『新・人間革命』第6巻 宝土の章 P7~
<第6巻 宝土の章 始まる>
第6巻が 「聖教新聞」に連載されたのは、1996年(平成8年)9月から翌年4月まで。
当時、創価学会には 卑劣なデマや中傷の嵐が吹き荒れていた。
新世紀の大舞台は、世界である。そこには、戦火にあえぐ友がいる。悲嘆に暮れる母がいる。
飢えに泣く子らもいる。
泉が砂漠をオアシスに変えるように、人間の生命からわき出る慈悲と英知の泉をもって、この地球を平和の楽園へ、永遠の宝土へと転じゆくヒューマニズムの勝利を、我らは広宣流布と呼ぶ。
1962年1月29日、山本伸一は中東へ出発した。
伸一の今回の正式な訪問国は、イラン、イラク、トルコ、ギリシャ、エジプト、パキスタン、そして、タイの7か国であり、イランの首都テヘランが第一の訪問地であった。
訪問の目的は、現地の会員の指導、宗教事情の視察等々である。
伸一のこの中東訪問を最も喜んでくれたのは、当時、東京外国語大学でアラビア語の教鞭を執り、後に日本で最初の『アラブ語辞典』を執筆・編集し、発刊する、河原崎寅造というアラブの研究者であった。
1年前、東洋学術研究所(後の東洋哲学研究所)の発足式が行われ、世界的な学術研究者を排出し、育成していこうとする伸一が、真っ先に育成に取り組んだ研究者であった。
河原崎は、外務省の留学生としてエジプトに渡り、カイロ大学のアラビア語科を卒業したあと、中東各地の日本公館に勤務し、アラブの文化への造形を深くしていった。
戦後、官僚生活を嫌って外務省を辞めると、経済苦との戦いが待っていた。しかも、妻と息子が結核に侵されていたのである。河原崎一家の苦境を見かねた親戚から、最初に、妻が仏法の話を聞き、信心を始め、その妻の勧めで、河原崎も翌年4月に入会した。
しかし、学会に関心があったわけではない。愛する妻の頼みなら、できることは、なんでもしようという思いからであった。
そのころ、アラブの石油資源が日本でも脚光を浴びてきていたが、日本の官僚も、政治家も、経済人もアラブを単に石油の取引の対象としてしか見ていなかったし、ほとんど理解していなかった。
伸一は、アラブを訪問する目的も、まず、人間の心と心を結び合うことから始まる。それには、文化の交流が大切になる。アラブと日本の間に、平和と文化の交流の道を開いておきたいと語った。
伸一の話を聞いて、河原崎は、「私は創価学会について、誤解をしていた。正直なところ、拝めば病気が治るなどといって、勧誘するだけの宗教ではないかという考えが、頭のどこかにありました。」
「しかし、不遜でした。自分で確かめもしないで、偏見をもって学会を見ていたのです。」と深々と頭を下げた。
「真実を知らなければ、誤解があるのも当然です」と言って、勤行もしたことがないという彼に、
「仏法は、すべての人間は、本来尊極なる『仏』であり、皆が平等に、幸福になる権利があることを教えています。つまり、人類の平等を説くヒューマニズムの思想であり、平和の哲学です」
「その『仏』の慈悲と智慧と生命の力を湧現していく道を教えているのが仏法なんです。」
「人間には、それぞれ理想もあれば、信念もある。皆、それに向かって、必死に努力しています。しかし、慈悲をもって人に接しようと思っても、その思いとは裏腹に、ともすれば、利己的な生き方に流されてしまうのが、人間ではないでしょうか」
「また、人生には、挫折もあれば行き詰まりもある。そうした時に、何ものにも負けない強さをもち、それを堂々と乗り越えていけるかどうかに、幸・不幸の鍵がある。そこに、仏法を求めざるをえない理由があります。」
河原崎は 行き詰まりを感じていると話す。
伸一は、「負けてはいけません。人間には行き詰まりがあっても、仏法に行き詰まりはないのです」
「人間は使命をもって生まれてきています。」「あなたにどこまで、その情熱があるかです。情熱は人間を触発し、伝播していくものです。自分と同じ心を持つ、人間の流れをつくることです。弱気なあなたの発言を聞いたら、奥さんが悲しみます。弱さは不誠実につながります」
「あなたの担うべき役割は大きい」
「人間の心にヒューマニズムを育み、平和の道、文化の橋を架けるーそれが仏法なんです。私も応援します。この限りある生涯を、ともに、人類の平和のために、未来のために捧げていこうではありませんか」河原崎は、目を潤ませ、決意を語った。
家に帰ると直ちに仏壇の前に座り、題目を三唱した。そして、家族に宣言した。「今日から俺も、信心をするからな!」もともと一途な"アラブの快男児"はその日を契機に、一騎当千の"広布の快男児"となっていったのである。
太字は 『新・人間革命』第6巻より抜粋
<第6巻 宝土の章 始まる>
第6巻が 「聖教新聞」に連載されたのは、1996年(平成8年)9月から翌年4月まで。
当時、創価学会には 卑劣なデマや中傷の嵐が吹き荒れていた。
新世紀の大舞台は、世界である。そこには、戦火にあえぐ友がいる。悲嘆に暮れる母がいる。
飢えに泣く子らもいる。
泉が砂漠をオアシスに変えるように、人間の生命からわき出る慈悲と英知の泉をもって、この地球を平和の楽園へ、永遠の宝土へと転じゆくヒューマニズムの勝利を、我らは広宣流布と呼ぶ。
1962年1月29日、山本伸一は中東へ出発した。
伸一の今回の正式な訪問国は、イラン、イラク、トルコ、ギリシャ、エジプト、パキスタン、そして、タイの7か国であり、イランの首都テヘランが第一の訪問地であった。
訪問の目的は、現地の会員の指導、宗教事情の視察等々である。
伸一のこの中東訪問を最も喜んでくれたのは、当時、東京外国語大学でアラビア語の教鞭を執り、後に日本で最初の『アラブ語辞典』を執筆・編集し、発刊する、河原崎寅造というアラブの研究者であった。
1年前、東洋学術研究所(後の東洋哲学研究所)の発足式が行われ、世界的な学術研究者を排出し、育成していこうとする伸一が、真っ先に育成に取り組んだ研究者であった。
河原崎は、外務省の留学生としてエジプトに渡り、カイロ大学のアラビア語科を卒業したあと、中東各地の日本公館に勤務し、アラブの文化への造形を深くしていった。
戦後、官僚生活を嫌って外務省を辞めると、経済苦との戦いが待っていた。しかも、妻と息子が結核に侵されていたのである。河原崎一家の苦境を見かねた親戚から、最初に、妻が仏法の話を聞き、信心を始め、その妻の勧めで、河原崎も翌年4月に入会した。
しかし、学会に関心があったわけではない。愛する妻の頼みなら、できることは、なんでもしようという思いからであった。
そのころ、アラブの石油資源が日本でも脚光を浴びてきていたが、日本の官僚も、政治家も、経済人もアラブを単に石油の取引の対象としてしか見ていなかったし、ほとんど理解していなかった。
伸一は、アラブを訪問する目的も、まず、人間の心と心を結び合うことから始まる。それには、文化の交流が大切になる。アラブと日本の間に、平和と文化の交流の道を開いておきたいと語った。
伸一の話を聞いて、河原崎は、「私は創価学会について、誤解をしていた。正直なところ、拝めば病気が治るなどといって、勧誘するだけの宗教ではないかという考えが、頭のどこかにありました。」
「しかし、不遜でした。自分で確かめもしないで、偏見をもって学会を見ていたのです。」と深々と頭を下げた。
「真実を知らなければ、誤解があるのも当然です」と言って、勤行もしたことがないという彼に、
「仏法は、すべての人間は、本来尊極なる『仏』であり、皆が平等に、幸福になる権利があることを教えています。つまり、人類の平等を説くヒューマニズムの思想であり、平和の哲学です」
「その『仏』の慈悲と智慧と生命の力を湧現していく道を教えているのが仏法なんです。」
「人間には、それぞれ理想もあれば、信念もある。皆、それに向かって、必死に努力しています。しかし、慈悲をもって人に接しようと思っても、その思いとは裏腹に、ともすれば、利己的な生き方に流されてしまうのが、人間ではないでしょうか」
「また、人生には、挫折もあれば行き詰まりもある。そうした時に、何ものにも負けない強さをもち、それを堂々と乗り越えていけるかどうかに、幸・不幸の鍵がある。そこに、仏法を求めざるをえない理由があります。」
河原崎は 行き詰まりを感じていると話す。
伸一は、「負けてはいけません。人間には行き詰まりがあっても、仏法に行き詰まりはないのです」
「人間は使命をもって生まれてきています。」「あなたにどこまで、その情熱があるかです。情熱は人間を触発し、伝播していくものです。自分と同じ心を持つ、人間の流れをつくることです。弱気なあなたの発言を聞いたら、奥さんが悲しみます。弱さは不誠実につながります」
「あなたの担うべき役割は大きい」
「人間の心にヒューマニズムを育み、平和の道、文化の橋を架けるーそれが仏法なんです。私も応援します。この限りある生涯を、ともに、人類の平和のために、未来のために捧げていこうではありませんか」河原崎は、目を潤ませ、決意を語った。
家に帰ると直ちに仏壇の前に座り、題目を三唱した。そして、家族に宣言した。「今日から俺も、信心をするからな!」もともと一途な"アラブの快男児"はその日を契機に、一騎当千の"広布の快男児"となっていったのである。