『新・人間革命』第20巻 信義の絆の章 327P~
5日には、鄧小平副総理との会談が予定されていた。伸一が鄧副総理と初対面のあいさつを交わし、握手をした時、副総理は傍らの廖承志を見ながら言った。「山本会長のお話は廖承志同志から伺いました。しかし、問題は複雑です」一瞬、副総理の顔が曇った。人民大会堂での会談が始まった。
伸一は、明年が国連の「国際婦人年」となることから、周恩来夫人の鄧頴超ら女性リーダー、さらに、青年リーダーの訪日を提案した。伸一は、心の隔たりを、一日も早く取り除きたかったのである。そして、そのための焦点となるのが、婦人と青年であると考えていた。
アジアの平和に話が及んだ時、伸一は言った。「ソ連は中国を攻めようとは考えていません」すると鄧副総理は、「それは大変に難しい判断を必要とします」と言って、話を制するように、胸のあたりまで手をあげた。伸一は、前回の訪中を通して、文化大革命の混乱のなかで、一部の人間が権力を握り、党と国家を意のままに動かしていることを感じた。
その彼らの情報網が張り巡らされ、政府首脳さえ、発言には至って慎重にならざるを得ないことを知ったのである。伸一は、ソ連は中国を攻めないとのコスイギン首相の言葉などを、事前に、詳しく廖承志会長に伝えておいてよかったと思った。伸一は、話題を変えた。
伸一は、率直に尋ねた。毛沢東主席や周恩来総理の健康状態についても、率直に尋ねた。また、「前回、お会いした李千念副総理にもよろしくお伝えください」
伸一は、全人代(全国人民代表大会)の開催時期についても、単刀直入に尋ねた。全人代は、かつては毎年、開催されてきたが、1964年12月下旬から翌年1月初めにかけて行われたのを最後に、文化大革命期に入ってからは、開催されていなかった。
伸一は、こんな事態が続き、中国が国家として信頼をなくしてしまうことを、深く憂慮していたのだ。鄧副総理は答えた。「全人代の開催は、もう近いと思います」全人代の開催を表明すれば、世界各国は中国がルールに則った国家の運営をしようとしていることを認識し、安心するはずである。
ゆえに伸一は、あえて全人代の開催を尋ねたのである。彼はどうすれば、中国が、世界の理解、信頼を勝ち得るか、真剣に考えていたのだ。伸一は、この会談終了後の記者会見で、全人代開催についての副総理の回答を伝えた。
真の友好とは、親身になって相手のことを思う、誠意と信念の結実にほかならない。伸一の中国への思いは、鄧小平の胸に、強く響いたにちがいない。一時間近い会談の最後に、鄧副総理は言った。「これからは、山本会長のご都合のよい時に、いつでも中国を訪問してください。」
滞在最後の夜となる5日、山本伸一、峯子による答礼園が行われた。伸一は、必ず相手の名前を呼んで話を始めた。伸一の頭の中には、一人ひとりの顔と名前はもとより、これまでのやり取りや、どのように尽力してくれたかが、克明に記憶されていた。
通り一編のあいさつでは、儀礼的な交流しかできない。真実の人間交流のためには、徹底して相手を知り、琴線に触れる言葉を交わすことだ。
答礼園が終わりに近づいたころ、廖承志会長に電話がかかってきて、小声で伸一に「実は周総理が待っておられます」と告げた。突然の話であった。
周恩来総理の病状が思っていた以上に重いと聞いていた伸一は、会見を丁重に辞退した。廖会長は、いかにも困ったという顔で言った。「会見は、周総理の強い希望なのです」周総理の医師団も、こぞって、伸一との会見に反対したのだ。「命の保証はできません」だが、周総理は、毅然として言った。「山本会長には、どんなことがあっても会わねばならない!」
やむなく夫人の鄧夫人に相談し、説得してもらおうとしたが、夫人は周総理の意思を尊重した。総理が入院中のの305病院に入ると人民服を着た周総理が立って、待っていてくれた。
太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋
伸一は、明年が国連の「国際婦人年」となることから、周恩来夫人の鄧頴超ら女性リーダー、さらに、青年リーダーの訪日を提案した。伸一は、心の隔たりを、一日も早く取り除きたかったのである。そして、そのための焦点となるのが、婦人と青年であると考えていた。
アジアの平和に話が及んだ時、伸一は言った。「ソ連は中国を攻めようとは考えていません」すると鄧副総理は、「それは大変に難しい判断を必要とします」と言って、話を制するように、胸のあたりまで手をあげた。伸一は、前回の訪中を通して、文化大革命の混乱のなかで、一部の人間が権力を握り、党と国家を意のままに動かしていることを感じた。
その彼らの情報網が張り巡らされ、政府首脳さえ、発言には至って慎重にならざるを得ないことを知ったのである。伸一は、ソ連は中国を攻めないとのコスイギン首相の言葉などを、事前に、詳しく廖承志会長に伝えておいてよかったと思った。伸一は、話題を変えた。
伸一は、率直に尋ねた。毛沢東主席や周恩来総理の健康状態についても、率直に尋ねた。また、「前回、お会いした李千念副総理にもよろしくお伝えください」
伸一は、全人代(全国人民代表大会)の開催時期についても、単刀直入に尋ねた。全人代は、かつては毎年、開催されてきたが、1964年12月下旬から翌年1月初めにかけて行われたのを最後に、文化大革命期に入ってからは、開催されていなかった。
伸一は、こんな事態が続き、中国が国家として信頼をなくしてしまうことを、深く憂慮していたのだ。鄧副総理は答えた。「全人代の開催は、もう近いと思います」全人代の開催を表明すれば、世界各国は中国がルールに則った国家の運営をしようとしていることを認識し、安心するはずである。
ゆえに伸一は、あえて全人代の開催を尋ねたのである。彼はどうすれば、中国が、世界の理解、信頼を勝ち得るか、真剣に考えていたのだ。伸一は、この会談終了後の記者会見で、全人代開催についての副総理の回答を伝えた。
真の友好とは、親身になって相手のことを思う、誠意と信念の結実にほかならない。伸一の中国への思いは、鄧小平の胸に、強く響いたにちがいない。一時間近い会談の最後に、鄧副総理は言った。「これからは、山本会長のご都合のよい時に、いつでも中国を訪問してください。」
滞在最後の夜となる5日、山本伸一、峯子による答礼園が行われた。伸一は、必ず相手の名前を呼んで話を始めた。伸一の頭の中には、一人ひとりの顔と名前はもとより、これまでのやり取りや、どのように尽力してくれたかが、克明に記憶されていた。
通り一編のあいさつでは、儀礼的な交流しかできない。真実の人間交流のためには、徹底して相手を知り、琴線に触れる言葉を交わすことだ。
答礼園が終わりに近づいたころ、廖承志会長に電話がかかってきて、小声で伸一に「実は周総理が待っておられます」と告げた。突然の話であった。
周恩来総理の病状が思っていた以上に重いと聞いていた伸一は、会見を丁重に辞退した。廖会長は、いかにも困ったという顔で言った。「会見は、周総理の強い希望なのです」周総理の医師団も、こぞって、伸一との会見に反対したのだ。「命の保証はできません」だが、周総理は、毅然として言った。「山本会長には、どんなことがあっても会わねばならない!」
やむなく夫人の鄧夫人に相談し、説得してもらおうとしたが、夫人は周総理の意思を尊重した。総理が入院中のの305病院に入ると人民服を着た周総理が立って、待っていてくれた。
太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋