『新・人間革命』第7巻 操舵の章 P367~
3月16日 海外初の“出張御授戒”に二人の僧侶が出発する日は、雨であった。山本会長の海外への出発の時には、雨が降ることなどなかっただけに、意義ある日に、小雨が降り始めたことが 気がかりなメンバー達だった。
会員たちは、ありがたさと喜びで胸がいっぱいだったが、阿部信雄のこの海外派遣は、未聞の大汚点を永遠にとどめることになる。
この3月16日の夜、東京日比谷公会堂では、会長山本伸一が出席して、青年部の弁論大会が盛大に開催された。
そこには、無責任極まりないマスコミや評論家、また、腐りきった政治家への怒りが燃えていた。
あいさつに立った彼は、最後に、声を大にして、後継の青年たちに呼びかけた。「御書を徹して学び、仏法の哲理を究明し抜いていただきたい。また、御本尊を抱きしめる思いで、題目を唱えに唱え、偉大なる功力を、わが身で体験し抜いていただきたい。そして、大聖人の仏法こそ絶対であるとの、大確信をつかんでいただきたいのであります。」
確信は信仰の「芯」である。彼は、その大切さを若き魂に打ち込もうとしたのである。
戸田の祥月命日である4月2日、伸一は、毎年この日に、戸田に“勝利”の報告をすることを、自らの義務としていた。いかに苦戦を強いられようとも、必ず何らかの勝利の実証をもって、法要の席に馳せ参じることが、弟子の道であると、彼は決めていたのである。
たとえ、草の根を噛み、岩盤に爪を立てても、前へ進み、勝って誓いを果たしてこそ、“獅子”であるというのが、戸田の指導であった。
山本伸一は、4月5日には、創価学会が建立寄進した、京都市右京区の平安寺の落慶入仏式に参列した。
京都の会員の喜びは大きかった。しかも、住職が 宗門の教学部長で 前の猊下の息子の阿部信雄と聞いてやがて京都中の寺が、大聖人の仏法に帰依するような日がくると大きな期待を寄せていた。
平安寺の阿部信雄によって、京都の広宣流布は進むと信じて、会員たちは苦しい生活のなかでも、寺への供養を続けた。だが、何年たっても、日蓮正宗に改宗する寺など、ただの一ヵ寺もなかった。そもそも阿部は、折伏を行じようとさえしなかったのであろう。
では、彼がしたことはなんであったか。ーーやがて、高級料亭に出入りし、時には、芸妓を呼んで宴席をもつ阿倍の姿が、目撃されたのである。
学会は、日蓮正宗の僧侶に限って、そんなことは絶対にないと確信し、周囲の人びとにも、そう断言してきた。日興上人の門流として、少欲知足の聖僧の伝統を守り抜いていると、固く信じていたからである。
学会員のなかには、料亭の従業員もいたし、さまざまな職業の人がいた。その人たちが、阿部の放蕩の現場に出くわすことになるのである。皆の衝撃は大きかった。
“私たち学会員が、生活を切り詰めに切り詰めて、供養した浄財を、こうしたことに湯水のごとく使う・・・。まさに、「法師の皮を着たる畜生」さながらではないか!”
失望のあまり、呆然と立ちすくむ人もいれば、体を震わせながら、悔し涙を必死でこらえる人もいた。
しかし、会員たちは、それを自分の心に秘め続けてきた。”僧俗和合して広宣流布に進もうとしているのだから事を荒立ててはいけない。自分が目をつぶっていればよいのだ”と考えてきたのである。
その後、阿部がしてきたことを思えば、彼は、法師の皮を着た「畜生」どころではなかった。後年、法主の座に就いた彼は、仏子の団体である創価学会を壊滅させ、宗門が直接、学会員を操り、支配しようと、学会を日蓮正宗から破門し、さらに、宗門興隆の最大の功労者である山本伸一を、信徒除名処分にするのである。まさに、広宣流布の破壊であり、「第六天の魔王」の姿を露呈していくことになるのである。
3月16日 海外初の“出張御授戒”に二人の僧侶が出発する日は、雨であった。山本会長の海外への出発の時には、雨が降ることなどなかっただけに、意義ある日に、小雨が降り始めたことが 気がかりなメンバー達だった。
会員たちは、ありがたさと喜びで胸がいっぱいだったが、阿部信雄のこの海外派遣は、未聞の大汚点を永遠にとどめることになる。
この3月16日の夜、東京日比谷公会堂では、会長山本伸一が出席して、青年部の弁論大会が盛大に開催された。
そこには、無責任極まりないマスコミや評論家、また、腐りきった政治家への怒りが燃えていた。
あいさつに立った彼は、最後に、声を大にして、後継の青年たちに呼びかけた。「御書を徹して学び、仏法の哲理を究明し抜いていただきたい。また、御本尊を抱きしめる思いで、題目を唱えに唱え、偉大なる功力を、わが身で体験し抜いていただきたい。そして、大聖人の仏法こそ絶対であるとの、大確信をつかんでいただきたいのであります。」
確信は信仰の「芯」である。彼は、その大切さを若き魂に打ち込もうとしたのである。
戸田の祥月命日である4月2日、伸一は、毎年この日に、戸田に“勝利”の報告をすることを、自らの義務としていた。いかに苦戦を強いられようとも、必ず何らかの勝利の実証をもって、法要の席に馳せ参じることが、弟子の道であると、彼は決めていたのである。
たとえ、草の根を噛み、岩盤に爪を立てても、前へ進み、勝って誓いを果たしてこそ、“獅子”であるというのが、戸田の指導であった。
山本伸一は、4月5日には、創価学会が建立寄進した、京都市右京区の平安寺の落慶入仏式に参列した。
京都の会員の喜びは大きかった。しかも、住職が 宗門の教学部長で 前の猊下の息子の阿部信雄と聞いてやがて京都中の寺が、大聖人の仏法に帰依するような日がくると大きな期待を寄せていた。
平安寺の阿部信雄によって、京都の広宣流布は進むと信じて、会員たちは苦しい生活のなかでも、寺への供養を続けた。だが、何年たっても、日蓮正宗に改宗する寺など、ただの一ヵ寺もなかった。そもそも阿部は、折伏を行じようとさえしなかったのであろう。
では、彼がしたことはなんであったか。ーーやがて、高級料亭に出入りし、時には、芸妓を呼んで宴席をもつ阿倍の姿が、目撃されたのである。
学会は、日蓮正宗の僧侶に限って、そんなことは絶対にないと確信し、周囲の人びとにも、そう断言してきた。日興上人の門流として、少欲知足の聖僧の伝統を守り抜いていると、固く信じていたからである。
学会員のなかには、料亭の従業員もいたし、さまざまな職業の人がいた。その人たちが、阿部の放蕩の現場に出くわすことになるのである。皆の衝撃は大きかった。
“私たち学会員が、生活を切り詰めに切り詰めて、供養した浄財を、こうしたことに湯水のごとく使う・・・。まさに、「法師の皮を着たる畜生」さながらではないか!”
失望のあまり、呆然と立ちすくむ人もいれば、体を震わせながら、悔し涙を必死でこらえる人もいた。
しかし、会員たちは、それを自分の心に秘め続けてきた。”僧俗和合して広宣流布に進もうとしているのだから事を荒立ててはいけない。自分が目をつぶっていればよいのだ”と考えてきたのである。
その後、阿部がしてきたことを思えば、彼は、法師の皮を着た「畜生」どころではなかった。後年、法主の座に就いた彼は、仏子の団体である創価学会を壊滅させ、宗門が直接、学会員を操り、支配しようと、学会を日蓮正宗から破門し、さらに、宗門興隆の最大の功労者である山本伸一を、信徒除名処分にするのである。まさに、広宣流布の破壊であり、「第六天の魔王」の姿を露呈していくことになるのである。
太字は 『新・人間革命』第7巻より