『新・人間革命』第26巻 奮迅の章 353p~

栄光の歴史を刻んだ足立支部の、初代支部長・婦人部長が、藤川秀吉・多恵夫妻であった。
多恵は、夫が戦争に召集されると、夫に代わってたった1日教わっただけの溶接業を受け継ぐ。心細く、生きていく自信さえ失いかけたとき、創価教育学会に入会する。初代会長・牧口常三郎の時代である。

多恵は、牧口から 戦地の夫に毎日手紙を出すよう言われ、「南無妙法蓮華経と三度唱えて下さい」と記した。夫は欠かさず、題目を唱えるようになった。牧口から、「必ず難が競い起こります」と指導され、会長らが、次々捕らえられても、先生のおっしゃる通りになったと、仏法への確信を深め信心を貫いた。

終戦後、復員した夫は、学会に入会した。生きて帰れたことに、仏法の力を感じ、純真に一途に、信心に励んだ。秀吉は戸田城聖の指導どおり、実践のなかで信心を学び、戸田が仙台へ行くときは、妻が着物を質屋に預け、旅費を工面し、「帰りの汽車賃がなければ歩いて帰っておいでね」と送り出した。

秀吉は同志の激励に歩き回り、靴がすぐに磨り減るので、安いわらじを履いて歩いた。そして、1951年に"わらじ履き"の支部長が誕生するのだ。

初の「足立会」の集いには、藤川夫妻の元気な姿もあった。山本伸一は、「皆さんは、戸田先生の薫陶を受けて育った"学会の宝"の方々です。その皆さんにお願いしたいことは、戸田先生に自分が育まれたように、後に続く人材をつくっていただきたいということです。

人材は、一朝一夕には育ちません。多くの時間と労力を必要とします。しかし、人を育てる以外に、広宣流布の永遠の未来を開く道はないし、それに勝る聖業もありません。皆さんが人材育成の範を示して、支部幹部や大ブロック幹部の方々に、その方法、在り方を教えていっていただきたい。

先輩の皆さんは、常に後輩と共に動き、その敢闘の精神と実践とを、伝え抜いていっていただきたいのであります」

「広宣流布の前進には"時"がある。その一つ一つの"時"を逃すことなく、全力で仏道修行に励み抜いてこそ、自身の使命を果たし、一生成仏することができるんです。今、学会は、広布第二章の『支部制』が発足し、未来万年の流れを開く"時"を迎えました。今こそ総立ちすべき"朝"なんです。

過去に縛られるのではなく、今現在を大切にし、未来に向かって生きていくことが大事です。それが仏法者の生き方です。昔の栄光に酔っているのではなく、『今、どうしているのか』『未来のために何をしているのか』が大事になるんです。

2月度本部幹部会が開催された。「支部制」が本格的にスタートして以来、初めての本部幹部会であった。会場を沸かせたのは、支部婦人部長を代表して登壇した、目黒区の向原支部婦人部長・西峯富美の活動報告であった。

彼女は結婚した時、夫の勧めで入会したが、活動はしなかった。しかし、生まれた長男が生後4か月で肺炎にかかり、他界した時、宿命の厚い壁を感じ、亡くなった子の分まで、信心に励もうと決意し、学会活動に励むようになった。

自営の中華料理店が大火災になりかけたとき、近所の人たちが消火してくれ、小火ですんだ。"守られた"と思った。以来、夫妻は感謝の思いで地域の交流に励んだ。支部の大藪真理子という婦人の体験が、座談会用の体験レコードとして全国に配布され、大きな感動を広げた。

支部のメンバーは、身近な同志の体験に強く共感し、"私も苦難を克服できないわけがない。胸を張って体験発表できるようになろう!"と唱題に、折伏・弘教に、喜々として取り組み始めた。

一つの功徳の体験は、友の心に、勇気と確信の火をともす。それがまた、さらに新しい体験を生み、組織中が功徳の喜びの光に明々と包まれていくーーこれが、そのまま広宣流布の広がりとなるのだ。

伸一は、西峯の報告に耳を傾けながら、支部幹部が自分と同じ一念で、"何としても皆を幸せにしよう!"と、広宣流布に邁進してくれていることが嬉しかった。「師弟不二の道」とは、師の表面的な姿を真似することでもなければ、指示を待って、言われたことだけを行ってよしとする、受動的な生き方でもない。

それは、弟子が師の心を心として、同じ一念に立つことから始まる。そして、師に代わって、広宣流布の全責任を担い立つなかにある。つまり、師の指導を深く思索し、わがものとして、人びとの幸せのため、広宣流布のために、勝利の旗を打ち立てていくなかにこそあるのだ。


太字は 『新・人間革命』第26巻より 抜粋
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