小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

中国訪問

北京の教員たちとの語らい

『新・人間革命』第20巻 友誼の章 33P~

朝の北京は、通勤、通学の自転車で埋め尽くされていた。そこには、民衆の躍動と活気がみなぎっている。

31日の午前中、伸一たちは中日友好協会の金蘇城理事らの案内で、故宮博物院に向かった。革命によって、紫禁城は今や人民に解放され、故宮博物院となったのである。人民を見下して足蹴にし、栄耀栄華にふける権力者は、必ず滅び去る。それは歴史の鉄則といってよい。

山本伸一の一行は、午後には北京市西城区にある新華小学校や付属の幼稚園に案内された。子どもと接するということは、未来と接することだ。子どもを育てるということは、未来を育てるということだ。伸一は、訪中の最大の眼目を、教育交流においていた。万代の日中友好を願うならば、中国と日本の若き世代の交流の道を、広々と開く必要があると考えていたからである。

校舎の一室で行われた教職員との交流の折、伸一は、真心こもる歓迎に感謝しながら、創価学会の歴史と教育への取り組みについて語った。伸一は、創価学会の師弟を語る時、最も誇らかであった。

初代、二代の会長の戦いは、人類普遍の燦然たる正義の人道である。それゆえに、その歴史をありのあままに語るならば、創価学会がいかなる理念と哲学の団体であるかを、世界のどの国でも、すぐに理解してもらうことができるのである。

学校に、小さな象棋(中国将棋)の工場が併設されていた。ここでの労働を通し、子どもたちは労働の大切さを学び、学習した知識を労働生産に生かすのだという。その指導には、定年退職した技術者があったっていた。

「牧口先生がいらっしゃったら、喜ばれるだろうな・・・」初代会長の牧口常三郎は、明治後期から「半日学校制度」を提唱してきた。それは、半日は学校で学び、残りの時間は社会の生産活動に従事することによって、健全な心身の発達を図ろうという構想であった。

お仕着せの思想は、人間の心に深く定着することはない。子どもが主体的に判断できるようにすることに、教育の重要なポイントがある。

教育の道は遠路である。その成果が、本当に明らかになるのは、30年後、50年後であろう。教員たちは、自分たちの教育が、将来、見事に花開くという確信に満ちていた。

伸一は、中日友好協会を表敬訪問し、今回の招待と真心こもる歓迎に、御礼と感謝の気持ちを伝えた。伸一が、四面楚歌のなかを戦ってきた創価学会の歴史を語ると、廖会長は愉快そうに語った。「四面楚歌の方がやりがいがありますよ、かえって力がでるものです」

廖承志は、1906年に東京で生まれた。その人生は波乱万丈であった。彼が16歳の夏、広州で父親が暗殺された。気丈な母は、自宅の門に毅然と横幕を掲げた。「精神不死」それは、誇り高い、母の闘争宣言であった。婦人の強き一念こそ、目的を成就する難攻不落の要塞となる。

廖承志は、この父母の革命精神を受け継いだ。彼は弾圧を受け、7回も逮捕されている。心臓に持病があったが、診察も受けさせてもらえなかった。そのなかで彼を守ってくれたのが、周恩来総理であった。

この懇談の席上、伸一は、教育と文化の交流のために、北京大学への5千冊の図書贈呈、中国の青年・学生の日本への招待を申し出た。

その後、会場を北京飯店に移して、中日友好協会の主催で歓迎宴が行われた。語らいのなかで廖会長は、さりげない口調で言った。「山本先生!創価学会は、中国で布教してくださっても結構ですよ」

伸一は、きっぱりと応じた「その必要はありません」伸一は、中国で布教していくために訪中したのではない。訪中は、万代にわたる「友誼の道」をひらくためであり、人間主義者としての行動であった。創価学会としてなんらかの、"見返り"を求めてのことでは決してないーーそれを言明しておきたかたのである。

また、布教はしなくとも、信義の語らいを通して、中国の指導者たちが仏法で説く生命の尊厳や慈悲などの哲理に共感していけば、その考え方は、あらゆる面に反映されていくにちがいないと確信していたのだ。


太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋

初の中国訪問

『新・人間革命』第20巻 友誼の章 16P~

中国の革命家・孫文は叫んだ「大きな事業をやり遂げるには、何よりも大きな志をいだき、大きな度胸をもち、大きな決心をしなければならない」壮大な志をもって、勇気をもって、行動を起こすとき、歴史を創る大事業の幕が開かれる。

7月半ば、ニクソン大統領は、中国を敵視してきたアジア政策を転換し、中国を訪問し、米中は日本の頭越しに、国交樹立へと踏み出した。国連総会では、中華人民共和国を中国の唯一の政府と認め、国連に招請することを可決した。

世界の大きな動きに、日本は危うく取り残されるところであった。伸一の布石の重さを、心ある識者は、今更ながら実感するのであった。公明党は5月と7月に中国へ代表団を派遣。田中内閣が発足すると国交正常化への政府とのパイプ役を務め、国交回復への問題点を周総理と煮詰めていった。

日本政府にとっての最大の難問は、日本が中国に与えた戦争被害の賠償であった。中国側の死傷者は、3500万人、経済的損失は、直接・間接合わせて総額6千億ドルともいわれる。しかし、周総理は、公明党との会談で、その対日賠償の請求を放棄すると言明したのである。

日本の人民も軍国主義の犠牲者である。その苦しみを日本の人民に味わわせてはならない。それが周総理の考え方であった。これによって、日本がどれほど救われるかーー伸一はそう思うと、いかに感謝してもしきれるものではないと思った。日本は、その恩義を、永遠に忘れることがあってはならない。

周総理は、公明党との会談の最後に、これまで語りあってきた事柄をまとめ、国交正常化のための、日中共同声明の中国側の草案ともいうべき内容を読み上げていった。公明党の訪中団は、それを必死にメモして、帰国後、田中首相、大平外相に伝えたのである。

日中国交正常化のお膳立ては整った。1972年(昭和47年)国交正常化の日中共同声明の調印式が行われたのである。公明党がそのパイプ役となりえた理由を、中日友好協会や新華社の関係者は山本伸一が行った「日中国交正常化提言」によるものと断言している。提言を高く評価した周総理が、その伸一によって創立された公明党に大きな信頼を寄せてのことだというのである。

勇気の言葉は、必ず歴史を変える。ゆえに、恐れなく、真実を、正義を、信念を語り抜くのだ。

国交正常化御後、伸一は幾たびとなく、訪中の要請を受けていたが、多忙を極めスケジュールが確保できなかった。1974年、5月22日に、中日友好協会から招請電報が届いた。5月29日、山本伸一の一行は、羽田の国際空港を発った。

伸一は、国交の眼目とは、ただモノなどが行き交うことではなく、人間と人間の交流にこそあると考えていた。さらに青年と青年の交流があれば、万代にわたる「友誼の道」を開くことができると確信していた。青年のために、道を創れ、その道は、はるかなる未来に通じるーーそれが伸一の信念であった。

中国は文化大革命が続いており、日本では、学者や文化人が三角帽を被せられ、街中を引きずり回され、自己批判させられるような出来事ばかりが報じられてきた。だから、皆の頭のなかには、"中国は怖い国である"との印象が刷り込まれていたのである。

いよいよ山本伸一は、中国・深圳への第一歩を踏みしめたのだ。午前11時50分を指していた。中日友好協会の葉敬蒲と広州市の殷蓮玉が流暢な日本語で語った。葉は、伸一の著書「人間革命」を熟読していた。

広州駅に到着すると広東迎賓館に案内され、食事を共にしながら、広州の文化や、中国の食文化などが話題にのぼり、相互理解を深める、和やかな語らいとなった。会食を終え、飛行機で北京へ向かうと午後10時近かったが、中国友好協会の最高スタッフと廖承志会長が先頭で出迎えてくれた。

山本伸一が宿舎の北京飯店に着くと、日本人記者団が待っており、インタビューに快く丁寧に記者会見に応じた。日本と中国の未来のためにも、世界の平和のためにも、日中の友好がいかにたいせつかを、あらゆる機会を通して訴えたかったのである。伸一が打ち合わせを終えた時には、午前零時を回っていた。



太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋

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