小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

人材育成

リーダーの在り方

『新・人間革命』第28巻 勝利島の章 345p~
< 勝利島の章 開始 >

1978年(昭和53年)の9月20日、第四次訪中から帰国した彼は、翌21日には、訪中について、マスコミ各社のインタビューに応じるとともに、依頼を受けていた新聞社などの原稿執筆に余念がなかった。彼は、1日に、4回、5回と、会合に出席し、激励を重ねることも珍しくなかった。

広宣流布は着々と進み、今や、創価の太陽は世界を照らし始めた。それゆえに、障魔の暗雲は沸き起こり、学会への攻撃が繰り返されていた。伸一は、“わが同志を断じて守らねばならぬ”と、深く心に決めていた。

伸一は、世界平和の確かな潮流をつくるために行動することも、今世の自身の使命であると、強く自覚していた。それゆえに、各国の識者、指導者との語らいを重ね続けた。また、創価大学をはじめ、創価教育各校の創立者として、その諸行事にもできる限り出席した。伸一の行動はとどまるところを知らなかった。

全国の県長会議で、彼は語った。「広宣流布の活動の世界、舞台は、あくまでも現実の社会です。社会を離れて仏法はありません。したがって、私たちは、社会にあって、断固、勝たねばならない。そのために、まず皆さん自身が、社会の誰が見ても立派だという、人格の人に育っていただきたいんです。

信心の深化は、人間性となって結実し、豊かな思いやりにあふれた、具体的な言動となって表れます。その人間性こそが、今後の広宣流布の決め手となっていきます」

仏法の偉大な力は、何によって証明されるかーー実証である。病苦や経済苦人間関係の悩み等々を克服した功徳の体験も、すばらしい実証である。同時に、自分自身が人間として、ここまで変わり、向上したという人格革命があってこそ、仏法の真実を証明しきっていくことができる。

伸一は、新しい時代を担う、新しい人材の育成に懸命であった。人格の輝きを放つためのリーダーの心構えについて、諄々と諭すように訴えている。

「細かいようだが、リーダーは、約束した時間は、必ず守ることです。自分は忙しいのだから、少しぐらい遅れてもいいだろうといった考えは、絶対にあってはなりません。それは、慢心であり、甘えです。自分の信用を、学会の幹部への信頼を崩すことになります」

伸一は、各地を訪問した折に、家族のなかで、ただ一人、信心に励んでいる婦人などと、懇談する機会がよくあった。夫が、なぜ、活動から遠ざかってしまったのかを尋ねると、人間関係に起因しており、こんな答えが返ってきた。「男子部のころ、先輩が横柄だったことで、嫌気が差したと言っておりました」

また、学会活動に参加しなくなってしまった娘のことで悩む母親は、こう語った。「なぜ折伏をするのかなど、一つ一つの活動の意味がよくわかっていないのに、やるように言われるのがいやで、やめてしまったとのことです」

学会活動することの意味が理解できずにいるのに、ただ、やれと言われたのでは、苦痛に感じもしよう。そこで大切になるのが、納得の対話である。「なぜ折伏を行ずる必要があるのか」「その実践を通して、自分は、どんな体験をつかんだのか」などを語っていくことである。

広宣流布を推進するリーダーにとって大事なことは、自分の担当した組織のすべてのメンバーに、必ず幸せになってもらおうという強き一念をもつことだ。そして、人間対人間として、誠実に交流を図り、深い信頼関係を結んでいくことである。その素地があってこそ、励ましも、指導も、強く胸を打ち、共鳴の調べを奏でることができるといえよう。

それは、学会員に対してだけでなく、すべての人間関係についても同様である。日ごろからの交流があってこそ、信頼も芽生え、胸襟を開いた対話もできる。リーダーが麗しい人間関係をつくり上げることに最大の努力を払っていくならば、広宣流布は、着実にますます大きな広がりを見せていくにちがいない。

本来、創価学会の人間の絆ほど、尊く美しいものはない。友の幸せを願う思いやりがあり、同苦の心がある。まさに、創価の友によって結ばれた人間の連帯は、かけがえのない社会の宝になりつつあるといってよい。

それだけに伸一は、幹部との人間関係で活動から遠ざかってしまったという話を聞くたびに、激しく胸が痛んだ。ゆえに彼は、リーダーの在り方について、さまざまな角度から、指導し続けたのである。


太字は 『新・人間革命』第28より 抜粋

支部制発足に伴う指導部の使命

『新・人間革命』第26巻 法旗の章 120p~

伸一は、草創の12支部の代表からなるグループの結成を推進していったのである。彼は、草創期の活動を知るメンバーが、その精神と実践を後輩たちに示し、不撓不屈の創価の魂を伝え抜いていってほしかったのである。

伸一は、戸田の移動は、まことに峻厳であったことを語った。「いかに時代は変わろうが、正法正義を貫くことの厳しさは、永遠に変わりません。戸田先生の薫陶を受け、草創の時代を切り開いてこられた皆さんは、今こそ、私と共に、身をもって、その精神を、その実践を、多くの後輩たちに示し抜いていただきたい。

今、広布第二章の『支部制』がスタートしましたが、それは、これまでの総ブロック長や総ブロック委員が、草創の12支部の支部長、支部婦人部長の自覚に立ち、新しい創価学会の建設に着手するためです。それには、創価の開拓者たる皆さんが、後輩たちのために立ち上がることです。その意味からも、自身の信心の歩みを、絶対にとどめてはならない」

人材の育成とは、先輩が見事なる手本を示し、触発することにある。人は、めざすべき模範を見いだした時、大きな成長を遂げる。山本伸一は、『支部制』を軌道に乗せ、支部長・婦人部長のもと、全支部員が心を一つにし、活力あふれる前進ができるように、指導部の育成にも力を注いだ。

伸一は、「支部制」を支えていく最大のカギは、指導部にこそあると考えていたのだ。指導部の使命は、後の「多宝会」などにつながるといえよう。

「ライン組織の正役職者は、なすべき課題が山積し、多忙を極め、相当の活動量になっています。したがって体力も求められます。そのために、どうしても、若いリーダーが中心にならざるを得ない面があります。

しかし、あまりにも多忙であるがゆえに、ラインのリーダーによる激励、指導の手は、必ずしも全会員に十分に届いていない場合もあります。そこで、信心重厚にして経験豊富な、"広布の宝"ともいうべき指導部の皆さんが、会員一人ひとりに、こまやかな激励、指導の手を差し伸べていただきたいんです。

指導部の皆さんとライン組織のリーダーが異体同心の団結を図ってこそ、広宣流布の組織は盤石なものとなるのであります。伸一は、指導部の使命について、声を大にして訴えた。

「どうか、"広布の赤十字"となっていただきたい。悩める一人ひとり、病める人、信心への確信弱き人、疲れた人、我見や愚痴の人などと粘り強く対話し、一人も落とすまいと、信心の励ましの手を差し伸べてください。

皆さんの、長年の信仰体験と確信は、そのための最大の力なんです。指導部は、各組織、各地域にあって、広宣流布を支える"黄金の信心の柱"です。『あの人がいるから大丈夫だ。私たちの誇りである』と言われる、"同志の鑑"に、"安心の依処"になってください。

組織の役職と、信心の位とは、イコールではありません。懸命に活動し、正しい信心の指導をできる人が、信心の高位の人であり、御本尊の賞賛を受ける人です。また、地域にあっては"学会の全権大使"であるとの自覚で、信頼の輪を広げていってください」

伸一は、草創期を戦い抜いた功労の同志たちに、最後まで広宣流布の使命に生き抜き、見事な人生の総仕上げをするよう訴え続けてきた。大切なのは、最後の最後まで戦い続けることだ。この世の使命を果たし抜いていくことだ。

「総ブロック」から「支部」への移行は、支部長・婦人部長をはじめ、支部幹部の意識を大きく変え、自覚を変えた。組織を活性化させ、地域広布を推進する根本は、人間の一念の転換にこそある。そして、一切の状況、環境を転換することができる。それが依正不二の原理である。

山本伸一は、人類の平和を築くために、世界の指導者との語らいも続けた。1月12日、伸一は、アメリカのエドワード・M・ケネディ上院議員を聖教新聞社に迎え、会談した。彼は、ケネディ家の4男である。彼は、中国を訪問したあと日本に寄った。東京滞在は、二泊三日である。そのなかでの伸一との会談であった。エドワード・ケネディ上院議員と伸一は、これまで、何度か書簡を交わしてきた。




太字は 『新・人間革命』第26巻より 抜粋
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厚田に戸田記念墓地公園完成

『新・人間革命』第26巻 厚田の章 7p~

<新・人間革命 第26巻 開始>
<厚田の章 開始>


1977年(昭和52年)9月30日、山本伸一と妻の峯子は、恩師・戸田城聖の故郷である厚田村を目指していた。厚田に、師の名を冠した戸田記念墓地公園が完成し、その式典に出席するためであった。

ここは望来川があることから『望来』といい、アイヌ語の『モライ』が語源だと説明を聞く。「"希望が来る地"か。いい地名だね。仏法には、どんな逆境にあろうが、絶望はない。わが"宿命"は、この世の"使命"であると、確信していくことができる。その確信から、努力が生まれ、人生の勝利への、さまざまな創意工夫が生まれていく。

心が破れてしまえば、希望の種子は腐り、芽が出ることはない。希望は、豊かで、強い心の大地から生まれるんだ。自分の心の外にあるものじゃないんだ。私たちの手で、厚田の地を、希望が来る『望来』にしていこうよ。それが、戸田先生を本当の意味で顕彰していくことになるし、弟子としてのご恩返しにもなる。」


緑の芝生のなかに、白御影石の同じ形をした、「妙法」の文字と家名を刻んだ墓碑が整然と並んでいた。一切衆生が平等に「仏」の生命をもっていると説く仏法の教えの通り、そこには、なんの差別もない。"日蓮仏法の生命観を表現した、平等で明るく、雄大なものにしたい"というのが、墓園建設にあたっての、伸一の考えであった。

"戸田先生を、後世永遠に顕彰していっくためにも、いつかこの地に、先生の精神をとどめる、『記念の城』を築かねばならない。それが弟子としての私の使命であり責任である。"その思いは、時を経て熟成し、三世にわたる師弟旅の象徴ともいうべき、この墓地公園建設の構想となっていった。師ありての弟子であり、弟子ありての師である。

伸一が、墓園の建設を念願してきた、もう一つの理由として、いわゆる"墓地問題"があった。学会員の弘教によって、檀徒離れが進む既成仏教各派にとっては、檀徒を引き留める最後の砦が"墓"であったのである。寺院に埋葬を拒否された学会員の悩みは、深刻であった。

墓園は、学会が運営するのではなく、宗門に任せようと考えてきた。学会として宗門に、墓園や墓園建設用地を寄進したこともあった。宗門の墓園建設は、遅々として進まなかった。やむなく、学会として墓園構想をねていくことになり、宗門の日達管長の了承も得て、学会の総合的な墓園建設構想が発表されたのだ。

伸一は、峯子、長男の正弘と共に、戸田城聖の親戚が営む戸田旅館を訪れた。恩師の故郷のことを、若い世代にも教えておこうと、この厚田訪問に、あえて青年部の正弘も同行させたのである。伸一は、昭和29年の夏、戸田と共に宿泊し、金の思い出を刻んだことが忘れられなかった。

石狩川に橋が完成したことで、旅館に泊まる客が激減したという主の貞蔵に、商売を繁栄させるための源泉こそ、信心であることを語り、「厚田の発展は、先生の願いです。戸田旅館は、その戸田先生の
心をとどめる、由緒ある場所なのだという誇りをもって、末永く繁栄させていってください」と語った。

厚田の海岸に向かい、浜辺を歩き、戸田先生から『君は、世界の広宣流布の道を開くんだ』と語られたことを話した。「天も私を捨てるがよい。いかなる難にも遭おう。身命をなげうつ覚悟であるーーというのが大聖人の御覚悟であった。それは会長就任以来の、私の誓いでもある。」

翌日、戸田講堂の開館記念勤行会が営まれた。あいさつのなかで、この墓地公園の意義について語っていった。「墓園の構想は、ある時、戸田先生が何がなく語られた、一言に由来しています。『わが同志と一緒に、どこかで静かに眠りに就きたいものだな』

その恩師の言葉は、私の脳裏に焼き付き、消えることはありませんでした。このお言葉が、一つの重要な構想を芽生えさせていったのであります。」伸一は、戸田の言葉を、一言たりとも聞き流すようなことはなかった。すべてを生命に刻み、すべてを実現させてきたのだ。そこに真実の師弟の道がある。

太字は 『新・人間革命』第26巻より 抜粋
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励ましこそ創価学会の生命線

『新・人間革命』第25巻 人材城の章 378p~

五木の同志の報告を聞いた山本伸一は語った。「五木に伝わる子守歌の守子のような境遇の子どもたちを、なんとしても幸せにしたいというのが、牧口先生の思いであり、創価教育の原点です。また、それが学会の心です。断じて不幸をなくそうという、牧口先生の、この心を知ってほしいんです。

五木の皆さんには、こうお伝えください。『やがて、村の多くの集落が湖底に沈んでしまう日が
来るにせよ、一日一日、力の限り、広宣流布に走り続けてください。地域の人びとの胸に、妙法の種子を植え続けてください。集落は湖底に消えても、妙法の種子は、人びとの心に幸せの花を咲かせ続けていきます』」伸一は、五木の同志に句を贈った。

妻を癌で亡くしたという男子部の本部長に、「順風満帆の人生は、ほとんどありません。皆、多かれ少なかれ、なんらかの試練に直面しながら、生きているものなんです。何もない人生であれば、ささいな障害にも不幸を感じ、打ちひしがれてしまう。人間が弱くなります。鍛えられません。君のように、若くして最愛の奥さんを亡くしたという人は、強くなります。また、人の苦しみがわかる人になれます。したがって、誰よりも慈愛にあふれたリーダーに育つことができるんです」

「試練は、自分を磨き、強くしていくための財産だ。心から、僧捉えていくことができれば、大成長できる。しかし、悲しみに負けて、感傷的になれば、足を踏み外し、自堕落になってしまうこともあり得る。今が、人生の正念場だよ。

君は、一人じゃないんだ。学会があるじゃないか。同志がいるじゃないか!みんなとスクラムを組んで、強く生きるんだよ。奥さんは、君の胸の中にいる。奥さんの分まで信心に励み、奥さんの分まで幸せになっていくんだ。成長を待っているよ。」強い響きの温かい声であった。

医学部5年の乃木辰志が父が信心に反対していると話すと、父親に感謝し、親を思う子としての振る舞いが大事だと話す。台湾出身の乃木の父は、日本の宗教に凝るなどとんでもないと、憎悪をあらわにしていた。乃木は、夫婦仲が悪いのは、母親が創価学会に入会したせいだと思っていた。

医学部に入学した時、反対されてもやめない信心を知りたくて、母の勧めで入会した。母親は祈って熊本へ来ると、組織を探し、学生部に息子を紹介して帰っていった。

乃木は、医師としての人間革命、境涯革命の重要性を痛感し、学会には、確固たる人生哲学があり、人間性豊かな触れ合いがあり、学会の組織は、人格形成の鍛錬の場であることを感じた。ある時、高校時代のクラスメートに「お前変わったな。今まで、自分のテストの点数しか考えない、エゴイストだと思っていたんだよ」と言われ、気づかぬうちに自らの人格を磨き、人間革命の大道を歩み始めていたのだ。友人の話で、それを知った彼の驚きは大きかった。

県長の柳節夫は思った。"先生は、一人ひとりの話に耳を傾け、真剣勝負で激励され続けてきた。懸命に、人材を見つけ、育てようとされているんだ。この励ましこそ、創価学会の生命線なんだ。私は、同志への地道な激励、指導とは、かけ離れたどこかに、広宣流布の大闘争があるように思っていた。しかし、それは、違う。ただ、ただ、眼前の一人に、全力を、魂魄を、熱誠を注いで、励ますことだった。その一人が希望に燃え、勇気をもって立ち上がることから、一家和楽も、地域広布も、世界平和も可能となる。広宣流布の直道は、一対一の対話、励ましにこそあるんだ!"

伸一は言った。「人材というと、表に立って指揮を執る人のように考えてしまいがちだが、裏で黙々と頑張る人も大切なんです。いや、そうした人を、見つけ、育てなければ、難攻不落の創価城は築けません。幹部は、同志の献身に、鋭く反応していくことです。

熊本文化会館の周辺には、朝から大勢の学会員が待機していた。山本伸一に一目会いたいと、熊本県の各地から来た人たちである。伸一は、来られている方々のために、勤行会を開いた。朗々たる伸一の読経が響き、皆の声が一つになった。

伸一は、祈った。ひたぶるに祈った。"立ち上がれ!わが獅子よ!君も、君も、あなたも、あなたも、新しい戦いの幕を開くのだ。困難を恐れるな!波浪に屈するな!私と共に、力の限り、生命の限り、広宣流布の使命に生きよう。そこに人生の勝利と幸福の大道があるからだ"

<人材城 終了>
<第25巻 終了>


太字は 『新・人間革命』第25巻より 抜粋
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人材の熊本

『新・人間革命』第25巻 人材城の章 321p~

女子部の若いリーダーには、年長の部員さんに信頼されるように、適切なアドバイスができない場合には、先輩幹部や、経験豊かな婦人部の幹部に会わせ、相談にのってもらうことが大事だと話す。

「皆さんに、新しい時代の、新しい幹部像をつくっていってほしいんです。これまで、幹部というと、"号令をかける人"との印象があったかもしれない。しかし、これからは、そうではありません。"自ら率先垂範で、何をすべきかを示していく人"が、新時代のリーダーです。

自分が真っ先に行動を起こして、『こうやって実践しています』と語っていくことが重要なんです。失敗も語ってください。結果は実っていなくとも、挑戦の苦闘と喜びを、ありのままに語り、頑張り続けていくという決意をぶつけていくんです。

そうすれば皆が、"それなら、私にだってできる。私も挑戦しよう"という思いをいだいていきます。一生懸命で健気な姿勢に、人は、世代を超えて共感するんです。ありのままの自分、等身大の自分でいいんです」伸一は、一人ひとりを知り、未来の大成のために、発心の種子を植えておきたかったのである。

「広宣流布の主体者になることこそが、福運を増す要諦なのであります。ゆえに、"守られる側から、同志を守る側になろう""受働から能動の姿勢に立とう"とするなかに、大聖人につながる信心の確立があることを、私は訴えておきたいのであります」

「人材は自然に育つものではありません。人材を育成しようとする先輩幹部の、誠意あふれた行動によってのみ、後輩たちの人材たろうとする使命の自覚がなされていきます。人間を育むのは、どこまでも人間です。"ここまで自分を信頼し、期待してくれているのか!""自分のことを思い、尽くしてくれるのか!"という、熱い真心に触れて、使命に生きようという意志力が燃え上がるんです」

「先輩幹部は、"どうすれば人材の活躍の場をつくれるのか"を常に、一生懸命に悩み考えていくことが大事なんです。どうか、熊本県の皆さんは、今後は『人材の熊本』を合言葉として、幹部自らが"人材になろう!人材をつくろう!"と、強い祈りと持続の実践をもって、多くの逸材を育んでもらいたいのであります」

伸一は、さらに、「広宣流布は、長途の旅ゆえに、健康に留意し、リズム正しい信心即生活の日々であれ」と訴えた。「生活のなかに運動を上手に取り入れて、体を鍛えていくことも必要です。また、無理をしても、信心しているんだから…という安易な考えで、非常識な行動をし、生活のリズムを崩し、体を壊すようなことがあっては、絶対になりません」

初めて熊本県を訪問した折のことを話す伸一。「戸田先生は、『熊本に行きたい』と言われていたが、実現できずに、4月に亡くなられた。だから、"戸田先生に代わって、私が熊本へ行こう!そして、皆が、心から歓喜、感動し、決意を新たにする支部結成大会にしよう"と、心に決めていたんです。

師を凌ぐ戦いができてこそ、本当の弟子なんです。師が指揮を執っていた以上に、広宣流布を前進させてこそ、令法久住なんです。その勝利のなかに、師弟不二があるんです」

それは、恩師の逝去から、7か月後のことであった。当時、学会の一切の責任は、事実上、30歳の伸一の双肩にかかっていたのだ。

益城本部長の坂上良江は、熊本県の三角に第一歩をしるされた日を「三角の日」と決め、当時、三角駅にあった長椅子を地元の佐々井ユリが譲り受け宝としていると話す。

「私の基準は、御書であり、それを実際に身で読まれ、実践されてきた戸田先生です。"こう
いう時、先生ならどうされるか""自分の今日の行動は、先生のご精神にかなったものであるのか""先生が今の自分を見たら、喜ばれるのか、悲しまれるか"そして、"必ず、先生にお喜びいただける勝利の戦いをしよう"と、自分を鼓舞してきたんです。それが、私の勇気の源泉です。常勝の原動力なんです」

師弟不二とは、師の心をわが心として生きることであり、いつ、いかなる時も、己心に厳として師匠がいることから始まる。師匠を"自分の心の外にいる存在"ととらえれば、師の振る舞いも、指導も、自身の内面的な規範とはならない。

そして、師匠が自分をどう見ているかという、師の"目"や"評価"が行動の基準となってしまう。そうなると、"師匠が厳しく言うから頑張るが、折あらば手を抜こう"という要領主義に出していくことになりかねない。そこには、自己の信心の深化もなければ、人間革命もない。



太字は 『新・人間革命』第25巻より 抜粋
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