『新・人間革命』第10巻 言論城の章 P7~
<新・人間革命 10巻 言論城の章 開始>
人間革命ーーそこに、いっさいの原点がある。すべての根本をなしているのは、人間であり、自己自身であるからだ。ゆえに、自分自身の生命の変革が、家庭を変え、地域を変え、社会を変える。時代を変え、歴史を変え、世界を変える。
「勝利の年」と銘打たれた、1965年(昭和40年)の新春は、会長山本伸一の小説『人間革命』の新聞連載で始まった。
山本会長が、師匠の戸田二代会長の出獄後の歩みを描いた、初の小説の連載である。
連載の第1回は、「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない」との言葉から始まり、敗戦間際の1945年7月3日、「やせ細った中年の男」の出獄の場面が描かれていた。
戸田の出獄といっても、まだ、わずか20数年前のことである。しかし、学会の大発展から考えると、それは、まるで隔世の感があった。
大発展した創価学会しか知らない新しいメンバーは、先輩幹部から草創期の話を聞いてはいても、あまり実感はなかった。だが、『人間革命』は、創価の大河の流れが、まさに、たった一人から始まっていることを痛感させた。そこに、筆者の山本伸一の意図もあった。
彼は、師の戸田の決意と精神を、全同志が分かちもってほしかった。そのための執筆でもあった。
安楽に慣れ、原点の精神を忘れれば、魂は滅びる。人類の幸福の宝城たる学会を永遠ならしめるには、戸田の敢闘を永遠に伝え抜かなくてはならないと、伸一は深く思っていた。
また、この新年、もう一つ、山本伸一から、学会員への贈り物があった。それは、旬刊雑誌『言論』の1月1日号から、「若き日の日記から」と題して、伸一の青春時代の日記が連載されたことであった。
伸一、21歳の記録である。反響は彼の予想以上に大きかった。
学会の青年の多くは、高い学歴があるわけでもなければ、社会的な地位や名誉があるわけでもなかった。皆が庶民であり、無名の青年といってよい。日記を目にした青年たちは、山本会長もまた、自分たちと同じような境遇のなかで、働き学ぶ、貧しい一青年であったことを知り、強い親近感をいだいたようである。
そして、広宣流布の崇高な使命を自覚し、あえて苦難に挑んできた伸一の生き方に、共感を覚え、未来への希望と勇気を見いだしていった。
元日の朝、行われた新年勤行会の席上、山本伸一は、こうあいさつした。「生命は永遠である。その永遠の生命から見るならば、この一生は、一瞬の夢のようなものです。三世にわたる、永遠の大福運を積むものは、ただ妙法であり、真実の仏道修行だけであります。私たちの広宣流布の戦いは、10年や20年先をめざしての戦いではありません。末法万年、尽未来際の一切衆生を救いゆく戦いであります。人類の悲願である、恒久平和を実現する前進であります。」
「つまり、私どもの、この一生は、この一年は、この一日は、永劫の未来を決していくものであることを、深く心に刻み、すべてを大勝利で飾ってまいろうではありませんか」
「一瞬」に「永遠」を凝縮しての行動ーーそれは、伸一が、常に自身に課していたテーマでもあった。
この年も、彼は、特に、活動の要ともいうべき、地区幹部への激励に力を注ごうとしていった。
1月10日、同じ時期に信心を始めた青年時代から親しい間がらだった山際洋の訃報が届く。
山際は、幼少期から病弱で、成人してからも、結核で8年間の療養生活を送ったことがあった彼が、49歳まで、元気に活躍してこられたこと自体が、「更賜寿命」の姿であったのかもしれないと伸一は思った。
元日の新年勤行会には出席し、その9日後の臨終であった。立派な、安らかな、まるで、眠っているかのような顔であった。
人間革命ーーそこに、いっさいの原点がある。すべての根本をなしているのは、人間であり、自己自身であるからだ。ゆえに、自分自身の生命の変革が、家庭を変え、地域を変え、社会を変える。時代を変え、歴史を変え、世界を変える。
「勝利の年」と銘打たれた、1965年(昭和40年)の新春は、会長山本伸一の小説『人間革命』の新聞連載で始まった。
山本会長が、師匠の戸田二代会長の出獄後の歩みを描いた、初の小説の連載である。
連載の第1回は、「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない」との言葉から始まり、敗戦間際の1945年7月3日、「やせ細った中年の男」の出獄の場面が描かれていた。
戸田の出獄といっても、まだ、わずか20数年前のことである。しかし、学会の大発展から考えると、それは、まるで隔世の感があった。
大発展した創価学会しか知らない新しいメンバーは、先輩幹部から草創期の話を聞いてはいても、あまり実感はなかった。だが、『人間革命』は、創価の大河の流れが、まさに、たった一人から始まっていることを痛感させた。そこに、筆者の山本伸一の意図もあった。
彼は、師の戸田の決意と精神を、全同志が分かちもってほしかった。そのための執筆でもあった。
安楽に慣れ、原点の精神を忘れれば、魂は滅びる。人類の幸福の宝城たる学会を永遠ならしめるには、戸田の敢闘を永遠に伝え抜かなくてはならないと、伸一は深く思っていた。
また、この新年、もう一つ、山本伸一から、学会員への贈り物があった。それは、旬刊雑誌『言論』の1月1日号から、「若き日の日記から」と題して、伸一の青春時代の日記が連載されたことであった。
伸一、21歳の記録である。反響は彼の予想以上に大きかった。
学会の青年の多くは、高い学歴があるわけでもなければ、社会的な地位や名誉があるわけでもなかった。皆が庶民であり、無名の青年といってよい。日記を目にした青年たちは、山本会長もまた、自分たちと同じような境遇のなかで、働き学ぶ、貧しい一青年であったことを知り、強い親近感をいだいたようである。
そして、広宣流布の崇高な使命を自覚し、あえて苦難に挑んできた伸一の生き方に、共感を覚え、未来への希望と勇気を見いだしていった。
元日の朝、行われた新年勤行会の席上、山本伸一は、こうあいさつした。「生命は永遠である。その永遠の生命から見るならば、この一生は、一瞬の夢のようなものです。三世にわたる、永遠の大福運を積むものは、ただ妙法であり、真実の仏道修行だけであります。私たちの広宣流布の戦いは、10年や20年先をめざしての戦いではありません。末法万年、尽未来際の一切衆生を救いゆく戦いであります。人類の悲願である、恒久平和を実現する前進であります。」
「つまり、私どもの、この一生は、この一年は、この一日は、永劫の未来を決していくものであることを、深く心に刻み、すべてを大勝利で飾ってまいろうではありませんか」
「一瞬」に「永遠」を凝縮しての行動ーーそれは、伸一が、常に自身に課していたテーマでもあった。
この年も、彼は、特に、活動の要ともいうべき、地区幹部への激励に力を注ごうとしていった。
1月10日、同じ時期に信心を始めた青年時代から親しい間がらだった山際洋の訃報が届く。
山際は、幼少期から病弱で、成人してからも、結核で8年間の療養生活を送ったことがあった彼が、49歳まで、元気に活躍してこられたこと自体が、「更賜寿命」の姿であったのかもしれないと伸一は思った。
元日の新年勤行会には出席し、その9日後の臨終であった。立派な、安らかな、まるで、眠っているかのような顔であった。
太字は 『新・人間革命』第10巻より 抜粋
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