小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

佐渡の同志の使命

佐渡流罪

『新・人間革命』第11巻 躍進の章 P368~

会合終了後、男女青年部と懇談をもった伸一は、青年たちの励ましの意味を込め、一緒に卓球をした。女子部のメンバーは、急遽『佐渡おけさ』を見てもらいたいと話し合い、旅館の浴衣を借りて、踊りの上手な従業員に加わってもらい、踊ったが、どこかぎこちない踊りであったが、一生懸命披露した。

伸一には、何よりもその真心がうれしかった。途中から加わった同行の幹部の一人が、「旅館のショーですか。従業員が踊っていたんですかね。あまり上手くなかったな。」と女子部の真心を踏みにじる、横柄な響きがあった。

伸一は、憮然とした顔で「旅館の方も踊ってくださったが、あとの三人は、ぼくの妹だよ」と言った。そのやり取りを聞いていた女子部員は、胸を詰まらせた。「妹」という言葉に、伸一のやさしさと期待を感じとったのである。

伸一は、記念にピアノ演奏をプレゼントすると言って、皆で“大楠公”の曲を弾いた。この歌は、戸田城聖が、生前、よく青年たちに歌わせた歌であった。戸田は、この歌に広宣流布の指定の精神を託して、青年たちに歌わせ、歌い方についても、厳しく指導してきた。

殉難を覚悟で広宣流布に生き抜く後継の獅子を、鍛え育もうと、戸田は必死であったのである。「君たちも、一にも早く大成長し、立派な指導者になって、広布のため、社会のために、献身していくんだぞ。いいな!」

伸一の奏でる“大楠公”の曲に合わせて合唱していると、戸田の姿が目に浮かび、胸が熱くなるのであった。伸一は、歌い終わった青年たちを励ますように、大きな声で言った。「早く生い立てーーこれが戸田先生の私たちへの願いであり、期待であった。佐渡のみんなも、その心で立ち上がり、大成長していくんだ。私は、もう立ち上がったよ。君たちも早く立とうよ」

東京に帰る日、船をバックに見送りにきた同志と記念写真を撮った伸一は、新潟の幹部に、「佐渡の男子部は、両津の埠頭に、百人の男子部員の結集をしてみてはどうか」と提案。それができれば、佐渡の広宣流布の基盤がつくられるし、未来は盤石になると話した。

伸一は、この佐渡の地での、日蓮大聖人のまさに師子王のごとき戦いに思いをめぐらせた。
 
日蓮が、佐渡の松ヶ崎に着いたのは、文永八年(1271年)10月28日のことである。10月下旬といっても、旧暦であり、既に季節は初冬であった。配所の塚原に到着したのは、11月1日であった。塚原は、佐渡島のほぼ中央に位置し、そこは、死人を捨てる場所であり、弔いのために里人が建てた、四本柱の荒れた堂があった。三昧堂である。ここが日蓮の配流の場所である。

この三昧堂で、彼は日興とともに、極寒の佐渡の冬を過ごした。日蓮は齢50であった。日蓮の生涯は迫害に次ぐ迫害であったことはよく知られている。そのなかでも、竜の口の首の座から佐渡流罪に至る迫害は、最も過酷な大法難であった。

この法難を引き起こしたそもそもの要因は、文応元年(1260年)7月16日、「立正安国論」をもって、時の最高権力者である北条時頼を諫暁したことにあったといえる。

日蓮は、大風、洪水、飢饉、疫病、地震と、相次ぐ災厄に苦しむ民衆を救わんがために、「立正安国論」の筆を執り、経文を通してその災厄の原因を明らかにしていった。すなわち、この苦悩の根本原因は、正法に背き、誤った教えを尊崇していることにあると指摘したのだ。


また、誤った教えに執着し続けるならば、まだ起こっていない三災のうちの兵革の災、すなわち、七難のうちの自界叛逆難、他国侵逼難が起こるであろうと警告した。同志討ち、内乱であり、他国に侵略されると警告したのだ。


太字は 『新・人間革命』第11巻より 抜粋


佐渡の同志の使命

『新・人間革命』第11巻 躍進の章 P354~

4月22日、伸一は 3年半ぶりに新潟を訪れ、新潟本部の新会館の起工式に臨んだ。三年前、新潟地震により、信濃川の氾濫により、新潟会館は、床下浸水の被害にあった。

伸一は、各県などの中心会館を、しっかりとした、大きな建物にし、ひとたび災害が起きた時は、学会の会館は、救援対策本部となり、また、臨時の避難所として、被災者を受け入れられる建物にすることを、考慮してのことであった。

当初は、既存の建物を購入する予定であったが、新潟会館は、新しく建てることとし、日本海側で、最初の鉄筋の本部となった。

起工式終了すると記念撮影に移った。伸一は 来ていた、佐渡のメンバーと、語らい、9年前に佐渡を訪問した時のことを思い出していた。この年、戸田城聖が世を去り、同志はまだ、その悲しみから立ち上がることができずにいた。

学会は、「空中分解するであろう」というのが、世間の大方の見方であった。そのなかで伸一は、実質的に全学会の指揮をとることになったのである。

新潟支部の初の運動会に出席するため、新潟入りした伸一は、佐渡で会合が予定されていることを知り、急遽、佐渡行が決まった。海が荒れ、欠航する恐れがあったので、急いで正午の船で佐渡へ向かうことにした。

雨は、降ったりやんだりを繰り返し、伸一たちが乗った船は500トンほどの船であったが、木の葉のように揺れに揺れた。船は漂流するような進み方であった。通常の所要は3時間であったが、4時間かかった。

佐渡には、まだ地区も誕生していなかったが、全島から200人ほどのメンバーが会場に集って来た。伸一は、佐渡が金山で有名であったことから、御書を拝して、「黄金の人生」とは何かについて述べようと思った。

「生老病死は、生命の実相であり、それぞれに深い意義と価値があります。そのなかで、生きるということは、黄金にあたると仰せになっているんです。」

「人生の輝きは、自身の使命を自覚して、自ら勇んで広宣流布に邁進していくなかに生まれます。信心は義務ではありません。権利です。」

「自分から一人立ち、積極的に果敢に行動していくところには、大歓喜があります。さらに、日々、自分を磨き鍛えていくことです。つまり、持続の信心です。持続というのは、ただ、昨日と同じことをしていればよいのではありません。『日々挑戦』『日々発心』ということです。信心とは、間断なき魔との闘争であり、仏とは戦い続ける人のことです。その戦いのなかにこそ、自身の生命の輝きがあり、黄金の人生があることを知っていただきたいのです。」

次いで伸一は、佐渡の同志の使命について言及していった。「大聖人ゆかりの地には、いずれも、大聖人の御精神に違背した、日蓮宗の寺院がたっております。そこには、真実の日蓮仏法はありません。精神の廃墟にすぎない。大聖人が魂魄をとどめられたこの佐渡の地に、まことの日蓮仏法を、大聖人の大精神を復興させ、佐渡を最高の“幸福島”にしゆくことこそ、わが創価学会の使命であります。」

「佐渡が広宣流布の先駆となるために、大切なことは、まず、皆さんの心のなかにある、“無理だろう”“そんなことができるわけがない”といった、あきらめを打ち破ることです。大聖人は佐渡に流罪されるなどしても、『いまだこりず候』と仰せになっているではありませんか。」

「戸田先生亡き今こそ、弟子が立ち上がる時です。佐渡の皆さん、私とともに戦いを起こしましょう!」大拍手がわき起こった。

皆が決意を新たにした。皆が猛然と奮い立ったのである。


太字は 『新・人間革命』第11巻より 抜粋


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