小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

会長辞任

世界の流れを開く対話

『新・人間革命』第30巻(上) 雌伏の章 123p~

<雌伏の章 開始>

第三代会長を辞任し、名誉会長になった山本伸一は、1979年(昭和54年)5月3日の本部総会で、十条潔新会長のもと、新体制がスタートしたことを見届けると、世界広布の新しい雄飛のために行動を開始した。

同志との励ましの対話に徹し、また、世界平和への流れを開くために、各国の大使や識者らとの語らいに努めた。対話の力こそが、次代を開く平和力となる。

伸一は、学会本部に行くことを、なるべく控えるようにしていた。彼は、深い祈りを捧げながら、「獅子の子落とし」の言い伝えを思い起こした。今、彼も、同じ思いで、後継の奮闘を見守っていたのである。

週刊誌などのマスコミは、毎週のように伸一の会長辞任などを取り上げ、囂しかった。学会批判を繰り返してきた評論家らが登場し、学会は滅亡に向かうといった、邪推に基づく無責任な報道も続いていた。

そのなかで彼は、行く先々で学会員の姿を見ると声をかけ、激励を重ねていった。記念のカメラにも収まった。何があろうが、広宣流布の軌道を外さず、自ら定めたことを、日々、黙々と実行していくーーまさに太陽の運行のごとき前進のなかにこそ、人生の栄光も広布の勝利もある。

彼は、世界を結び、確かな平和への道を開くために、各国の識者や大使らとも積極的に交流を図っていた。5月19日には、中日友好協会の廖承志会長と都内のホテルで会談した。2009年10月中国・広州市にある仲愷農業工程学院から、伸一と妻の峯子に、それぞれ名誉教授の称号が贈られる。さらに同校には、廖承志と伸一の研究センターがつくられ、2010年11月に開所式が行われた。

彼は、5月22日には、ソ連のノーボスチ通信社の国際部長や論説委員、大使館関係者らと語り合った。米ソ第二次戦略兵器制限交渉や、アジアおよび世界の平和・文化・教育の問題などをめぐって意見交換したのである。その席で伸一に、強い訪ソの要請が出されたのだ。

伸一は、平和友好の対話を積極的に推進していった。特に、アフリカの関係者らとの語らいに力を注ぐようにしていた。21世紀は「アフリカの世紀」になるというのが、彼の信念であったからだ。また、長年、大国の植民地として支配され、貧困や飢餓に苦しんできたアフリカの平和と繁栄が約束されなければ、人類の未来はないと痛感していたからである。

彼は、海外の要人と会話する一方で、日本の有識者とも対話を重ねていった。また、その間隙を縫うようにして、共に広宣流布に汗を流してきた同志の家を訪問し、激励に努めた。

伸一は、草創の同志と会うと、決まって言うことがあった。それは、「人生は、総仕上げの時が、最も大切である」ということであった。過去にどんなに活躍し、栄光の歴史を残したとしても、晩年になって退転してしまえば、結局は敗北の人生となってしまう。

「生涯求道」「生涯挑戦」「生涯闘争」の精神を保ち続けていくなかにこそ、三世永遠にわたる燦然たる生命の勝利がある。

山本伸一が法華講総講頭、学会の会長を辞任することで、若手僧らによる学会攻撃はピリオドが打たれることになっていた。それでも若手僧の寺の多くが、御講の席などで、学会への中傷、攻撃を繰り返していたのである。

また、学会員を檀徒にする動きも、むしろ活発化していた。もはや、彼らは、宗務院の言うことも、さらには、法主の言うことさえも、耳を、耳を傾けようとはしなくなっていたのだ。宗内は、次第に混乱の様相を見せ始めていたのである。

7月22日、山本伸一のもとに日達法主が亡くなったとの連絡が入った。心筋梗塞のために、息を引き取ったのである。77歳であった。伸一は、直ちに弔問に向かった。この夜から、大客殿で仮通夜が営まれ、席上、重役である僧から、「重大発表」があった。それは、総監の阿部信雄が、前年4月、日達から内々に相承を受けており、彼が第67世の法主になることが決まったというものである。この時も、広宣流布のために和合を願い、宗門を守っていくというのが、学会の姿勢であった。


太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
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未来への積極的な選択

『新・人間革命』第30巻(上) 大山の章 53p~

迎賓館で鄧頴超と会見した翌日の4月13日、山本伸一は新宿区内で、松下電器産業(後のパナソニック)の創業者である松下幸之助と懇談した。深い交友を重ねてきた松下翁にも、会長を辞任する意向であることを伝えておかなくてはと思った。

「私は、次代のため、未来のために、会長を辞任し、いよいよ別の立場で働いていこうと思っています」松下翁は、子細を聞こうとはしなかった。「そうですか。会長をお辞めになられるのですか。私は、自分のことを誇りとし、自分を賞賛できる人生が、最も立派であると思います」含蓄のある言葉であった。

この日、伸一は、神奈川県横浜市に完成した神奈川文化会館へ向かった。神奈川は、創価学会の平和運動の原点の地である。会館の前は山下公園で、その先が横浜の港である。「七つの鐘」を鳴らし終え、平和・文化の大航路を行く創価の、新しい船出を告げるにふさわしい会館であると、伸一は思った。

伸一は思った。“自分の会長辞任が発表されれば、少なからず皆は驚くにちがいない。しかし、何があろうが、いささかたりとも、信心に動揺があってはならない。そのために、不動の信心の確立を叫び抜いておかねばならない”

彼は、言葉をついだ。「学会においても、幾つかの転機があり、乗り越えるべき節があります。いかなる時でも、私たちが立ち返るべき原点は、初代会長の牧口先生が言われた“一人立つ精神”であり、広宣流布の大精神であります」

“どのような事態になろうが、創価の師弟の大道を守り抜く限り、慈折広布の前進がとどまることはない。世界の平和へ、人類の幸福へと歴史の歯車は回り、一人ひとりの桜花爛漫たる幸の人生が開かれていくーー彼は、全同志に、その確信を、断じて持ち続けてほしかったのである”

4月16日の午後、来日していたアメリカの前国務長官ヘンリー・A・キッシンジャー博士の訪問を受け、渋谷区の国際友好会館で会談した。約4年ぶりの対面である。二人は、提起し合った問題を掘り下げていくには、多くの時間を要するため、将来、もう一度、対談し、21世紀を建設するための示唆を提供していこうと約し合った。

それが実現し、1968年、2日間にわたって語らいが行われた。これに往復書簡もまじえ、月刊誌『潮』に対談が連載された。そして’89年9月、単行本『「平和」と「人生」と「哲学」を語る』として潮出版社から刊行されている。

山本伸一は、今こそ、平和の礎となる、仏法から発する生命の尊厳と平等の哲理を世界に伝え、広め、21世紀の時代精神としなければならないと決意していた。

伸一は、世界平和の実現という壮大なる目標に向かって、指導者、識者らとの対話を進める一方、一人ひとりの同志の幸福を願い、家庭訪問や個人指導に余念がなかった。“何があろうと、いかなる立場になろうと、私は尊き学会員を励まし続ける。庶民と共にどこまでも歩み続ける”ーー彼は、そう固く心に決めていたのである。

一人の人を大切にし、守り励ますことも、世界平和の建設も、同じ原点をもつ。万人が等しく「仏」であるとの、仏法の哲理と慈悲から生じる実践にほかならないからだ。

彼の脳裏には、戦争、飢餓、貧困等々で苦しむ世界の民衆が鮮明に映し出されていた。彼は、何よりも人類を引き裂く東西冷戦にピリオドを打つために、自分ができることは何かを問い、考え抜いてきた。“一人の人間として、一民間人として、世界の首脳たちと対話を重ね、人間と人間を結ぶことだ。いかに不可能に見えようが、それ以外に、平和の創造はない!”

人間主義の旗を高く掲げ、21世紀の新大陸へと進む創価の新航路が、ありありと彼の瞼に浮かぶのであった。

4月22日、山本伸一は総本山に足を運んだ。法主の日達と面会するためである。彼にとって法華講総講頭の辞任も、学会の会長の辞任も、もはや未来のための積極的な選択となっていた。もちろん辞任は、宗門の若手僧らの理不尽な学会攻撃に終止符を打ち、大切な学会員を守るためであった。

しかし、「七つの鐘」が鳴り終わる今こそ、学会として新しい飛翔を開始する朝の到来であると、彼は感じていた。また、これまで十分な時間が取れず、やり残してきたこともたくさんあった。世界の平和のための宗教間対話もその一つであったし、功労者宅の家庭訪問など、同志の激励にも奔走したかった。

伸一は、日達と対面すると、既に意向を伝えていた法華講総講頭の辞任を、正式に申し出た。そして、26日には辞表を提出する所存であることを告げた。日達からは「名誉総講頭の辞令を差し上げたい」との話があった。


太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋

鄧頴超との最後の語らい

『新・人間革命』第30巻(上) 大山の章 35p~

伸一は、1952年(昭和27年)4月、日蓮大聖人の宗旨建立700年慶祝記念大法会の折の出来事を思った。学会の青年たちが、僧籍をはく奪されているはずの笠原慈行を総本山で発見した。笠原は、戦時中、時局に便乗して神本仏迹論の邪義を唱え、保身のために大聖人の正法正義を踏みにじった悪僧である。彼の動きが契機となって軍部政府の弾圧が起こり、牧口常三郎の獄死の遠因となったのである。

宗祖の教えを踏みにじった悪僧を、宗会は庇いたて、その悪を正した戸田を厳重処分にしようというのだ。“宗会は、戸田先生の大講頭罷免や登山停止など、お一人だけを処分するつもりだ。これは、会長である先生と会員との分断策だ。

戸田先生なくして、いったい誰が広宣流布を進めるのだ!何があろうが、私たちが戸田先生をお守りする。正義を貫かれた、なんの罪もない先生を処分などさせるものか!”それが伸一の胸中の叫びであり、当時の学会首脳、青年部幹部の決意であった。

笠原事件を乗り越えた学会の、師弟の魂の結合は一段と強くなっていった。伸一は、今、学会の首脳たちに、広宣流布に断固と生きる師弟の気概が、燃え盛る創価の闘魂が、感じられないことを憂慮していた。

4月6日、彼は、宗門の虫払い大法会に出席するため、総本山大石寺に赴き、細井日達法主と面会した。そこで、法華講総講頭の辞任とともに、創価学会の会長も辞任する意向であることを伝えたのである。伸一にとっては、悪僧らの攻撃から、学会員を守ることこそが最重要であった。

彼には、“自分は会長を退いても、若き世代が創価の広宣流布の松明を受け継ぎ、さっそうと21世紀の大舞台に躍り出てくれるにちがいない”との、大きな確信があった。

4月7日、山本伸一は、創価大学を訪れた中華全国青年連合会の一行20人を「周桜」の前で迎えた。彼は、先頭に立って、全青連のメンバーを案内した。伸一は、全青連代表団の団長を務めた高占祥より7歳年長であった。伸一は、彼を“若き友人”として尊敬し、日本で結ばれた二人の友情は色あせることはなかった。

会長辞任を決めた伸一の心は、既に世界に向かって、力強く飛び立っていたのだ。4月12日、東京・港区元赤坂の迎賓館で約7か月ぶりに鄧頴超と再会したのである。あいにく東京は、既に桜の季節は終わってしまった。伸一は、ささやかではあるが、東北から八重桜を取り寄せ、迎賓館に届けてもらった。

その桜は、会談の会場である迎賓館の「朝日の間」に美しく生けられていた。伸一は、一冊のアルバムを用意していた。そこには、「周桜」「周夫婦桜」創価大学に学ぶ中国人留学生の写真などが収められていた。

約40分間に及んだ和やかな語らいは終わった。伸一は、“鄧先生には、どうしても伝えておかなければ…”と思い、口を開いた。「実は、私は創価学会の会長を辞めようと思っています」鄧頴超の足が止まった。伸一を直視した。「山本先生、それは、いけません。まだまだ、若すぎます。何よりあなたには、人民の支持があります。人民の支持がある限り、辞めてはいけません」真剣な目であった。

彼女は、念を押すように言った。「一歩も引いてはいけません!」進退は自分が決めることではあるが、伸一にとっては、真心が胸に染みる、ありがたい言葉であった。彼は、鄧頴超の思いに応えるためにも、いかなる立場になろうが、故・周恩来総理に誓った、万代にわたる日中友好への歩みを、生涯、貫き通そうと、決意を新たにした。

’89年(平成元年)6月4日、中国では第二次天安門事件が起こった。欧米諸国は政府首脳の相互訪問を拒絶し、日本政府は中国への第三次円借款の凍結を決めるなど、中国は国政的に孤立した。伸一は思った。“結果的には、中国の民衆が困難に直面している。私は、今こそ、友人として中国のために力を尽くし、交流の窓を開こう。それが人間の信義であり、友情ではないか!”

“中国を孤立化させてはならない!”と、彼は強く心に期していた。そして翌90年5月、創価学会第七次訪中団と友好交流団の計281人が、大挙して中国を訪れたのである。それは中国との交流再開の大きな流れをもたらし、関りを躊躇し、状況を見ていた多くの団体等が、これに続いた。

伸一と峯子は、この折、再び鄧頴超の住居・西花庁を訪問した。彼女は86歳となり、入院中であったが、わざわざ退院して、玄関先に立ち、伸一たちを迎えたのだ。彼女は、周総理の形見である象牙のペーパーナイフと、自身が愛用してきた筆立てを、「どうしても受け取ってほしい」と差し出した。「国の宝」というべき品である。人生の迫り来る時を感じているにちがいない。その胸の内を思うと、伸一の心は痛んだ。

彼は“永遠に平和友好に奮闘する精神の象徴”として拝受することにした。これが最後の語らいになったのである。


太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋

会長辞任の真実

『新・人間革命』第30巻(上) 大山の章 26p~

このころ、学会は、絶頂期を迎えていたといってよい。いわば、最高の上げ潮をもって、学会は1979年(昭和54年)という、「七つの鐘」終了の佳節を迎えたのだ。伸一には、いつでも、師の戸田城聖に胸を張って勝利を報告できるとの自負があった。

伸一には、以前から考えてきたことがあった。それは、会長の交代であった。いつかは辞任したい旨の意向を何度か執行部に伝えたが、会長は「終身」であることを理由に反対された。宗教法人としての創価学会の代表役員を理事長に委譲した際や、77年にも交代の話を出したが認められなかった。

しかし、“折を見て会長の交代を”とも考えていた。また、仏法者として世界を展望する時、伸一には、やらねばならぬことも多々あった。世界平和の建設のため、より広範に具体的な行動も起こしていきたかった。世界の指導者との対話も、さらに重ねていく必要性を感じていた。

そして、何よりも、世界広布は、いよいよこれから本格的な建設期を迎える段階にある。だが、自分が世界へと大きく踏み出すならば、日本国内のバトンを受け継ぐ者は、激浪の海へと船出していくことになる。後を託す幹部には、信心の透徹した眼で魔を魔と見破り、勇猛果敢に戦い進んでいく決意と行動が不可欠になろう。それだけに伸一は、今こそ皆に勇気をもってほしかった。

4月5日、伸一は学会の首脳会議に出席した。宗門との問題に、いかに対処するかを協議する場である。集っていたのは、十条をはじめ、数人の中心幹部である。皆、沈痛な面持ちであった。

伸一は、いよいよ魔が、その目論見を露わにしたと思った。彼を会長辞任に追い込み、創価の師弟を離間させようとする陰謀である。それは、結果的に、広宣流布を進めてきた仏意仏勅の団体である創価学会を破壊することにほかならない。魔の蠢動は、信心の眼をもって見破るしかない。

伸一が、一人の幹部に意見を求めると、つぶやくように語った。「時の流れは逆らえません・・・」なんと臆した心かーー胸に痛みが走った。

伸一は、自分が頭を下げて混乱が収まるならば、それでよいと思っていた。辞任は避けられないかもしれないとも考えていた。また、皆が対応に苦慮し続けてきたことも、よくわかっていた。しかし、それにしてもふがいないのは“時流”という認識である。

“ただ状況に押し流されて、よしとするなら、いったい学会精神はどこにあるのか!大事なのは、広宣流布のために学会を死守しようという奥底の強い一念ではないか!”

伸一の声が静寂を破った。「わかった。私は、法華講の総講頭も、学会の会長も辞めよう。一切の責任を負う。それでいいんだな!すべては収まるんだな!しかし、会長の辞任は、宗門ではなく、学会が決めることだ。私が会長を辞めるのは、前々から考えてきたことであり、学会の未来を開くためだ」

伸一には“宗門が創価学会の会長を圧力で辞めさせるなどという前例を、絶対につくってはならない。また、そんなことになれば、宗門の歴史に、永遠に汚点を残すことになるだろう”との思いもあったのである。

戦後、宗門が危殆に瀕した時、外後の赤誠をもって、それを救ったのは学会である。そして、何よりも学会は、伸一を先頭に死身弘法の戦いをもって実際に大聖人の御遺命通りに広宣流布を邁進し、世界に妙法を流布してきた唯一無二の仏意仏勅の団体だからだ。

広布の道は第六天の魔王との壮絶な闘争である。信心をもって、その魔を見破り、戦い、勝ってきたからこそ、学会は広宣流布の大潮流をつくることができたのである。

戸田城聖は、弟子たちに、「第三代会長を守れ!絶対に一生涯守れ!そうすれば、必ず広宣流布できる」と遺言していた。ここに、常勝の道を開く団結の要諦がある。しかし、恩師が広宣流布のために言い残した精神を皆が忘れかけていることに、心が震撼する思いがした。

彼は、学会の前途を見すえながら、祈るような気持ちで首脳幹部に言った。「私は師子だ!何も恐れはしない。皆も師子になれ!そうでなければ、学会員がかわいそうだ。烈々たる闘争心と勇気をもって、創価の師弟の大道を歩み抜くのだ。その一念が不動ならば、いかなる事態にも学会は揺らぐことはない。戸田先生は見ているぞ!」彼は、席を立ち、部屋を出ていった。

伸一は、牧口常三郎と戸田城聖の師弟の大闘争と思った。創価の師とは、広宣流布を誓願し、現代に出現した「地涌の菩薩」の棟梁であり、前進の主軸である。そこに弟子の一念がかみ合ってこそ歯車は大回転を開始する。ゆえに、師弟の結合こそが創価の生命線となるのだ。


太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
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