『新・人間革命』第7巻 早春の章 P194~
<早春の章 始まる>
1963年1月12日 ヨーロッパでは、ドイツの支部が産声をあげた。
西ドイツの炭鉱で働く労働者として、多くの日本人が渡っていた。メンバーの中心になっていたのは、佐田幸一郎という青年であった。彼は、北海道生まれ、7歳で父を亡くし、4人の子供を育てる母を助けるため、子供のころから働き、小学校も満足に通えなかった。
18歳の時、釧路の炭坑に就職するが間もなく母が他界してしまい彼自身も 作業中に左足をトロッコに轢かれ足を切断するかもしれない状況になり、次々と襲いかかる不幸に、自分の運命を呪った。
そんな時、同僚から仏法の話を聞き、入会した。足の切断は免れ怪我が完治し、歓喜に燃えて活動に励むようになった。漢字が読めないのが困ったが、会長に就任した山本伸一が、世界広布の指導をするのを聞き、自分も 世界広布に青春を捧げたいと希望をいだく。
しかし、アルファベットもわからない自分には、それは叶わぬ夢であると考えていたが、西ドイツのルール地方の炭坑が技術派遣の労働者を募集していることを知り応募するとメンバーに選ばれた。
佐田は思った。"不思議だ!これは、自分には、ヨーロッパ広布の使命があるということなのだろう"
山本会長から、「30世帯になったら支部を結成することにしよう」との目標を与えられたと受け止めた。
一方、ゲルゼンキルヘンの炭坑のメンバーの中心となっていたのが、諸岡道也という23歳の青年であった。彼も北海道出身で、家族の家計をささえて炭坑で働いていたが、両親が「思う存分広宣流布のために頑張れ!」と激励してくれ、西ドイツへ来たのだ。
ドイツ語を話せない彼らは職場でドイツ人の同僚と、意思の疎通を図ることも難しかった。ノルマも厳しかった。小柄で体重が60キロにも満たない彼には 予想以上に過酷な、辛い作業であった。
ドイツの広布を誓い、日本で地区のメンバーに見送られて、ここに来たことを思うと、決して弱音を吐くわけにはいかなかった。
やがて彼の努力は次第に実り始めた。実証を積み重ねるなかで、職場での信頼は高まっていった。それは、そのまま、日本人への評価ともなった。
一人の女子部員が西ドイツにやって来た。耳鼻咽喉科の医師の高石松子である。彼女は千葉大学の医学部を卒業し、念願の医師となったが、友人との人間関係に行き詰まり、また、医師としての自身も失いかけていた。
彼女の義姉が 医学の粋を尽くして治療しても治らなかった病を、信心で克服した体験を持っていて、彼女に勧められ、入会したのである。夢中で信心に励むうちに千葉大学の助手になることができ、信仰の力を確信し、彼女も 世界広布のため 西ドイツへの留学を決意した。
しかし、留学生の試験に 落ちてしまい、試験に落ちたことのない優秀な高石は 衝撃を受け、信心にも疑いさえいだき始めた。そんな時、山本会長に指導を受けにいき、任用試験に落ちたことを話すと「最高学府を出ても、教学はできないんだね・・・」と言われ、その言葉が高石の胸に刺さる。
それは、高石の信心の姿勢を正す、明快な指導でもあった。彼女は自分は一生懸命に信心をしてきたように思っていたが、心のどこかで仏法をみくびっていたことに気づいた。そんな姿勢であれば、願いが叶わないのも、当然だと思えた。
彼女の心は一変して、真摯な気持ちで教学を研鑽し、真剣に唱題に励んだ。そのなかで、仏法の偉大さを痛感していった。それから間もなく、高石は研修医として、ハイデルベルク大学医学部の耳鼻咽喉科への留学が決まったのである。
青年の力で、西ドイツの広布は飛躍的に進んでいった。会員の世帯は50世帯を超えていたのである。
太字は 『新・人間革命』第7巻より
<早春の章 始まる>
1963年1月12日 ヨーロッパでは、ドイツの支部が産声をあげた。
西ドイツの炭鉱で働く労働者として、多くの日本人が渡っていた。メンバーの中心になっていたのは、佐田幸一郎という青年であった。彼は、北海道生まれ、7歳で父を亡くし、4人の子供を育てる母を助けるため、子供のころから働き、小学校も満足に通えなかった。
18歳の時、釧路の炭坑に就職するが間もなく母が他界してしまい彼自身も 作業中に左足をトロッコに轢かれ足を切断するかもしれない状況になり、次々と襲いかかる不幸に、自分の運命を呪った。
そんな時、同僚から仏法の話を聞き、入会した。足の切断は免れ怪我が完治し、歓喜に燃えて活動に励むようになった。漢字が読めないのが困ったが、会長に就任した山本伸一が、世界広布の指導をするのを聞き、自分も 世界広布に青春を捧げたいと希望をいだく。
しかし、アルファベットもわからない自分には、それは叶わぬ夢であると考えていたが、西ドイツのルール地方の炭坑が技術派遣の労働者を募集していることを知り応募するとメンバーに選ばれた。
佐田は思った。"不思議だ!これは、自分には、ヨーロッパ広布の使命があるということなのだろう"
山本会長から、「30世帯になったら支部を結成することにしよう」との目標を与えられたと受け止めた。
一方、ゲルゼンキルヘンの炭坑のメンバーの中心となっていたのが、諸岡道也という23歳の青年であった。彼も北海道出身で、家族の家計をささえて炭坑で働いていたが、両親が「思う存分広宣流布のために頑張れ!」と激励してくれ、西ドイツへ来たのだ。
ドイツ語を話せない彼らは職場でドイツ人の同僚と、意思の疎通を図ることも難しかった。ノルマも厳しかった。小柄で体重が60キロにも満たない彼には 予想以上に過酷な、辛い作業であった。
ドイツの広布を誓い、日本で地区のメンバーに見送られて、ここに来たことを思うと、決して弱音を吐くわけにはいかなかった。
やがて彼の努力は次第に実り始めた。実証を積み重ねるなかで、職場での信頼は高まっていった。それは、そのまま、日本人への評価ともなった。
一人の女子部員が西ドイツにやって来た。耳鼻咽喉科の医師の高石松子である。彼女は千葉大学の医学部を卒業し、念願の医師となったが、友人との人間関係に行き詰まり、また、医師としての自身も失いかけていた。
彼女の義姉が 医学の粋を尽くして治療しても治らなかった病を、信心で克服した体験を持っていて、彼女に勧められ、入会したのである。夢中で信心に励むうちに千葉大学の助手になることができ、信仰の力を確信し、彼女も 世界広布のため 西ドイツへの留学を決意した。
しかし、留学生の試験に 落ちてしまい、試験に落ちたことのない優秀な高石は 衝撃を受け、信心にも疑いさえいだき始めた。そんな時、山本会長に指導を受けにいき、任用試験に落ちたことを話すと「最高学府を出ても、教学はできないんだね・・・」と言われ、その言葉が高石の胸に刺さる。
それは、高石の信心の姿勢を正す、明快な指導でもあった。彼女は自分は一生懸命に信心をしてきたように思っていたが、心のどこかで仏法をみくびっていたことに気づいた。そんな姿勢であれば、願いが叶わないのも、当然だと思えた。
彼女の心は一変して、真摯な気持ちで教学を研鑽し、真剣に唱題に励んだ。そのなかで、仏法の偉大さを痛感していった。それから間もなく、高石は研修医として、ハイデルベルク大学医学部の耳鼻咽喉科への留学が決まったのである。
青年の力で、西ドイツの広布は飛躍的に進んでいった。会員の世帯は50世帯を超えていたのである。
太字は 『新・人間革命』第7巻より