『新・人間革命』第11巻 開墾の章 P157~

大木田にとってアルゼンチンは憧れの地だった。アルゼンチンで花卉栽培に成功したという知人から、物資が送られてきて、いつか自分も豊かなアルゼンチンで 大農園をやってみたいとおもい、渡航のため、神奈川県で、花卉栽培の技術を学んでいた時に、母の勧めで入会した。

その翌年、父の友人の家に住み込み、一人で信心に励んだ。創価学会の人を知らないかと探すと、「創価学会は暴力宗教だ」とか、「創価学会員だというと差別される」と言われた。

そんな時、「苦しかったら学会本部の山本総務に手紙を書き、指導を受けなさい」という先輩の言葉を思い出し、返事は来ないだろうとおもいつつ、自分の思いを手紙に書いて出した。

ほどなく、伸一から、返事がきた。大木田は感激した。“俺のために、山本総務が手紙をくださった。申し訳ない限りだ。必ず勝ってこの激励に応えよう!”

さらに、会長就任直前の4月22日にも山本伸一から励ましの便りが届いた。伸一が第三代会長に就任する直前である。彼は、単身、アルゼンチンに渡った一青年のことが、頭から離れなかったのである。

世界広布という崇高にして壮大な作業もまた、そこに生きる一人の人間から始まる。ゆえに、その一人を力の限り、命の限り、励まし、応援することだ。大木田は、伸一の手紙を宝物のように大切にし、何度も何度も読み返しては決意を新たにしてきた。

仏法対話に、全精魂を注ぐが、二年たっても信心する人は誰もいなかった。しかし、3人のメンバーがいることがわかり、早速訪問した。入会の古い白谷に 大木田は期待していたが、白谷は、学会員としての自覚が乏しく、勤行もやっていないほど、信心とは無縁であった。それでも、大木田が何度も通ううちに、白谷は信心に目覚めていった。

大木田は、仕事の面でも奮闘し、広宣流布のためには、社会で勝利の実証を示さなければならないと、花卉栽培の温室を立て独立して仕事を始めた。人一倍研究と工夫を重ね、温室を6棟にまで増やし、彼の研究してきたカーネーションが、品評会で1位の栄冠に輝き、地元紙にも紹介された。

移住から5年、大木田は、アルゼンチン社会にあって、見事な信心の実証を示し始めたのだ。そのころから、周囲の人たちの学会への評価が大きく変わり、彼の語る仏法の話に皆が耳を傾けるようになっていった。一方、白谷も、目覚ましい信心の成長を遂げていった。

そして、1963年(昭和38年)地区が誕生すると、白谷は地区部長になり、翌年には支部が結成され、支部長となった。メンバーは面倒見のよい人柄の 彼を慕い、仲の良い、和気あいあいとした組織がつくられていった。

大木田と結婚した光子は、東京で本部職員をしていた。実際にアルゼンチンでの生活が始まると、驚くことばかりだった。電気もない農村地帯で、全く経験のない農作業も手伝わなくてはならない。学会活動に出るといってもバスもなく、夫のスクーターに乗せてもらって出かけるしかなかった。

涙が出る時は日本を発つ前に、山本伸一が指導してくれた言葉を思い出し、懸命に学会活動に励んだ。
東京で女子部の幹部であった彼女にとって、アルゼンチンのメンバーの活動は、のんびりしているように見えた。光子が懸命になればなるほど、皆の心が離れていった。

“私のどこがいけないのだろう”彼女は必死になって唱題し、自分が日本での活動を基準にして、すべて、そこに当てはめようとしていたことに気づく。自分本位だったと反省し、アルゼンチンの現実と向き合い、メンバー一人ひとりの苦悩を解決していくには、喜んで活動できる組織にするにはどうすればよいかを考え、個人指導を心がけ、行動した。

地道な、粘り強い、対話と激励の繰り返しこそが、すべてを変えていく原動力なのである。


太字は 『新・人間革命』第11巻より 抜粋