『新・人間革命』第26巻 厚田の章 7p~
<新・人間革命 第26巻 開始>
<厚田の章 開始>
1977年(昭和52年)9月30日、山本伸一と妻の峯子は、恩師・戸田城聖の故郷である厚田村を目指していた。厚田に、師の名を冠した戸田記念墓地公園が完成し、その式典に出席するためであった。
ここは望来川があることから『望来』といい、アイヌ語の『モライ』が語源だと説明を聞く。「"希望が来る地"か。いい地名だね。仏法には、どんな逆境にあろうが、絶望はない。わが"宿命"は、この世の"使命"であると、確信していくことができる。その確信から、努力が生まれ、人生の勝利への、さまざまな創意工夫が生まれていく。
心が破れてしまえば、希望の種子は腐り、芽が出ることはない。希望は、豊かで、強い心の大地から生まれるんだ。自分の心の外にあるものじゃないんだ。私たちの手で、厚田の地を、希望が来る『望来』にしていこうよ。それが、戸田先生を本当の意味で顕彰していくことになるし、弟子としてのご恩返しにもなる。」
緑の芝生のなかに、白御影石の同じ形をした、「妙法」の文字と家名を刻んだ墓碑が整然と並んでいた。一切衆生が平等に「仏」の生命をもっていると説く仏法の教えの通り、そこには、なんの差別もない。"日蓮仏法の生命観を表現した、平等で明るく、雄大なものにしたい"というのが、墓園建設にあたっての、伸一の考えであった。
"戸田先生を、後世永遠に顕彰していっくためにも、いつかこの地に、先生の精神をとどめる、『記念の城』を築かねばならない。それが弟子としての私の使命であり責任である。"その思いは、時を経て熟成し、三世にわたる師弟旅の象徴ともいうべき、この墓地公園建設の構想となっていった。師ありての弟子であり、弟子ありての師である。
伸一が、墓園の建設を念願してきた、もう一つの理由として、いわゆる"墓地問題"があった。学会員の弘教によって、檀徒離れが進む既成仏教各派にとっては、檀徒を引き留める最後の砦が"墓"であったのである。寺院に埋葬を拒否された学会員の悩みは、深刻であった。
墓園は、学会が運営するのではなく、宗門に任せようと考えてきた。学会として宗門に、墓園や墓園建設用地を寄進したこともあった。宗門の墓園建設は、遅々として進まなかった。やむなく、学会として墓園構想をねていくことになり、宗門の日達管長の了承も得て、学会の総合的な墓園建設構想が発表されたのだ。
伸一は、峯子、長男の正弘と共に、戸田城聖の親戚が営む戸田旅館を訪れた。恩師の故郷のことを、若い世代にも教えておこうと、この厚田訪問に、あえて青年部の正弘も同行させたのである。伸一は、昭和29年の夏、戸田と共に宿泊し、金の思い出を刻んだことが忘れられなかった。
石狩川に橋が完成したことで、旅館に泊まる客が激減したという主の貞蔵に、商売を繁栄させるための源泉こそ、信心であることを語り、「厚田の発展は、先生の願いです。戸田旅館は、その戸田先生の
心をとどめる、由緒ある場所なのだという誇りをもって、末永く繁栄させていってください」と語った。
厚田の海岸に向かい、浜辺を歩き、戸田先生から『君は、世界の広宣流布の道を開くんだ』と語られたことを話した。「天も私を捨てるがよい。いかなる難にも遭おう。身命をなげうつ覚悟であるーーというのが大聖人の御覚悟であった。それは会長就任以来の、私の誓いでもある。」
翌日、戸田講堂の開館記念勤行会が営まれた。あいさつのなかで、この墓地公園の意義について語っていった。「墓園の構想は、ある時、戸田先生が何がなく語られた、一言に由来しています。『わが同志と一緒に、どこかで静かに眠りに就きたいものだな』
その恩師の言葉は、私の脳裏に焼き付き、消えることはありませんでした。このお言葉が、一つの重要な構想を芽生えさせていったのであります。」伸一は、戸田の言葉を、一言たりとも聞き流すようなことはなかった。すべてを生命に刻み、すべてを実現させてきたのだ。そこに真実の師弟の道がある。
太字は 『新・人間革命』第26巻より 抜粋
<新・人間革命 第26巻 開始>
<厚田の章 開始>
1977年(昭和52年)9月30日、山本伸一と妻の峯子は、恩師・戸田城聖の故郷である厚田村を目指していた。厚田に、師の名を冠した戸田記念墓地公園が完成し、その式典に出席するためであった。
ここは望来川があることから『望来』といい、アイヌ語の『モライ』が語源だと説明を聞く。「"希望が来る地"か。いい地名だね。仏法には、どんな逆境にあろうが、絶望はない。わが"宿命"は、この世の"使命"であると、確信していくことができる。その確信から、努力が生まれ、人生の勝利への、さまざまな創意工夫が生まれていく。
心が破れてしまえば、希望の種子は腐り、芽が出ることはない。希望は、豊かで、強い心の大地から生まれるんだ。自分の心の外にあるものじゃないんだ。私たちの手で、厚田の地を、希望が来る『望来』にしていこうよ。それが、戸田先生を本当の意味で顕彰していくことになるし、弟子としてのご恩返しにもなる。」
緑の芝生のなかに、白御影石の同じ形をした、「妙法」の文字と家名を刻んだ墓碑が整然と並んでいた。一切衆生が平等に「仏」の生命をもっていると説く仏法の教えの通り、そこには、なんの差別もない。"日蓮仏法の生命観を表現した、平等で明るく、雄大なものにしたい"というのが、墓園建設にあたっての、伸一の考えであった。
"戸田先生を、後世永遠に顕彰していっくためにも、いつかこの地に、先生の精神をとどめる、『記念の城』を築かねばならない。それが弟子としての私の使命であり責任である。"その思いは、時を経て熟成し、三世にわたる師弟旅の象徴ともいうべき、この墓地公園建設の構想となっていった。師ありての弟子であり、弟子ありての師である。
伸一が、墓園の建設を念願してきた、もう一つの理由として、いわゆる"墓地問題"があった。学会員の弘教によって、檀徒離れが進む既成仏教各派にとっては、檀徒を引き留める最後の砦が"墓"であったのである。寺院に埋葬を拒否された学会員の悩みは、深刻であった。
墓園は、学会が運営するのではなく、宗門に任せようと考えてきた。学会として宗門に、墓園や墓園建設用地を寄進したこともあった。宗門の墓園建設は、遅々として進まなかった。やむなく、学会として墓園構想をねていくことになり、宗門の日達管長の了承も得て、学会の総合的な墓園建設構想が発表されたのだ。
伸一は、峯子、長男の正弘と共に、戸田城聖の親戚が営む戸田旅館を訪れた。恩師の故郷のことを、若い世代にも教えておこうと、この厚田訪問に、あえて青年部の正弘も同行させたのである。伸一は、昭和29年の夏、戸田と共に宿泊し、金の思い出を刻んだことが忘れられなかった。
石狩川に橋が完成したことで、旅館に泊まる客が激減したという主の貞蔵に、商売を繁栄させるための源泉こそ、信心であることを語り、「厚田の発展は、先生の願いです。戸田旅館は、その戸田先生の
心をとどめる、由緒ある場所なのだという誇りをもって、末永く繁栄させていってください」と語った。
厚田の海岸に向かい、浜辺を歩き、戸田先生から『君は、世界の広宣流布の道を開くんだ』と語られたことを話した。「天も私を捨てるがよい。いかなる難にも遭おう。身命をなげうつ覚悟であるーーというのが大聖人の御覚悟であった。それは会長就任以来の、私の誓いでもある。」
翌日、戸田講堂の開館記念勤行会が営まれた。あいさつのなかで、この墓地公園の意義について語っていった。「墓園の構想は、ある時、戸田先生が何がなく語られた、一言に由来しています。『わが同志と一緒に、どこかで静かに眠りに就きたいものだな』
その恩師の言葉は、私の脳裏に焼き付き、消えることはありませんでした。このお言葉が、一つの重要な構想を芽生えさせていったのであります。」伸一は、戸田の言葉を、一言たりとも聞き流すようなことはなかった。すべてを生命に刻み、すべてを実現させてきたのだ。そこに真実の師弟の道がある。
太字は 『新・人間革命』第26巻より 抜粋