小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

京大生

本迹とは

『新・人間革命』第8巻 宝剣の章 P141~

伸一は、質問を受けた後、皆と握手を交わした。
「百六箇抄」は、伸一にとっても、思いで深い御書であった。それは、彼が戸田城聖から、教学部教授の研究課題として与えられた御書であったからである。

それは、深遠にして広大無辺な仏法の世界に、伸一を導くかのような講義であり、それ自体が、師から弟子への相伝であった。戸田は言った。「この一箇条を徹底して学び深く理解していくならば、後の百五箇条もわかってくる。この『百六箇抄』がわかれば、ほかの御書もわかってくる。」

その時の伸一の御書は、戸田から受けた講義の書き込みで、真っ黒になるほどであった。

伸一は、京大生への講義では、まだ、教学の基本も身についていないメンバーに、できるかぎり噛み砕いて語っていった。

そして、「百六箇抄」が日蓮大聖人の仏法と釈尊の仏法の「本迹」「勝劣」が厳しく判別されている御書であることから、「本」と「迹」の立て分けを、あらゆる角度から論じ、人間の生き方に即して展開していったのである。

人生の根本は何か - ここに、彼の講義の最大のポイントがあった。

「百六箇抄」の最後の付文である「立つ浪・吹く風・万物に就いて本迹を分け勝劣を弁ず可きなり」の個所では、伸一はこう語った。「立つ波、吹く風、いっさいの現象について、本迹、勝劣を立て分けていきなさいという御文です。つまり、私たちの人生にも、生活にも、全部『本迹』がある。それを、きちっと見極め、立て分けていかねばならない。

「根本的にいえば、私たちの本地は、広宣流布のために出現した地涌の菩薩であり、ゆえに、広宣流布に生き抜く人生こそが『本』となる。一方、諸君が将来、社会的な地位や立場がどんなに立派になったとしても、それは『迹』です。この一点を見誤ってはならない。」

「どんな状況になっても、広布の使命を果たし抜こうとの決意があれば『本』です。環境に負け、信心を失って、使命を忘れてしまうならば『迹』になる。『本』と『迹』は、ある意味で、ほんのわずかな差といえるし、一念の問題だけに、外からはわからないこともある。しかし、仏法の眼で見れば、すべては明らかであるし、天地雲泥の差となる。」

「『本迹』を個人の一念に要約していえば、『本』とは原点であり、広宣流布の一念です。また、前進、挑戦の心です。『迹』とは惰性であり、妥協、後退です。」

「自分は今、広布のために、人間革命のために生きているのか、一念は定まっているのか - それを見極めていくことが、私たちにとって、 『本迹』を立て分けていくということになるし、その人が最後の勝利者になっていく。ゆえに、『本迹』といっても、この瞬間瞬間が勝負であり、自分のいる現実が仏道修行の道場となる」

この本迹についての伸一の講義は、受講生の心に深く刻まれ、その後の生き方の大きな支えとなっていったようだ。伸一は、講義を通して、単に仏法の法理を教えるだけでなく、一人ひとりの人生をいかに開いていくかに最も力を注いできた。
そのために、講義のあとには、必ず質問や懇談の時間をもった。

入院して病気を治そうと思うという中野には、「本当の信心を学ぶ時がきた。チャンスだよ」と話し、妻が子宮癌で危ないという滝川には、「使命があるから大丈夫だよ。仮に、信心をしていて若くして亡くなることがあったとしても、深い意味を持った死であり、後に残った人たちに何かを教えている。大事なことは、何があっても、驚き、慌てるのではなく、ますます信心を奮い立たせていくことです。私も祈るよ」と指導する。

滝川の妻はその指導を聞き、唱題を重ね、病を克服した。この体験は 夫の滝川にも信心の確信をもたらし、飛躍のバネになっていった。


太字は 『新・人間革命』第8巻より

京大生への 「百六箇抄」講義

『新・人間革命』第8巻 宝剣の章 P131~

学生たちは、西洋的な帰納法の思考には慣れていても、東洋的な演繹法の思考には慣れていない。御書は、西洋的なものの考え方だけでは、決してとらえることはできない。その仏法の発想に立っていくためにも、帰納法的な論理を超えた相伝書の「百六箇抄」は、最もふさわしい御書といえた。

しかし、この日、集った受講生たちにしてみれば、一応、「百六箇抄」の勉強はしてみたが、ちんぷんかんぷんで全く理解しがたいというのが本音であった。

伸一は、それぞれが自己紹介をすることから始めた。母親に勧められ、親孝行のために入会したもの、病気に苦しんでいた時に、折伏されたものなど、ほとんどが、信心して、一、二、年ほどで、学会活動の経験もない人が少なくなかった。

この日の参加者に、司法修習生になっているOBがいた。名前を山脇友政といった。病気で療養生活をしている時に、折伏され、病気を信心で克服し、司法試験に合格したのだ。彼は、自己紹介で誇らしげに、司法修習生であることを語った。そこには、どこか卑屈さに裏打ちされた傲慢さが、感じられた。

しかし、伸一は、学生部のなかから、難関といわれた司法試験の合格者が出たことが嬉しかった。

仏法という人間の尊厳の哲理をいだき、人道と正義のために戦う弁護士が育ちゆくことを、待ち望んでいた。

山脇に対しても、弁護士になると、初めから学会の顧問弁護士のように遇していった。ところが、山脇友政は、信頼で結ばれた学会の世界を、自己の野望実現の恰好の場所と、考えるようになっていったようだ。

信仰とは、己心における仏と魔、善と悪の闘争だ。魔、悪に打ち勝つためには、仏道修行という生命の錬磨が絶対に不可欠である。しかし、真剣に、また地道に信心に励むことのなかった山脇の心はいともたやすく、第六天の魔王に支配されていくのである。

後に、学会の顧問弁護士となった彼は、宗門の法主に取り入り、学会を宗門に隷属させ、自分が学会を支配しようと計画する。そして、その野望が破たんすると、顧問弁護士であった立場を利用し、学会を恐喝するという、驚くべき犯罪を起こし、極悪人の本性をさらけ出す。

しかも、懲役刑を受けたあとも、山脇は、宗門や政治権力、一部のマスコミなどを巧妙に巻き込み、学会潰しに躍起となるのである。

伸一は、山脇の振る舞いに、不純さ、傲慢さ、狡猾さを感じることが少なくなかった。だから、時には厳しく指導することもあったが、大きく包み込んできた。人間なら誰しも、欠点はある。切り捨てることはたやすいが、欠点があるからといって、次々と排斥していってしまえば、人を育てることなどできない。人間の善性を信じるところに、人を育てる要諦があり、仏法者の心もある。

伸一は、欠点の多い、癖のある人物ほど、心を砕いて指導し、使命を全うできる道を考え、活躍の場も与えてきた。また、彼は、山脇に限らず、その人物が人間の信義に目覚め、広宣流布に奮い立つならば、たとえ、騙されても、許しもしたし、包容もしてきた。この、人のよさゆえに、彼は、利用されることも少なくなかった。しかし、自分が傷つくことを恐れず、人の育成に努めてきたからこそ、広宣流布のあらゆる分野の、多彩な人材を育てることができたのである。

「広宣流布の道には、さまざまな誘惑をもある。信心を磨き抜かなければ、自分に負けていってしまう。このなかからも、退転する者、反逆する者が出るかもしれない。しかし、たった一人しか残らなくても、私はその人を励まし、その人とともに、広宣流布を成し遂げていくつもりだ。でも、みんな最後まで残ってほしい。そして、一緒に、生涯、広宣流布のために生き抜いていこうよ」と話した。


太字は 『新・人間革命』第8巻より

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