小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

中日友好協会

核兵器の全面撤廃と完全廃棄

『新・人間革命』第20巻 友誼の章 60P~

二回にわたる中日友好協会の代表との座談会では、当然のことながら、核兵器の問題も話題にのぼった。伸一は、核廃絶への流れを断じてつくらなければならないと必死であった。

自国を守るために、核武装という手段を選択した中国にとって、伸一の主張は厳しい問題提起であったかもしれない。しかし、中国側は、核兵器の全面廃止と完全廃棄が、中国の立場であることを明確に語ったのである。

「核兵器は、着ることもできなければ、食べることもできません」伸一は、この言葉に核兵器に対する中国の本音を聞いた思いがした。しかし、中国は核実験を続けている。そのことを尋ねると、張副会長は答えた。「現実認識に立つ時、中国は核実験を行い、核を保有せざるをえません」

伸一は、それでも、まず中国から、勇気をもって核を放棄し、全廃の叫びを強めていくべきであると訴えた。時代を変えるために、伸一は決断を求めた。中国側を代表して、張副会長が、誓約するように語った。「核実験を行っても、いかなる場合でも、中国が最初に核兵器を使用することは絶対にありません。核は、あくまでも防衛的なものです」

核兵器に対する考え方では、創価学会側と中国側とは、意見が異なる部分があった。しかし、「核の保有、非保有にかかわらず、すべての国が平等の立場で、一堂に会して、核兵器全廃のための会議を開く」との意見に対しては、完全な同意を得た。また、日中平和友好条約の締結もテーマになった。

中日友好協会の代表との語らいは白熱した。宗教否定のマルクス・レーニン主義を基調とする中国と、日蓮仏法を基調とした創価学会との対話である。同行メンバーの多くは、意見が一致することは、ほとんどないのではないかと考えてたいたようだ。

本当に民衆のことを考え、平和を求めぬく誠実な心と心は、社会体制の壁を超え、共鳴の和音を奏でるものだ。社会の制度やイデオロギーは異なっていようが、そこにいるのは同じ人間であるからだ。

訪中4日目、山本伸一は北京市西城区の、半導体を使って精密機械を作っている工場に案内された。その中心は主婦である。この工場は、かつては"天秤"を作る町工場であったが、女性従業員たちの涙ぐましいまでの努力によって、工場は生まれ変わっていったというのである。国も、団体も、女性が存分に力を発揮できるところには大発展がある。

この日の午後、山本伸一の一行は、北京市郊外の人民公社を訪問した。人民公社は、生産部門と行政部門が一体化した、中国独自の農村の機構であった。

6月3日午後、北京市第35中学校を視察した。校門を入ると、黒板に大書された、「熱烈歓迎 日本朋友」の文字が飛び込んできた。
伸一は、女子生徒と卓球の試合をした。伸一はお礼に自分のラケットを贈ると、生徒が「中日友好万歳。日本の友人に贈る」と書かれた箱に入ったラケットをプレゼントしてくれた。

校庭では、地下深く穴を掘る生徒の姿があった。ソ連の攻撃を受けた時に、避難するための壕をつくているのだという。戦争の陰は、子どもたちの学校生活にまで及んでいるのだ。

伸一はその光景を眼に焼き付けるように、じっと眺め、自分に強く言い聞かせた。"この事実を、必ずソ連の指導者に伝え、平和のための道を歩むように訴え抜くのだ。中ソの争いは、生命を投げ出しても、絶対にやめさせなければならない!"

4日午前、山本伸一の一行は、北京市郊外の頤和園に招かれた。頤和園は、清朝の西太后の離宮として知られる大庭園である。入口に中国友好協会の趙撲初副会長が待っていてくれた。当時、仏教協会の責任を担っていた。

趙は日中戦争の時代、人民の救済に苦闘した体験を語り始めた。仏教界も腐敗堕落し、むしろ人民大衆を苦しめる存在に堕していた。伸一は、間髪を入れずに答えた。「人民のため、社会のために身を挺して戦うーーそれが菩薩であり、仏です。仏法者の在り方です。その行動のない仏教は、まやかしです」

仏教の精神について、二人の意見は完全に一致し、意気投合した。打てば響くような語らいであった。趙副会長と伸一は、この後も何度も会い、友誼を重ねていくのである。



太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋

中ソ対立の歴史

『新・人間革命』第20巻 友誼の章 50P~

6月1日伸一たちは、「児童節」の催しに招待を受けた。会場の北京市労働人民文化宮は、天安門の東側にあった。参加者は、合計5万人であるという。子どもたちは、各所で歌や踊り、さまざまな展示、ゲームなどを楽しんでいた。

伸一は、案内をしてくれた少女に「将来どんな仕事につきたいと思いますか」と尋ねると「人民が望むなら、どんな仕事でもします」と答えた。

人民に奉仕することの大切さを、徹底して教えてられているのだろう。この精神が子どもたちの共通の生き方として定着していくならば、他に類を見ない、すばらしい社会として発展を遂げていくに違いないと、伸一は思った。

新中国の成立から20数年にして、教育は普及し、衣食住は保障され、革命前と比べて生活は確かに向上したというのが、人びとの実感であるようだ。

午後3時からは、中日友好協会の代表と座談会が行われた。これには、協会の副会長の張香山をはじめ、秘書長の孫平化、理事の林麗うん、金蘇城、通訳として黄世明らが参加した。

中国側のメンバーは、世界の情勢を「天下動乱」という観点でとらえていた。その危険性の根本要因を中国側は、米ソの二超大国の対立にあると考えていた。また、日本に軍国主義が復活することを強く警戒していた。

伸一が、最も憂慮し、中国の意見を聞きたかった問題は、中ソ対立であった。中ソ国境では、一触即発の緊張がみなぎっていたのである。

1956年の2月、ソ連共産党の大会で、フルシチョフ第一書記が、資本主義との平和的共存という新路線を発表したのだ。さらに、3年前に他界した書記長のスターリンを批判し、その独裁や粛清を弾劾したのである。

ソ連のみならず、世界の共産党の指導者として、君臨し、権力を振るってきたスターリンが否定されるとともに、社会主義としての路線の転換が図られたのだ。このフルシチョフ発言に、社会主義諸国は揺れた。当時、"アメリカ帝国主義との対決"などを打ち出していた中国は、フルシチョフの急激な路線変更に不信感を強め、異を唱えた。中ソ間に亀裂が走った。

7月、ソ連は、中国に派遣していた千人を越える技術者の引き揚げや、物資などの供給停止を決めた。これによって、ソ連の援助に依存していた中国の経済政策は、根底から揺るがされることになったのである。

中国は、64年10月、核実験に成功する。さらに、66年には、文化大革命が始まる。するとソ連は、"文革"こそ毛沢東思想の誤りであるとして、猛烈な批判を開始したのだ。

1968年8月チェコ事件が起き、社会主義国のチェコスロバキアに、ソ連などの社会主義国が軍事介入して鎮圧したのだ。

中国はソ連に脅威を感じた。中国にも、いつ侵攻してくるかわからぬという危機感を抱いた。翌年、珍宝島や黒竜江の島で中ソの軍事衝突が発生。緊張はますます高まっていった。

その一方で中国は、これまで帝国主義と批判していたアメリカとの関係改善に取り組み、ソ連の軍事的脅威に対抗しようとする。

山本伸一は、核を保有する中ソが戦争となることを、最も恐れていた。この事態だけは、絶対に阻止しなければならないと考えていた。伸一は、張香山副会長に率直に尋ねた。「・・・ところで、中国は他国を攻めることはありませんか」

「私たちは、独立の尊さと、侵略の悲惨さを身に染みて感じております。したがって、中国が他国を侵略することは、絶対にありません」張副会長は断言した。伸一は、この回答の意味は大きいと感じた。

中国側は、この秋に、伸一がソ連を訪問することも知っている。その言葉は、伸一に託したソ連へのメッセージであったのかもしれない。しかし、伸一は、政治的な思惑や意図などを探ろうとは思わなかった。彼は、張副会長の発言をそのまま受け入れ、深く心にとどめた。

ともかく、中国は侵略の意思がないことを言明したのだ。それならば、中ソの戦争の回避は、決して不可能ではない。伸一は、その言葉に喜びを覚えた。


7月28日付 聖教新聞3面に 歴史の目撃者である 黄世明氏との対話録が載っている。

太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋

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