小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

中東和平

中東和平への提言

『新・人間革命』第20巻 信義の絆の章 382P~

彼は、中東和平についての自分の主張をかいつまんで語ると、この書簡を手渡した。中東和平の基本原則の1番目に伸一が 示したのは、「力を持てる国の利益よりも、持たざる国の民衆の意見が優先されねばらならない。」ということであった。それが平和を実現する鉄則である。

次々と土地を奪われたパレスチナ人の権利を回復し、パレスチナの民衆の不幸を優先して解決しない限り、中東における恒久的な平和は達成できないからだ。伸一は、この書簡で、ユダヤ系ポーランド人の
ジャーナリストであるアイザック・ドイッチャーの、イスラエルとパレスチナの在り方についての考え方を紹介した。

基本原則の2番目に伸一が訴えたのは、「中東和平を進めるにあたり、あくまで武力解決を避けて、交渉による解決を貫くべきである」ということであった。

さらに、「この中東の危険な発火地に、これ以上の火薬を近づけてはならない」「武器供給に代えて、非軍事面での資金援助、技術援助をこそ行うべき」であると訴えた。そして、米ソ英仏をはじめ、多くの石油消費国も参加して、中東地域の平和的な発展を保障し、推進する、「中東平和建設機構」を設けるよう提案したのである。

三番目には、「平和的解決のための具体的な交渉は、あくまで当事者同士の話し合いによって決定されるべき」であると記した。大国の武力を背景にした交渉では、"戦争の合間の和平状態にしかならない"。

彼は、あえて、具体的な問題については触れなかった。それも、当事者同士の話し合いによって決定すべきであるとの考えによるものであった。

伸一は、書簡に、この提言を「人類の平和を願ってやまない一人の友人からの真心」として受け取ってもらえれば幸いであると記した。「今、世界は、中東情勢の刻一刻の動静とともに、あなたの一挙手一投足に固唾をのんで注目しております。」

長官は、この書簡を、3回繰り返して読んだ。そして、顔を上げた。「数日、思索させてもらいます。今度は、石油問題についても、ぜひ提言してください。山本会長のご意見は、大統領にも、必ずお伝えします」

この日から、伸一とキッシンジャーの友好は一段と深まっていった。1987年(昭和62年)9月には、二人の対談集『「平和」と「人生」と「哲学」を語る」が出版されたのである。

また、96年6月、伸一がアメリカからキューバに行き、カストロ国家評議会議長と会見する予定があることを知ったキッシンジャーが 訪ねてきたのである。キッシンジャーは、アメリカとキューバの関係改善を願う真情を述べ、伸一の訪問に強い期待を寄せたのである。

伸一は、そのキッシンジャーの心を携えてキューバを訪問し、カストロ議長と会見した。キッシンジャーの思いも伝え、平和への実り多い対話がなされたのだ。

キッシンジャー国務長官と会談した伸一は、引き続き同省内で、前駐日大使のロバート・インガソル国務副長官にあいさつした。それから、日本大使館に向かった。訪米していた大蔵大臣の大平正芳と会見することになっていたのである。

前日ワシントン入りした大平蔵相から伸一に、日本大使館で会いたい旨の連絡があったのである。大平大臣とは、初対面であった。大平は、淡々とした口調で切り出した。「日中平和友好条約について、山本会長のご意見をお聞きしたい」大平は、前月の12月に三木内閣の大蔵大臣となった。

日中国交正常化を果たした時の田中内閣では外務大臣を務め、日中航空協定にも尽力してきた。そして、いよいよ日中平和友好条約の締結が、彼にとっても最大のテーマとなっていたのだ。


太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋

キッシンジャー国務長官との会談

『新・人間革命』第20巻 信義の絆の章 375P~

伸一は、ニューヨークから列車でワシントンDCへと向かった。そして、13日、彼は国務省を訪問した。ヘンリー・キッシンジャー国務長官と会談するためである。

1973年(昭和48年)1月、伸一は、ニクソン大統領あてのベトナム戦争の終結を呼びかける書簡を、人を介して、当時、大統領補佐官であったキッシンジャーに託し、届けてもらっていた。以来、何度か、キッシンジャーと手紙のやりとりをしてきた。そのなかで、「渡米の折には、ぜひとも立ち寄ってほしい」と言われていたのである。

キッシンジャー国務長官と山本伸一の会談は、長官の執務室で午後2時半から行われた。室内には、キッシンジャーと伸一、アメリカ側の通訳の三人しかいなかった。伸一が現下の国際情勢について話を切り出すと、長官の目が光った。

伸一は、キッシンジャーが1969年の1月にニクソン大統領の補佐官となって以来、その奮闘に目を見張ってきた。彼には、時代を読む鋭い洞察力があった。緻密な計画があった。そして、何よりも、エネルギッシュで果敢な行動力があった。

キッシンジャーは、冷徹な現実主義者であり、理想主義の対極にあるかのように評されてきた。しかし、理想を実現しようと思うならば、現実を凝視せねばならない。現実から目をそらすならば、そこにあるのは「理想」ではなく、「空想」である。

山本伸一は、1971年7月、キッシンジャーが大統領補佐官として密かに北京を訪問し、その後のニクソン訪中、米中対立改善への流れを聞いたことが忘れられなかった。それは、世界が驚き、息をのんだ、電撃的な中国訪問であった。

ベトナム戦争では、米軍の漸次撤退を推進し、さらに和平実現の陰の力となってきた。伸一は、それらの行動のなかに、平和への屈強な信念を見ていた。

キッシンジャーは38年15歳の時に、家族と共に、ドイツからニューヨークに渡ってきた。当時、ドイツはヒトラーの政権下にありユダヤ人への迫害は、日に日に激しさを加えていた。彼の一家も、そのターゲットになったのである。キッシンジャーも、少年時代から、働きながら夜学に通った。苦闘の青春でであった。だが、それゆえに、彼の人生の勝利があったといえよう。

1973年には、ベトナム和平協定を推進したことが高く評価され、ノーベル平和賞を受賞している。語らいのなかで長官は、伸一に尋ねた。「あなたたちは、世界のどこの勢力を指示しようとお考えですか」

伸一は、言下に答えた。「私たちは東西両陣営のいずれかにくみするものではありません。私たちは、平和勢力です。人類に味方します」それが、人間主義ということであり、伸一の立場であった。

会談では、中東問題、米ソ・米中関係、SALT(戦略兵器制限交渉)などがテーマになっていった。平和の道をいかに開くかーー二人の心と心は教鳴音を響かせながら、対話は進んだ。

この会談で、山本伸一は、風雲急を告げる世界の火薬庫・中東の問題について、和平実現のために、何点かにわたる提案をしようと思っていたのである。

伸一は、キッシンジャー国務長官の中東和平への懸命な努力に、期待をいだいていた。そして、中東地域に恒久的な平和を実現してほしいと切望していたのだ。

伸一の提案は、具体的な和平交渉の次元を超えたものであり、より根本的な長期的な、平和のための理念を示すものであった。いわば、中東の平和に関する基本原則を提示したのである。

中東問題は歴史的な深い原因があることから、もつれた糸のような状態になっていた。もはや一時的な対症療法的な対応策では、本質的な問題の解決は図れない状況であった。だから伸一は、和平のための基本原則を提案しようと考えたのだ。

しかし、会談の席で、この問題を詳細に論じれば、長い時間がかかってしまう。そこで、多忙な長官が貴重な時間を長く使わなくてすむように、提案を4百字詰め原稿用紙10枚ほどにまとめ、その英訳を用意してきていたのである。


太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋

核廃絶の1千万人署名

『新・人間革命』第20巻 信義の絆の章 355P~

学会として「教育・家庭の年」と定めた1975年(昭和50年)の幕が開いた。1月6日には、早くも山本伸一はアメリカに飛んだのである。対立が続く中国とソ連を訪問し、さらに、訪米する山本伸一に、アメリカ社会は驚嘆と戸惑いを見せていたようだ。

有力紙「タイム」は、揶揄するような、「驚異の伝道者」との見出しを立て、伸一と創価学会についてのリポートを掲載した。伸一が、ソ連のコスイギン首相、中国の周恩来総理と相次ぎ会見し、今回の訪米では、ワルトハイム国連事務総長と会見する予定であることも報じていた。

さらに、世界食糧銀行創設や核兵器の廃絶など、これまでの伸一の提言にも触れ、彼は「民衆と民衆を結ぶ国際的な反戦運動を起こすことに、最も強い情熱を傾けている」としていた。ところがリポートは、それらの伸一の行動や提案は、学会が権力を手に入れるための手段であるかのように報じていたのである。彼の平和への信念を理解できなかったのであろう。

伸一は、ロサンゼルスに到着。ニューヨーク入りした彼は、翌9日エール大学客員教授で評論家の加藤周一と会談した。その後、コロンビア大学を公式訪問。伸一は、教育国連、世界大学総長会議、世界学生会議などの構想を語り、活発に意見交換し合った。

大業とは、目立たぬ、忍耐強い作業の繰り返しによって、成就されるものなのだ。翌10日には、国連本部を訪問し、ワルトハイム国連事務総長と会談した。伸一が国連を訪れたのは 3度目であった。全人類の未来に責任をもとうとする事務総長は、伸一の思想と提案に着目し、高く評価してくれていたのである。世界は、仏法の智慧を求めているのだ。

伸一は、まず、核廃絶の問題を提起した。次に中東の和平をいかに実現するのかーーそれは山本伸一の悲願であった。伸一は、トルコ系住民とギリシャ系住民の紛争が続くキプロス島の問題や、飢餓に苦しむ国々の食糧問題、また、戦火が絶えないインドシナ情勢について見解を尋ねていった。そして、国連の役割に関しても、率直に質問をぶつけた。

「『国連を守る世界市民の会』をつくる時がきているのではないかと考えています」国連を中心として団結し、地球の恒久平和をめざすことだ。それが伸一の信念であり、決意であった。

「事務総長は、世界平和を妨げている元凶は、なんであるとお思いでしょうか」即座に答えが返ってきた。「それは不信です」

「全く同感です」「その『不信感』を『信頼』に変えていく道が、私は『対話』であり、さらに『文化の交流』『人間の交流』であると確信しています。」

伸一は、製本された三冊の署名簿をワルトハイムに差し出した。「これは『戦争絶滅、核廃絶を訴える署名』です。創価学会の青年部が戦争の絶滅と核廃絶の署名運動を展開し、日本全国で1千万人を超す人びとの署名を集めました」

事務総長は、署名簿を受け取ると、ページを開いた。それから、署名簿を捧げ持つようにして、伸一に語った。「非常に価値あるものです。その行為に敬意を表します。感銘を受けました・・・」

この署名運動は、伸一が1972年11月に人類の生存の権利を守る運動を青年部に期待したことに端を発し、これを受けて、男子部が「生存の権利を守る青年部アピール」を採択。そのための運動の一つとして「核兵器、戦争廃絶のための署名運動」が発表されたのである。

74年1月、青年部では年内を目標に、署名1千万をめざすことを決議し、総力をあげて、署名運動に取り組んだ。青年たちの奮闘が実り、9月には、遂に署名は1千万を突破し、千百万となった。1万人分で約6センチの高さである。全員の署名簿を積み上げれば、66メートルの高さということになる。

1千万の署名を、どのようにして国連に届けるかの議論を重ねていた時、山本先生が事務総長に会う時、持っていくとの伝言があったのだ。弟子の苦労に最大限報いようというのが、伸一の心であった。


太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋

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