小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

人間外交

祈り・後継・人間外交

『新・人間革命』に学ぶ 番外編④ー1

「新・人間革命」につづられた名言をテーマごとに紹介

テーマ「祈り」
「試練に次ぐ試練、涙また涙というのが、現実の社会といえます。そのなかで人生に勝利していくには、唱題しかありません。信心強気人とは、何があっても"題目を唱えよう"と、御本尊に向かえる人です。その持続の一念が強ければ強いほど、磁石が鉄を吸い寄せるように福運がついていきます」

「次に、御本尊の力を実感していくうえでも、祈念は具体的でなければならないということです。また、日々、唱題の目標を決めて、挑戦していくこともいいでしょう。祈りは必ず叶います。すると、それが歓喜となり、確信となり、さらに信心が強まっていきます。また、たとえ、すぐに願いは叶わなくとも、冥益となって、時とともに所願満足の境涯になることを確信していただきたい」
(第26巻「法旗の章」p141)

テーマ「後継」
「牧口先生が、戸田先生に広宣流布のバトンタッチをされたように、戸田先生は、未来のために、広宣流布の一切を、私をはじめとする青年たちに託された。それが、あの6千人の青年が集った『3・16』の儀式なんです。
  
次の広宣流布の流れは、青年につくってもらう以外にない。そして、さらに若い世代が、次のもっと大きな拡大の流れをつくる。その永続的な戦いが広宣流布なんです。したがって、後継者が臆病であったり、力がなく、自分たちの世代に、仏法流布の流れを開いていくことができなければ、広宣流布の未来も、学会の未来もなくなってしまう。

ゆえに私は、青年部の、また、高等部をはじめ、未来に生きる各部の皆さんの育成に真剣勝負で臨んでいるんです。広宣流布は諸君に託すしかない。私は、君たちのために、すべてを注ぎつくします。命をも捧げる思いでおります。
(第25巻「福光の章」p101~102)


テーマ「人間外交」

「戸田先生が、外交、渉外というものを、どのように考えられていたかから、お話ししましょう。先生は、外交を最重要視され、常々、『広宣流布は渉外戦、外交戦である』と言明されていた。また、『外交のできぬ人間を重用してはならない』ともいわれていた。そして、私を本部に新設した渉外部の初代部長に任命された。その時、先生は私に こうおっしゃった。

『伸一、大事なのは人間としての外交である。どんどん人と会って、友情を結んでいきなさい。すべて勉強だ。また、それが広宣流布につながるのだ』つまり、人間として、いかに信頼と尊敬を勝ち得ていくかが勝負であるーーというのが、戸田先生の渉外に対するお考えであり、それが私たちの外交なんです」
(第18巻「飛躍の章」p340~341)


太字は 聖教新聞 小説『新・人間革命』番外編③より 抜粋

福田赳夫元総理との会談

『新・人間革命』第21巻 人間外交の章 123P~ 

3月4日には作家の井上靖と、6日には駐日イラン大使館のA・H・ハムザービィ大使と会った。そして、
9日には、学会本部で福田赳夫副総理と会談したのである。「山本会長は、中国、ソ連、アメリカを回られて、首脳と会談されておられるが、ぜひ、お話をお聞かせ願いたい」との要請があったのである。

福田は、この日、飄々と、自ら学会本部に足を運んだ。伸一は、6年前の1969年(昭和44年)4月に、佐藤内閣の大蔵大臣であった福田と会談していた。初対面のあいさつの時、福田は言った。

「会長のことは、佐藤総理からも、よく伺っております」一人の人と、誠実に信義で結ばれていくならば、そこから、友情の輪は幾重にも広がっていくのである。一人を誠心誠意、大事にすることだ。「一は万が母」である。

大蔵大臣である福田の「金で買えないものの価値を大事にしたい」という言葉に、伸一は感動を覚えた。彼の人間性の輝きを感じた。

「創価学会には、真面目な若い人が多くて、すごいですね」そして、伸一の年齢を聞くと、驚きの声をあげた。「まだ、会長が41歳ですか!未来が楽しみですね。これからも日本のためによろしくお願いします」こう言って彼は頭を下げた。この丁重な態度に、伸一は、いたく恐縮した。

以来、6年ぶりの会談である。福田は70歳になっていた。伸一の民間外交に対しては、嫉妬からか、「日本外交の邪魔になるから、勝手なことをさせるな」といった政治家や官僚の声もあった。だが、福田は、民間交流の大切さを真摯に受け止め、高く評価していたのだ。人の器の大きさは、国益や人類益を本当に考えることができるかどうかによって決まるといってよい。

福田は、この翌年の12月、自民党総裁となり、総理に就任する。伸一と彼との交友は、その後も末永く続くことになる。

3月14日、山本伸一は、ソ連対外友好文化交流団体連合会のA・M・レドフスキー副議長と会談した。そして、16日には中国青年代表団の一行を歓迎したのである。

男子部では 「3・16」を記念する大会をこの日、東京・両国の日大講堂で開催し、引き続いて同じ会場で、中国青年代表団歓迎大会を行うことになっていた。

学生部長の田原薫が、歓迎のあいさつにたった。「この日大講堂は、今から7年前の9月8日、会長の山本先生が学生部総会に集った全国の学生部員を前に、社会の非難を覚悟で、あの歴史的な『日中国交正常化提言』をされた会場であります。」「いわば、この会場は、日中友好の日本における原点の地であります。」

中国青年代表団の団長があいさつに立った。「山本会長が中日友好を促進するために行った努力は、中国人民の心に印象深く残っております。今度は、世々代々の友好へ、両国の青年が団結し、励まし合い、友情の花を、一層鮮やかに咲かせていこうではありませんか!」全男子部員思いを代弁するかのような、団長のあいさつであった。

伸一は、代表団のメンバーに未来を託す思いで語った。「皆さんには、さらに堅固な友好の大道を開いていく使命があります。では、そのために何が必要か――。それは行動です。どんな立派な言葉よりも、実際に何をしたかです。勇気をもって行動していくことです。私もそうしてきました。これからも、そうしていきます。」

山本伸一の仕事は、年々増えこそすれ、減ることはなかった。3月の20日は、関西の財界人たちと、さらに、東洋大学の磯村英一教授と会談した。24日には、イスラエルのシャウル・ラマティ駐日大使夫妻。25日には、ルーマニアのニコラエ・フィナンツー駐日大使。29日には、西ドイツのボン大学名誉教授のゲルハルト・オルショビー博士、ウガンダのS・T・ビゴンベ駐日臨時代理大使夫妻と会談している。

対話には勇気と決断が大切である。まず、断じて語り合おうと心を定めて、懸命に時間をつくり出すのである。そして、対話が実現したら、恐れずに真実を語るのだ。それが、本当の友情を育んでいく。


太字は 『新・人間革命』第21巻より 抜粋


国家、民族、宗教の違いを超えての対話

『新・人間革命』第21巻 人間外交の章 114P~ 

山本伸一の会談相手は多岐にわたっていた。政界人では、初の革新都知事となった経済学者の美濃部亮吉とも、1968年(昭和43年)1月と72年5月に会談していた。美濃部の父親は、天皇機関説で知られる美濃部達吉である。この学説のために、彼は不敬罪で告発され、貴族院議員を辞職。暴漢にも撃たれ、重傷を負っている。美濃部都知事との会談は、先方の強い希望で実現したものであった。

また、伸一は、1974年12月には、日本共産党の宮本顕治委員長とも会談し、広く人生をめぐって対話している。伸一は、党派も、イデオロギーも、また、国家も、民族も、宗教も超えて、各界のリーダーと信義と友情の絆を結ぼうとしていた。人間と人間の交流こそが、平和と人道の潮流となるからだ。

2月14日には、東海大学の松本重義総長らと会談した。さらに翌15日には、ソ連の劇作家で『アガニョーク』誌のA・V・サフローノフ編集長と会談。21日には、モスクワ大学のY・s・ククーシキン歴史学部長と語り合い、22日には、アフリカ・ガーナ大学のアレクサンダー・クワポン副総長と、25日には中山賀博前駐仏大使と、そして27日には、中国大使館の李連慶参事官らと会談している。

伸一のこうした精力的な対話の展開に、学会本部の首脳幹部たちは、ただただ、驚くばかりであった。メンバーの一人が尋ねた。「主義主張も、価値観も違う人びとと、共感し合い、友情で結ばれていくには、どういう心構えが必要でしょうか」

「いろいろ違いがあるというのは、当然のことじゃないか。違いというのは個性でもある。違いがあるからこそ、この世界は多様性に富んだ、百花繚乱の花園なんだよ。だから、差異は本来、認めることはもとより、尊敬し、学び合うべきものだ。まず、その視点をもつことだ。したがって、いかなる宗教の人であろうが、人間として尊重することが大前提だよ」

「人には、さまざまな違いがある。多様である。しかし、その差異を超えた共通項がある。それは、皆がこの地球に住む、同じ人間であるということだ。そして、生老病死を見つめながら、誰もが幸福であることを願い、平和を望んで、懸命に生きているということだよ。」

「その共通項に立てば、共有すべき"思想"に行き着くはずだ。それは、生命は尊厳なるものであり、誰にも生存の権利があるということだ。幸福になる権利があるということだ。だから、絶対に戦争を許してはならない。」

伸一の対話の目的は、この人間としての共通項を確認し合い、平和への共感の調べを奏でることにあった。国家、民族、宗教の違いを超えて、生命の尊厳を守る人間のスクラムを築き上げることにあった。彼は人間の良心を信じていた。

「人間には、国家の利害や立場をはじめ、さまざまなしがらみがある。それを超えて、人間としての普遍的な価値のために立ち上がってもらえるのか。また、不信を信頼に変えさせうるのかーーという生命の啓発作業が対話ともいえる。だから、対話には、忍耐、粘り強さ、英知、確信が求められる。」

「また、対話を通して、人格や思想、信念に触れ、新しい知識や知恵、発想などを吸収することもできる。対話は人間を高める直道なんだよ」

2月1日から「日本経済新聞」紙上に『私の履歴書』と題する自伝の連載を開始したのである。連載は3月初旬まで続くことになる。『私の履歴書』は体験をもとにした平和への叫びとなっていた。いかなる時代に生まれたかーーそれもまた、宿命であり、使命である。彼は自分の来し方を通して、創価学会の真実の姿と、師である戸田城聖の偉大さを、読者が少しでも理解してくれればと願いながら、ペンを執ったのである。

山本伸一は、3月に入ってからも、さらに会談を重ねていった。


太字は 『新・人間革命』第21巻より 抜粋


佐藤栄作元総理との語らい

『新・人間革命』第21巻 人間外交の章 101P~ 
<人間外交の章 開始>

山本伸一は、1975年(昭和50年)1月28日帰国。帰国した伸一は、精力的に、大使館関係者や各界のリーダー、ジャーナリストなどと、相次ぎ対話を重ねていった。

2月1日には駐日アメリカ大使館を訪問。ジェームズ・ホジソン大使と約1時間にわたって会談。その翌日には、アメリカの日本協会のアイザック・シャビロ会長と会談。さらに、6日には、AP通信社のジョン・ロデリック東京特派員と会い、そして、12日、佐藤栄作元総理との会談に臨んだのである。

佐藤元総理は前年にノーベル平和賞を受賞していた。それを「一日も早く山本会長にお見せしたい」との連絡を受けていた。佐藤元総理は「こちらから山本会長のお宅におじゃまさせていただきます」とのことであった。

食事をしながらの語らいが始まった。佐藤は語った。「私はノーベル賞の授賞式の帰り、ソ連を訪問し、コスイギン首相とお会いすることができました。実は、その時、コスイギン首相が、こう言われておりました。『日本に帰ったら、創価学会の山本会長によろしく伝えてください。この間、有意義な会見をしたばかりなんです』と」

伸一は、その会談の模様を佐藤に伝えた。"日本人の理解を得ようと思うなら、「親ソ派」と称される政治家や団体とばかり交流するのではなく、保守党の議員など、幅広く交流すべきである"と述べたことも伝えた。

佐藤元総理は、"親米"の代表のように言われていた。その佐藤とコスイギン首相との会見が実現したのだ。コスイギン首相は、伸一の意見を真摯に受け止めてくれたのであろう。佐藤は大きく頷きながら言った。「山本会長の真心と情熱にあふれたご意見が、コスイギン首相を動かし、私との会見が実現したのでしょう」

「それにしても、山本会長は、コスイギン首相を相手に、よくぞ言ってくださった。まさに友人としての忠告という感じがします。そういう語らいは、政府の代表同士では難しいでしょう。だから民間交流が大事です」

さらに、伸一は、前年の第二次訪中で周恩来総理、鄧小平副総理と会見したことを述べ、中国を大切にしていきたいとの心情を語った。佐藤栄作といえば、台湾一辺倒であるという見方が定着していた。しかし、彼は、以前から日中国交正常化を念願していたのだ。伸一には、その心がわかっていた。

佐藤が常に台湾を重要視してきたのは、蒋介石総統に対する信義を貫いたからであった。佐藤は、戦後、蒋介石が日本人の帰国を速やかに認め、賠償金も取らなかったことに、深い恩義を感じていたのである。恩をもって恩に報いるーーその信念が佐藤を貫いていたのだ。

伸一は、佐藤が総理在任中から何度か顔を合わせる機会があった。ひときわ思い出となっているのが、9年前の1月鎌倉・長谷の別邸を訪れた時のことであった。山本は佐藤と二人だけで3時間半ほど語り合った。佐藤の総理就任から1年2か月がたっていた。佐藤は64歳、伸一は38歳。年の差は親子ほどあった。

「『人間革命』読みましたよ。厳しい言葉がありますね。総理よりも庶民が偉いと書いてある」語らいは『人間革命』から始まったのである。佐藤は、しみじみとした口調で言った。「創価学会は純粋ですね。気持ちがきれいだ。純粋に国のためを思っていることがよくわかる」佐藤は、人間の精神をどう変革するかを、テーマとしていたようだ。

伸一は佐藤の部屋に案内された。途中に一枚の写真が飾られていた。吉田茂と佐藤が、並んで写った写真であった。「私の師匠です」佐藤は胸を張って誇らかに言った。

一国の総理が自分の師匠を尊敬し、誇りをもって紹介する姿に、伸一は"この人は、心から信頼できる"と思った。「求道の人」「向上の人」は必ず、師匠を求める。そして、心に師をいだいている人には、厳たる風格がある。

吉田茂が亡くなった翌月に、佐藤は訪米。小笠原と沖縄の返還への流れを開いた。それは吉田の悲願でもあった。師匠の念願を成し遂げてこそ弟子である。師が願って、成就できなかったことは、すべて弟子が果たし抜くのだ。それが師弟の道なのである。

後日、寛子夫人から丁重な手紙が届いた。「無口な主人が本当によくしゃべりました。『会長がひと回りもふた回りも大きくなって、日本のために頑張ってくださっているのがうれしい』と言っていました」とあった。この語らいから3か月後に、佐藤元総理は倒れ、6月3日、帰らぬ人となった。

後年、八王子に東京牧口記念会館ができると、伸一と峯子は、その庭園に佐藤夫婦の夫婦桜を植樹している。


太字は 『新・人間革命』第21巻より 抜粋


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