『新・人間革命』第12巻 愛郷の章 P135~
「何事も受け身で、人に言われて動いていれば、つまらないし、勢いも出ない。その精神は奴隷のようなものだ。しかし、自ら勇んで挑戦していくならば、王者の活動だ。生命は燃え上がり、歓喜もみなぎる。同じ動きをしているように見えても、能動か、受働かによって、心の燃焼度、充実度は、全く異なる。それは、当然、結果となって表れてくる。どうせ活動するなら、君も、常に自分らしく、勇んで行動する主体者になることだよ」
アパートに戻ってからも伸一の赤石への激励は続いた。レコードをかけ「忙しくとも、音楽を聴くぐ
らいの心の余裕はなくてはならない。信心をしているからといって、世界を狭くしてはいけないよ。本来、広宣流布というのは、人間文化の創造の運動なんだからね」
赤石雪夫は、男子部の中核として育ち、やがて壮年部として、長野を担当するようになり、今、長野の総合本部長として、同志と共に、この信州の山紫水明の山河を、所狭しと駆け巡っていた。
伸一は、松代会館で立正安国論の御文をひいて、主体である自身と、人間を取り巻く環境とは、本来、不二の「依正不二」であるから、万人が生命の根本法たる正法を信じ、題目を唱えていくならば、大風や豪雨など、あらゆる災難を払っていくことができるとの御本仏の仰せを確信していきたいと指導。
「松代の地は、太平洋戦争の時は、本土決戦に備え、大本営を移そうとした地であり、今は、住民の方々が、群発地震で苦しんでおられます。信心の眼で見れば、だからこそ皆さんが、松代の宿命を打破し、法華経の寿量品に説かれた『我此土安穏』にしていくために、仏の使いとして、この地に集ってこられたんです。
つまり、この松代こそが、皆さんの使命の大舞台なんです。大奮闘をお願いします。実は、苦しい時、大変な時こそ、大成長できるし、大福運を積めるチャンスなんです。」と指導した。
そして、「人間は一人では生きられない。崩れざる幸福を築いていくためには、信心を切磋琢磨していくよき、同志が、組織が必要であるとし、愚痴や文句は、功徳福運を消すことになり、歓喜を奪い去り、心をすさんだものにし、自分で自分を不幸にしていく。反対に感謝の思いは、歓喜を燃え上がらせ、自らの心を豊かにし、幸福にします。」と言って、感謝の心で、喜びをもって信心に励んでいただきたいと話した。
その後伸一は地元のメンバーの案内で、川中島の古戦場に向かった。伸一は、武田信玄と、上杉謙信の激戦に思いを馳せた。
伸一は、川中島の合戦を詠った「霧の川中島」の歌を戸田城聖の前で歌った日のことが、昨日のように思い出された。それは、夕張炭鉱の労働組合が創価学会員の締め出しを画策した、夕張炭労事件の余塵がくすぶる8月のことであった。
戸田は、伸一に、何度もこの歌を歌わせ、涙して聴いた。そして、身を震わせて叫んだ。「炭労は卑怯だ!戸田がいないのをいいことに、私の大事な弟子を苛める。私が来ると、出てこようともしない。私は絶対に逃げ隠れはせぬ。会員は私の大切な命だ」
戸田城聖が他界する7か月半ほど前である。既に、戸田の体は著しく衰弱していた。しかし、炭労の関係者と会って、いっさいの決着をつけ、夕張の会員を守ろうと、ここまで来たのである。炭労の幹部たちは、姿さえ見せなかったのである。
武田信玄を討ち逃がした上杉謙信の無念の情を詠った箇所があるが、それはまた、戸田の思いでもあったにちがいない。だから、戸田は、あの火を吐くような叫びの矢を放ったのだ。その声は、今なお、伸一の耳朶に響いていた。
戸田は、徹して悪を打ち砕かんとする敢闘と執念のなかにのみ、正義と人道の勝利があることを、弟子たちに教えたかったのである。
太字は 『新・人間革命』第12巻より 抜粋
「何事も受け身で、人に言われて動いていれば、つまらないし、勢いも出ない。その精神は奴隷のようなものだ。しかし、自ら勇んで挑戦していくならば、王者の活動だ。生命は燃え上がり、歓喜もみなぎる。同じ動きをしているように見えても、能動か、受働かによって、心の燃焼度、充実度は、全く異なる。それは、当然、結果となって表れてくる。どうせ活動するなら、君も、常に自分らしく、勇んで行動する主体者になることだよ」
アパートに戻ってからも伸一の赤石への激励は続いた。レコードをかけ「忙しくとも、音楽を聴くぐ
らいの心の余裕はなくてはならない。信心をしているからといって、世界を狭くしてはいけないよ。本来、広宣流布というのは、人間文化の創造の運動なんだからね」
赤石雪夫は、男子部の中核として育ち、やがて壮年部として、長野を担当するようになり、今、長野の総合本部長として、同志と共に、この信州の山紫水明の山河を、所狭しと駆け巡っていた。
伸一は、松代会館で立正安国論の御文をひいて、主体である自身と、人間を取り巻く環境とは、本来、不二の「依正不二」であるから、万人が生命の根本法たる正法を信じ、題目を唱えていくならば、大風や豪雨など、あらゆる災難を払っていくことができるとの御本仏の仰せを確信していきたいと指導。
「松代の地は、太平洋戦争の時は、本土決戦に備え、大本営を移そうとした地であり、今は、住民の方々が、群発地震で苦しんでおられます。信心の眼で見れば、だからこそ皆さんが、松代の宿命を打破し、法華経の寿量品に説かれた『我此土安穏』にしていくために、仏の使いとして、この地に集ってこられたんです。
つまり、この松代こそが、皆さんの使命の大舞台なんです。大奮闘をお願いします。実は、苦しい時、大変な時こそ、大成長できるし、大福運を積めるチャンスなんです。」と指導した。
そして、「人間は一人では生きられない。崩れざる幸福を築いていくためには、信心を切磋琢磨していくよき、同志が、組織が必要であるとし、愚痴や文句は、功徳福運を消すことになり、歓喜を奪い去り、心をすさんだものにし、自分で自分を不幸にしていく。反対に感謝の思いは、歓喜を燃え上がらせ、自らの心を豊かにし、幸福にします。」と言って、感謝の心で、喜びをもって信心に励んでいただきたいと話した。
その後伸一は地元のメンバーの案内で、川中島の古戦場に向かった。伸一は、武田信玄と、上杉謙信の激戦に思いを馳せた。
伸一は、川中島の合戦を詠った「霧の川中島」の歌を戸田城聖の前で歌った日のことが、昨日のように思い出された。それは、夕張炭鉱の労働組合が創価学会員の締め出しを画策した、夕張炭労事件の余塵がくすぶる8月のことであった。
戸田は、伸一に、何度もこの歌を歌わせ、涙して聴いた。そして、身を震わせて叫んだ。「炭労は卑怯だ!戸田がいないのをいいことに、私の大事な弟子を苛める。私が来ると、出てこようともしない。私は絶対に逃げ隠れはせぬ。会員は私の大切な命だ」
戸田城聖が他界する7か月半ほど前である。既に、戸田の体は著しく衰弱していた。しかし、炭労の関係者と会って、いっさいの決着をつけ、夕張の会員を守ろうと、ここまで来たのである。炭労の幹部たちは、姿さえ見せなかったのである。
武田信玄を討ち逃がした上杉謙信の無念の情を詠った箇所があるが、それはまた、戸田の思いでもあったにちがいない。だから、戸田は、あの火を吐くような叫びの矢を放ったのだ。その声は、今なお、伸一の耳朶に響いていた。
戸田は、徹して悪を打ち砕かんとする敢闘と執念のなかにのみ、正義と人道の勝利があることを、弟子たちに教えたかったのである。
太字は 『新・人間革命』第12巻より 抜粋