは、いよいよ宿命転換ばできるということたい。戦うことない。獅子のごと戦うたい」
真の信仰とは、"おすがり信仰"ではない。自分の幸福をつくるのは自分自身である。ゆえに、どんな苦境にあっても、自分で立ち上がってみせるという"負けじ魂"こそ、幸福の根本条件であることを、松川は教えたかったのである。
吉山には、松川の気遣いも、思いも、痛いほどわかった。こうした同志の激励をバネに、吉山は苦境を耐え抜いたのである。
中里炭鉱の事件は 本裁判に持ち込まれた。8回にわたる後半の末、長崎地裁は、除名決議は無効との判決を下したが、組合側は、判決を不服として控訴した。福岡高裁は、控訴棄却の判決を出すが、さらに組合側は最高裁に上告したのである。組合の対面を守るためだけの醜い姿であった。
その結果、裁判の決着は 中里炭鉱が閉鎖された後も続いた。判決は、上告から4年後"組合員の政治活動を制限することは、組合の統制権の限界を超えるものであり、違法である"という趣旨の判決を下し、組合の除名処分を剥こうとした。
実に、事件勃発から7年の歳月を経て、遂に、全面勝訴が決まったのである。既に、中里炭鉱の閉山から2年余が過ぎ、吉山の長年の苦闘を思えば、判決は遅すぎたといえるが、彼が裁判で勝ったことには、大きな意味があった。
組合の統制権によって、組合員の信教の自由、政治活動の自由を拘束できないことが、判例としても明らかになったからである。
山本伸一は、尾去沢鉱山と中里炭鉱の事件が起こった時、これは広宣流布の行く手をさえぎる嵐の、ほんの前ぶれにすぎないことを感じていた。
学会は、仏法者の社会的使命を果たすために、波の穏やかな内海から時代の建設という、波浪の猛る大会に乗り出したのだ。
彼は、疾風も、怒涛も、覚悟のうえであった。人類の永遠の平和とヒューマニズムの勝利のために、伸一は、殉難を恐れず、創価の大船の舵を必死に取り続けるしかなかった。
船内の同志たちの幸福と安穏とを、ひたすらに、祈り念じながらー。
<波浪の章終了>
太字は 『新・人間革命』第6巻より抜粋