『新・人間革命』第30巻(上) 大山の章 35p~
太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
伸一は、1952年(昭和27年)4月、日蓮大聖人の宗旨建立700年慶祝記念大法会の折の出来事を思った。学会の青年たちが、僧籍をはく奪されているはずの笠原慈行を総本山で発見した。笠原は、戦時中、時局に便乗して神本仏迹論の邪義を唱え、保身のために大聖人の正法正義を踏みにじった悪僧である。彼の動きが契機となって軍部政府の弾圧が起こり、牧口常三郎の獄死の遠因となったのである。
宗祖の教えを踏みにじった悪僧を、宗会は庇いたて、その悪を正した戸田を厳重処分にしようというのだ。“宗会は、戸田先生の大講頭罷免や登山停止など、お一人だけを処分するつもりだ。これは、会長である先生と会員との分断策だ。
戸田先生なくして、いったい誰が広宣流布を進めるのだ!何があろうが、私たちが戸田先生をお守りする。正義を貫かれた、なんの罪もない先生を処分などさせるものか!”それが伸一の胸中の叫びであり、当時の学会首脳、青年部幹部の決意であった。
笠原事件を乗り越えた学会の、師弟の魂の結合は一段と強くなっていった。伸一は、今、学会の首脳たちに、広宣流布に断固と生きる師弟の気概が、燃え盛る創価の闘魂が、感じられないことを憂慮していた。
4月6日、彼は、宗門の虫払い大法会に出席するため、総本山大石寺に赴き、細井日達法主と面会した。そこで、法華講総講頭の辞任とともに、創価学会の会長も辞任する意向であることを伝えたのである。伸一にとっては、悪僧らの攻撃から、学会員を守ることこそが最重要であった。
彼には、“自分は会長を退いても、若き世代が創価の広宣流布の松明を受け継ぎ、さっそうと21世紀の大舞台に躍り出てくれるにちがいない”との、大きな確信があった。
4月7日、山本伸一は、創価大学を訪れた中華全国青年連合会の一行20人を「周桜」の前で迎えた。彼は、先頭に立って、全青連のメンバーを案内した。伸一は、全青連代表団の団長を務めた高占祥より7歳年長であった。伸一は、彼を“若き友人”として尊敬し、日本で結ばれた二人の友情は色あせることはなかった。
会長辞任を決めた伸一の心は、既に世界に向かって、力強く飛び立っていたのだ。4月12日、東京・港区元赤坂の迎賓館で約7か月ぶりに鄧頴超と再会したのである。あいにく東京は、既に桜の季節は終わってしまった。伸一は、ささやかではあるが、東北から八重桜を取り寄せ、迎賓館に届けてもらった。
その桜は、会談の会場である迎賓館の「朝日の間」に美しく生けられていた。伸一は、一冊のアルバムを用意していた。そこには、「周桜」「周夫婦桜」創価大学に学ぶ中国人留学生の写真などが収められていた。
約40分間に及んだ和やかな語らいは終わった。伸一は、“鄧先生には、どうしても伝えておかなければ…”と思い、口を開いた。「実は、私は創価学会の会長を辞めようと思っています」鄧頴超の足が止まった。伸一を直視した。「山本先生、それは、いけません。まだまだ、若すぎます。何よりあなたには、人民の支持があります。人民の支持がある限り、辞めてはいけません」真剣な目であった。
彼女は、念を押すように言った。「一歩も引いてはいけません!」進退は自分が決めることではあるが、伸一にとっては、真心が胸に染みる、ありがたい言葉であった。彼は、鄧頴超の思いに応えるためにも、いかなる立場になろうが、故・周恩来総理に誓った、万代にわたる日中友好への歩みを、生涯、貫き通そうと、決意を新たにした。
’89年(平成元年)6月4日、中国では第二次天安門事件が起こった。欧米諸国は政府首脳の相互訪問を拒絶し、日本政府は中国への第三次円借款の凍結を決めるなど、中国は国政的に孤立した。伸一は思った。“結果的には、中国の民衆が困難に直面している。私は、今こそ、友人として中国のために力を尽くし、交流の窓を開こう。それが人間の信義であり、友情ではないか!”
“中国を孤立化させてはならない!”と、彼は強く心に期していた。そして翌90年5月、創価学会第七次訪中団と友好交流団の計281人が、大挙して中国を訪れたのである。それは中国との交流再開の大きな流れをもたらし、関りを躊躇し、状況を見ていた多くの団体等が、これに続いた。
伸一と峯子は、この折、再び鄧頴超の住居・西花庁を訪問した。彼女は86歳となり、入院中であったが、わざわざ退院して、玄関先に立ち、伸一たちを迎えたのだ。彼女は、周総理の形見である象牙のペーパーナイフと、自身が愛用してきた筆立てを、「どうしても受け取ってほしい」と差し出した。「国の宝」というべき品である。人生の迫り来る時を感じているにちがいない。その胸の内を思うと、伸一の心は痛んだ。
彼は“永遠に平和友好に奮闘する精神の象徴”として拝受することにした。これが最後の語らいになったのである。
宗祖の教えを踏みにじった悪僧を、宗会は庇いたて、その悪を正した戸田を厳重処分にしようというのだ。“宗会は、戸田先生の大講頭罷免や登山停止など、お一人だけを処分するつもりだ。これは、会長である先生と会員との分断策だ。
戸田先生なくして、いったい誰が広宣流布を進めるのだ!何があろうが、私たちが戸田先生をお守りする。正義を貫かれた、なんの罪もない先生を処分などさせるものか!”それが伸一の胸中の叫びであり、当時の学会首脳、青年部幹部の決意であった。
笠原事件を乗り越えた学会の、師弟の魂の結合は一段と強くなっていった。伸一は、今、学会の首脳たちに、広宣流布に断固と生きる師弟の気概が、燃え盛る創価の闘魂が、感じられないことを憂慮していた。
4月6日、彼は、宗門の虫払い大法会に出席するため、総本山大石寺に赴き、細井日達法主と面会した。そこで、法華講総講頭の辞任とともに、創価学会の会長も辞任する意向であることを伝えたのである。伸一にとっては、悪僧らの攻撃から、学会員を守ることこそが最重要であった。
彼には、“自分は会長を退いても、若き世代が創価の広宣流布の松明を受け継ぎ、さっそうと21世紀の大舞台に躍り出てくれるにちがいない”との、大きな確信があった。
4月7日、山本伸一は、創価大学を訪れた中華全国青年連合会の一行20人を「周桜」の前で迎えた。彼は、先頭に立って、全青連のメンバーを案内した。伸一は、全青連代表団の団長を務めた高占祥より7歳年長であった。伸一は、彼を“若き友人”として尊敬し、日本で結ばれた二人の友情は色あせることはなかった。
会長辞任を決めた伸一の心は、既に世界に向かって、力強く飛び立っていたのだ。4月12日、東京・港区元赤坂の迎賓館で約7か月ぶりに鄧頴超と再会したのである。あいにく東京は、既に桜の季節は終わってしまった。伸一は、ささやかではあるが、東北から八重桜を取り寄せ、迎賓館に届けてもらった。
その桜は、会談の会場である迎賓館の「朝日の間」に美しく生けられていた。伸一は、一冊のアルバムを用意していた。そこには、「周桜」「周夫婦桜」創価大学に学ぶ中国人留学生の写真などが収められていた。
約40分間に及んだ和やかな語らいは終わった。伸一は、“鄧先生には、どうしても伝えておかなければ…”と思い、口を開いた。「実は、私は創価学会の会長を辞めようと思っています」鄧頴超の足が止まった。伸一を直視した。「山本先生、それは、いけません。まだまだ、若すぎます。何よりあなたには、人民の支持があります。人民の支持がある限り、辞めてはいけません」真剣な目であった。
彼女は、念を押すように言った。「一歩も引いてはいけません!」進退は自分が決めることではあるが、伸一にとっては、真心が胸に染みる、ありがたい言葉であった。彼は、鄧頴超の思いに応えるためにも、いかなる立場になろうが、故・周恩来総理に誓った、万代にわたる日中友好への歩みを、生涯、貫き通そうと、決意を新たにした。
’89年(平成元年)6月4日、中国では第二次天安門事件が起こった。欧米諸国は政府首脳の相互訪問を拒絶し、日本政府は中国への第三次円借款の凍結を決めるなど、中国は国政的に孤立した。伸一は思った。“結果的には、中国の民衆が困難に直面している。私は、今こそ、友人として中国のために力を尽くし、交流の窓を開こう。それが人間の信義であり、友情ではないか!”
“中国を孤立化させてはならない!”と、彼は強く心に期していた。そして翌90年5月、創価学会第七次訪中団と友好交流団の計281人が、大挙して中国を訪れたのである。それは中国との交流再開の大きな流れをもたらし、関りを躊躇し、状況を見ていた多くの団体等が、これに続いた。
伸一と峯子は、この折、再び鄧頴超の住居・西花庁を訪問した。彼女は86歳となり、入院中であったが、わざわざ退院して、玄関先に立ち、伸一たちを迎えたのだ。彼女は、周総理の形見である象牙のペーパーナイフと、自身が愛用してきた筆立てを、「どうしても受け取ってほしい」と差し出した。「国の宝」というべき品である。人生の迫り来る時を感じているにちがいない。その胸の内を思うと、伸一の心は痛んだ。
彼は“永遠に平和友好に奮闘する精神の象徴”として拝受することにした。これが最後の語らいになったのである。
太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋