小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

人間革命

「人間革命」の連載再開

『新・人間革命』第30巻(上) 雄飛の章 303p

山本伸一は『人間革命』の担当記者に言った。「私は、戸田先生の弟子だ。だから、どんな状況に追い込まれようが、どんな立場になろうが、広宣流布の戦いをやめるわけにはいかないんだ。命あるかぎり戦い続けるよ。しっかり見ておくんだよ」

しかし激闘による疲れもたまっていた。咳が続き、発熱する日もあった。濡れたタオルで額を冷やしながら、畳の上に横になった。伸一は、時々咳き込む。目も充血している。10分ほどしたころ、伸一は、勢いよく、バンと畳を叩き、体を起こした。

「さあ、始めよう!歴史を残そう。みんな連載を楽しみにしているよ。“同志のために”と思うと、力が出るんだよ」15分ほど作業を進めると、伸一は、咳き込み始めた。咳は治まっても、息はゼイゼイしている。「少し休ませてもらうよ」また、畳の上に横になった。10分ほどして、また、力を込めて、畳をバンと叩いて身をおこした。「さあ、やろう!みんなが待っているんだもの」

しかし、やはり10分ほどすると、体を休めなければならなかった。連載は、ひとたび開始されれば、途中で休むわけにはいかない。そこに新聞連載小説の過酷さもある。伸一にとっては、まさに、真剣勝負であり、生命を削る思いでの口述であった。

「ことばは鍛えぬかれて、風を切る矢ともなれば炎の剣にもなる」とは、デンマークの作家アンデルセンの箴言である。伸一も、そうあらねばならないと自らに言い聞かせ、わが同志の魂に響けと、一語一語、考え抜きながら原稿を仕上げていったのである。連載に対する反響は大きかった。全会員の心に、蘇生の光を注いだのである。

宗門は、混迷の度を深めていった。宗門側は、学会攻撃はしないと言明していた。しかし、「正信会」の学会員への仕打ちは、ひどさを増しており、山脇の謀略に躍った「正信会」の僧たちの暴走は止まらなくなっていた。

宗門は、彼らを、順次、擯斥処分にしていった。この流れを見て、慌てて態度を変え、法主・宗務院に従う僧たちもいた。
擯斥され、寺を明け渡すことになった住職らは、法廷で宗門と争っていくことになる。

9月30日午後10時、山本伸一は、一路、ホノルルを目指した。アメリカ広布20周年を記念する諸行事に出席し、世界広宣流布の新しい幕を開くためである。10月2日には、ハワイ会館で行われた「世界平和の日」記念勤行会に出席した。

「世界平和の日」は、20年前のこの日、伸一が、初の海外訪問に旅立ったことから、学会として設定した記念日である。初訪問の折、ハワイでの座談会に集ったのは、3、40人に過ぎなかった。参加者の多くは、人生の悲哀に打ちのめされていた。

以来20年、地涌の菩薩の陣列は、世界約90か国・地域へと広がった。伸一は、「世界平和の日」記念勤行会で、さらに、20年後の西暦2000年をめざして、民衆の堅固な平和のスクラムをもって、人類を、世界を結ぼうと誓願し、深い祈りをささげた。

伸一は、今回のハワイ訪問では、ジョージ・アリヨシ州知事と会談したほか、ハワイ総会に出席するなど、精力的に平和交流とメンバーの激励に奔走した。そして、サンフランシスコ、ワシントンDCと回り、10月10日には、シカゴに到着した。

サンフランシスコでは総会に集った3500人の友と交歓。また、ワシントンDCでは、参加した4千人のメンバーを激励。続いて訪れたシカゴでは、市内のマダイナ公会堂に5千人のメンバーが喜々として集い、シカゴ文化祭、そして記念総会が行われた。

20年前、伸一がシカゴを訪問した時、メンバーは十数人であったことを思うと、隔世の感があった。この文化祭でひときわ彼の心をとらえたのは、サチエ・ペリーと、その7人の子どもによる演目であった。一人ひとりの蘇生の体験があってこそ、普遍の法理は証明されていく。

伸一は、家族の勝利劇の舞台を、ひときわ大きな拍手で賞賛した。世界の平和は、一人の人間革命、宿命転換から始まる。平和の実像は、一家の和楽、幸福にこそある。アメリカ広布20周年ーー万人が等しく仏の生命を備えていることを説き示す日蓮仏法によって、新たなアメリカンドリームが身を結び、多くの幸の人華を咲かせていたのだ。

ロサンゼルスに到着した伸一は、世界48か国・地域の代表1万5千人が集って開催された、第1回SGI総会に出席した。総会に対して、国連事務総長、アメリカの上・下院議員、地元やニューヨークの州知事、各市長、大学学長ら各大学関係者等から、祝福のメッセージが寄せられた。

“いよいよ、これからだ!”彼の眼は、希望の旭日に輝く新世紀を見すえていた。


太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
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人間革命の執筆を決意

『新・人間革命』第30巻(上) 雌伏の章 132p~

この夏、世界41か国3地域のSGIメンバー1300人が来日していた。伸一は、SGI会長として出席し、メンバーを激励した。全世界から、求道の心を燃やし、喜々として集ってきた同志を目の当たりにして、伸一は、いよいよ世界広布の新時代が到達したとの思いを強くするのであった。

8月20日の午後、山本伸一は、長野県・軽井沢町の長野研修道場へ向かった。軽井沢は、戸田城聖が逝去前年の1957年8月に訪れ、最後の夏を過ごした地である。戸田は、伸一と森川一正を招き、鬼押出しに車を走らせて、奇岩の連なる景観を見せ、ホテルで共に食事をした。大阪事件で不当逮捕された伸一を、ねぎらいたかったのである。

師弟の語らいは弾み、話題は、戸田が「妙悟空」のペンネームで執筆した小説『人間革命』に及んだ。戸田は、「巌窟王」のごとく臥薪嘗胆し、軍部政府の弾圧で殉教した師の敵を討つことを深く心に誓ったのだ。その復讐とは、恩師の正義を証明することであった。師の正義を宣揚し抜いていくことこそ、弟子に課せられた責務にほかならない。

伸一は、深く心に期すことがあった。ーー戸田の『人間革命』は、彼の分身ともいうべき「巖さん」が、獄中で、生涯を広宣流布に生き抜く決意をしたところで終わる。

1945年(昭和20年)7月3日、戸田は、獄死した師の牧口常三郎の意志を受け継ぎ、生きて獄門を出る。その後、戸田が現実に何を成し遂げ、いかにして日本の広宣流布の基盤を築き上げたかーー伸一は、それを書き残さなければ、師の偉業を宣揚することも、牧口と戸田を貫く創価の師弟の精神を後世に伝えることもできないと思った。

伸一は、“先生の真実を記すことができるのは、私しかいない。また、それが先生の私への期待であり、弟子としての私の使命であろう”この時、彼は、これまでに何度か考えてきた、戸田の『人間革命』の続編ともいうべき伝記小説の執筆を、確固不動の決意としたのだ。長野県は、創価の師弟の精神を永遠ならしめる誓いの天地となったのである。

戸田が最後の夏を過ごした地を、世界広宣流布への新たな幕を開く最初の夏に訪れたのである。この宿縁の地から、新しい創価学会の建設に着手しようと心に決めていたのだ。

長野県長の斉田高志と握手を交わしながら語っていった。「地涌の菩薩の使命を自覚するならば、どんなに動きを拘束され、封じ込められようが、戦いの道はある。智慧と勇気の闘争だ。

大聖人は『いまだこりず候』と言われ、いかなる迫害にも屈せず、戦い抜かれたじゃないか!みんなも、生涯、何があっても、いかなる立場、状況に追い込まれようとも、広宣流布の戦いを、信心の戦いを、決してやめてはいけないよ。私は、会員の皆さんのために戦い続けます」

小諸本部の副本部長である木林隆の家を訪問した。11年前に交わした約束を果たしたのである。夜には、軽井沢支部の初代支部長・婦人部長を務めた田森寅夫と妻のタミとも語り合った。

寅夫は、一流ホテルで修業を積んだパン職人で、念願であった店舗を購入できたことなどから、信心への確信を強くし、歓喜を胸に弘教に励んでいった。

しかし、周囲には、学会に偏見をいだき、彼が信心をすることを快く思わぬ人たちが多くいた。客足も遠のいていった。学会の先輩は、確信をもって訴え、指導した。当時の学会員は、大なり小なり、こうした事態に直面した。そのなかで同志は、ますます学会活動に闘魂を燃やしていった。そして、御書を拝しては、互いに励まし合ってきたのである。

学会活動は御書と共にあり、生活のなかに教学があった。そこに学会の崩れぬ強さがある。思えば、それは、第二代会長の戸田城聖が、『日蓮大聖人御書全集』の刊行を成し遂げたからこそ可能となったのである。

伸一は、恩師が語っていた言葉を紹介した。「戸田先生は、『将来、ここで夏季研修会を開きたいな』と、しみじみと話しておられた。ここに研修道場ができたことによって、恩師の構想実現へ、また一歩前進することができました。

やがて、長野研修道場には、全国、いや全世界の同志の代表が集うようになり、いわば、広宣流布の電源の地となっていくでしょう。それだけに、この長野県に、世界模範の創価学会を創り上げてください。私も、全力で応援します」

同志は、伸一の姿を瞼に焼きつけ、“創価の師弟の大道を誇らかに歩もう”と、決意を新たにするのであった。


太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
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人間賛歌の文化祭

『新・人間革命』第24巻 母の詩の章 7p

<新・人間革命第24巻 開始>
<母の詩の章 開始>

1976年(昭和51年)8月末、山本伸一とアンドレ・マルローとの対談集『人間革命と人間の条件が、発刊された。この本には、フランス文学者で著名な評論家でもある桑原武夫が序文を掲載している。
「これは二人の大実践者の対話である」と彼は、伸一を「平和精神の普及と、それによる人類の地球的結合とを説いて全世界に行脚を続ける大実践者「と評している。

マルローが、なぜ、創価学会へ強い関心をいだいているのか 桑原は「西欧の知識人は、創価学会にたいして、日本の知識人とは比較にならぬほど強い興味をもっている。トインビーもその一人である」

対談でマルローは、学会という「ひじょうに有力な組織」が、環境汚染などと戦うことを希望するとともに、伸一が世界のさまざまな危機への問題提起を、重要な国々に行い、そのイニシアチブをとるように勧めている。

伸一は、そうした行動の必要性も、十分に認識したうえで、人類の平和と繁栄を創造するための土台作りとして、人間生命のなかに潜むエゴの克服こそ、必要不可欠であると主張した。

伸一は、未来を考えるにあたっての、自分の態度を語った。「私は未来予測という作業は、未来はどうなるかではなく、未来をどうするかーーということに真の意義があると思います。一人ひとりの人間の生きることへの意志が人生の全体に反映され、その時代を彩り、やがて歴史へと投影されていく。新しい道は、こうして開かれていくと信じています。

したがって未来は、現在を生きる一人ひとりの胸中にある、さらに日々を生きゆく日常性のなかにあるとみたい」未来は、自己自身の胸中の一念にこそある。

伸一は人間革命の必要性を訴え抜いた。「たとえば、一地域や一国の問題が、そのまま全地球的問題としてかかわってくる時代にあっては、自分だけというエゴは通用しません」

人類の未来に光を注ぐために、伸一は、対話に生命を注ごうとしていた。人間革命ーー世界の知性は、それを可能にする哲理を渇望していた。その確かなる方途を求めていた。創価学会は、人間革命の宗教である。広宣流布とは、人間革命運動の広がりである。

この年の8月半ばから10月上旬にかけて開催された、県・方面の文化祭は人間賛歌の絵巻を繰り広げた。

地区婦人部長の橋塚由美子の夫は事業が行き詰まり、橋塚が文化祭の練習会場に通う交通費を工面することさえ、容易ではなかった。彼女は、低血圧症で、目まい倦怠感に悩んでいたが、聖教新聞を配達し、主婦業、地区婦人部長、合唱団の練習と励んでいた。

夫は、仕事がないため、酒を飲んで荒れ、茶碗を投げつけることもあった。彼女は疲れ果て、文化祭の出場もやめようと思ったが、関西文化祭のテーマ「人間革命光あれ」であった。彼女は"この文化祭のテーマは、私自身のテーマなのだ。なんとしても人間革命してみせる!"寸暇を惜しんで、彼女の懸命な唱題が始まった。

体は疲れているが、心は軽やかであった。いつの間にか、低血圧症に悩まされることもなくなっていた。また、次第に、夫の仕事の状況が好転していったのである。

神奈川文化祭では、松葉杖の青年の奮闘があった。彼は、1歳の時にポリオにかかり、足が不自由であることから、消極的な性格になっていった。しかし、信心に励み、やがて学生部員になった彼は、文化祭への出演を決意する。"足が不自由だから"と挑戦をあきらめたり、自分の不幸や敗北の原因を、そこに求める"弱さ"と決別したかった。また、肉体的なハンディも、信心を根本に、懸命に頑張ることで、必ず乗り越えられるという実証を示したかったのである。

人間革命によって、変わらぬ世界はない。

太字は 『新・人間革命』第24巻より 抜粋

精神の共鳴音

『新・人間革命』第21巻 共鳴音の章 311P

マルロー邸は、芝生の広がる緑の館であった。会談では、日本の針路をはじめ、世界情勢と21世紀の展望などについて語り合った。"行動する作家"は訴えた。「今、何が大事かーーそれは人間です。人間の精神革命から始まります。自分は一個の人間として何ができるかを考え、行動を起こしていくことです。」

伸一は、このアンドレ・マルローとも、これらの語らいをまとめ、翌年8月、対談集『人間革命と人間の条件』を発刊している。

伸一は、5月20日は、パリ会館でアカデミー・フランセーズ会員で美術史家のルネ・ユイグと会談した。彼とも、前年、聖教新聞社で初めて会い、会談していた。戦時中、学芸員であった彼が、ナチスの手からルーブル美術館の至宝を守り抜いたことは、よく知られている。彼との対話も対談集『闇は暁を求めて』となって結実するのだ。

さらに翌22日の午前、伸一はパリの南ベトナム臨時革命政府の大使館を訪れ、レ・キ・バン代理大使と会談した。北ベトナム軍の戦車がサイゴンに無血入城し、南ベトナムが解放され、戦争にピリオドが打たれたのは、まだ二十日あまり前のことである。

会談では、今後の日本との外交、南と北の統一の問題などについて意見が交わされた。「どうか、会長から日本の人びとへ、われわれベトナム人民の心を伝えてください」その言葉に伸一は、平和と友好を願う魂の声を聞いた思いがした。

そして午後には、フランス社会党の執行委員で社会運動の論客として知られるジル・マルチネ宅を訪ねた。マルチネとも前年の3月に東京で会談しており、二度目の語らいであった。

伸一はこのヨーロッパ訪問では、可能な限り、識者と対話を重ねた。彼の胸には、トインビー博士の「人類全体を結束させていくために、若いあなたは、このような対話を、さらに広げていってください」との言葉がこだましていた。

そして、語り合った一人ひとりが、人間の変革を志向し、伸一の語る人間革命の哲理に感銘し、精神の共鳴音を高らかに響かせたのである。

19世紀後半、ビクトル・ユゴーは「フランス革命を完遂すること、そして、人間的な革命を始めることを義務とする、今世紀」と記した。

今、まさに、その「人間革命」の本格的な時代が、遂に、到来したのだ!
時は来たのだ!

<共鳴音の章 終了>






太字は 『新・人間革命』第21巻より 抜粋


一念の変革

『新・人間革命』第3巻 仏法西環の章 P14~


組織の発展のためには、常にマンネリの古い殻を打ち破る斬新な発想と、
みずみずしいエネルギーが必要だ。
そして、それには 若い力に期待する以外にない。


山本伸一は、生命を削る思いで 青年の育成にあたっていた。


ある女子部リーダーが いた。
右足を膝から切断していて、歩くのに時間がかかり、
メンバーの家庭訪問も 1、2件が精いっぱい。


折伏の応援に 友人のところへ 行っても、不自由な足に 
無遠慮な 冷たい視線を浴びせられることが、少なくなかった。
彼女は いつも、そのまなざしに、蔑みの色を感じとった。


自分が中心者でいることによって、学会に対する周囲の評価を、
低いものにしているように思えてならなかったのである。

 
その悩みを 山本伸一に話した。


伸一は、彼女が 幹部リーダーとして活動することが、いかに、
大変かを、十分承知していた。彼女を称え、庇い、休ませたやりたかった。


しかし、あえて厳しい口調で話す。
「・・・女子部の幹部として、あまりにも 情けない。私はそんな弱虫は嫌いだ!」
意外なほど厳しい 指導に 茫然とする 女子部。


伸一は、彼女の気持ちが痛いほどよくわかった。しかし、単なる感傷や同情は、
彼女にとって、なんのプラスにもならないことを、彼は知り抜いていた。


彼女に必要なものは、人間としての強さである。


伸一は彼女ならばあの指導の意味を理解し、必ず、
新しい挑戦を開始するだろうと信じていた。
彼の厳しさは、信頼に裏打ちされていたのである。


泣きながら唱題する彼女に 幹部が伸一の言葉を伝える。
「先生は、あなたのことを、“弱虫ではない。きっと頑張るはずだ”と期待されています。
あなたの奮起を促そうとして、先生は あえて、あのように指導をされたんです」と


この時から、一念が変わり たちあがる女子部だった。


人間は 自らの一念が後退する時、立ちはだかる障害のみが大きく見えるものである。
そして、それが動かざる“現実”であると思い込んでしまう。


実は、そこにこそ、敗北があるのだ。いわば、
広宣流布の勝敗の鍵は、己心に巣くう臆病との戦いにあるといってよい。

伸一は今、一人ひとりの一念の変革を成そうとしていた。
人間革命といっても、そこに始まるからである。


太字は 『新・人間革命』第3巻より抜粋

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