『新・人間革命』第25巻 共戦の章 152p~
「第三に、家庭にあっても、学会の組織にあっても、立派な広宣流布の後継者、後輩を育て残していくことです。お子さんがいなければ、甥や姪でもいいではないですか。一族の未来のために、妙法の火を消すことなく、伝え抜いていってください。また、組織の後輩を育て、守り、応援し、大事に育てていくようにお願いしたい。批判するためではなく、応援するために、経験豊富な皆さんがいるんです」
先輩が立派であったかどうかは、後輩の姿に表れる。したがって、先輩が後輩の未熟さを嘆くことは、自らの無力さ、無責任さを嘆いていることに等しい。「どうか、皆さんは、"後輩のリーダーは、私が守り抜く"との決意に立ってください。」学会の各県区において、世代交代は、大きなテーマの一つになっていた。
「草創期に頑張ってこられた皆さんの多くは、先輩たちから、厳しく叱咤激励されてきた経験をおもちでしょう。しかし、人材の育成、教育の在り方は、時代とともに異なってきています。自分が受けた訓練を、そのまま後輩に行うべきではありません。これからは、賞賛、激励の時代です。多種多様なあらゆる努力を的確に評価し、褒め、讃えていく。それが、勇気となり、意欲を育んでいきます。その場合も、一つ一つの事柄を、具体的に讃えていくことが大事です。また、賞賛のタイミングを外さないことです。ともあれ、皆さんは、人材育成の達人になってください」
山口市内を視察した時、亀山公園にあるサビエル記念聖堂の話が出た。伸一は、フランシスコ・ザビエルの書簡集を読んだ思い出があると話す。彼がどうやって、日本で布教していったかに関心があったという。
「"やがて学会も、世界広布の時代の幕を開かねばならない。その時に、何が大切になるのかを考えておこう"と思ったからなんだよ」彼の書簡には、「説教にも、討論にも、最も激しい反対者であった者が、一番先に信者になった」とある。激しく反対をする人は、それだけ強い信念と関心を持っているということである。心から納得すれば、決断も潔いのであろう。
また、それは、ザビエルが、どんなに激しい反対に遭おうが、微動だにすることなく、愛と確信とをもって、理路整然と、粘り強く語り抜いたことを示している。ザビエルは、他の宣教師たちに訴えている。「あなたがたは全力を挙げてこの地の人びとから愛されるように努力しなさい」人間的な信頼を勝ち取ってこそ、布教も結実するのである。
山本伸一は、ザビエルの書簡集を読んで、世界広布の道が、いかに険路であるかを痛感した。創価学会は、会員も数千人の時代であり、なんの後ろ盾もない。しかも、布教の担い手は無名の庶民である会員だ。しかし、世界広宣流布は、日蓮大聖人の絶対の御確信であり、御遺命である。ゆえに、伸一は、人を育て、時をつくりながら、世界広布の幕開けを待ったのである。
彼は、戸田城聖のもとで共に戦い、日本国内にあって、幾千、幾万、幾十万の仏子の陣列を築き上げていくなかで、次第に、世界広布を現実のものとする、強い確信がもてるようになっていった。何ものをも恐れずに弘教に生き抜く同志の、不撓不屈の実践と決意を目の当たりにしてきたからである。
折伏に励むと、殴られたり、鎌を持って追いかけられたり、村八分にされたりすることもあった。それでも同志は、忍耐強く対話を重ね、地域に信頼の根を張り、喜々として広宣流布を推進していったのだ。その姿に伸一は、地涌の菩薩の出現を、深く、強く、実感してきた。そして、"世界広布の時代を開こう"との決意は、"絶対にできる"という大確信に変わっていった。
また、彼は、1954年夏、戸田の故郷・厚田村で、戸田に、こう託された。「世界は広い。そこには苦悩にあえぐ民衆がいる。いまだ戦火に怯えるこどもたちもいる。東洋に、そして、世界に、妙法の灯をともしていくんだ。この私に代わって」世界広布は、彼の生涯の使命となったのだ。
「第三に、家庭にあっても、学会の組織にあっても、立派な広宣流布の後継者、後輩を育て残していくことです。お子さんがいなければ、甥や姪でもいいではないですか。一族の未来のために、妙法の火を消すことなく、伝え抜いていってください。また、組織の後輩を育て、守り、応援し、大事に育てていくようにお願いしたい。批判するためではなく、応援するために、経験豊富な皆さんがいるんです」
先輩が立派であったかどうかは、後輩の姿に表れる。したがって、先輩が後輩の未熟さを嘆くことは、自らの無力さ、無責任さを嘆いていることに等しい。「どうか、皆さんは、"後輩のリーダーは、私が守り抜く"との決意に立ってください。」学会の各県区において、世代交代は、大きなテーマの一つになっていた。
「草創期に頑張ってこられた皆さんの多くは、先輩たちから、厳しく叱咤激励されてきた経験をおもちでしょう。しかし、人材の育成、教育の在り方は、時代とともに異なってきています。自分が受けた訓練を、そのまま後輩に行うべきではありません。これからは、賞賛、激励の時代です。多種多様なあらゆる努力を的確に評価し、褒め、讃えていく。それが、勇気となり、意欲を育んでいきます。その場合も、一つ一つの事柄を、具体的に讃えていくことが大事です。また、賞賛のタイミングを外さないことです。ともあれ、皆さんは、人材育成の達人になってください」
山口市内を視察した時、亀山公園にあるサビエル記念聖堂の話が出た。伸一は、フランシスコ・ザビエルの書簡集を読んだ思い出があると話す。彼がどうやって、日本で布教していったかに関心があったという。
「"やがて学会も、世界広布の時代の幕を開かねばならない。その時に、何が大切になるのかを考えておこう"と思ったからなんだよ」彼の書簡には、「説教にも、討論にも、最も激しい反対者であった者が、一番先に信者になった」とある。激しく反対をする人は、それだけ強い信念と関心を持っているということである。心から納得すれば、決断も潔いのであろう。
また、それは、ザビエルが、どんなに激しい反対に遭おうが、微動だにすることなく、愛と確信とをもって、理路整然と、粘り強く語り抜いたことを示している。ザビエルは、他の宣教師たちに訴えている。「あなたがたは全力を挙げてこの地の人びとから愛されるように努力しなさい」人間的な信頼を勝ち取ってこそ、布教も結実するのである。
山本伸一は、ザビエルの書簡集を読んで、世界広布の道が、いかに険路であるかを痛感した。創価学会は、会員も数千人の時代であり、なんの後ろ盾もない。しかも、布教の担い手は無名の庶民である会員だ。しかし、世界広宣流布は、日蓮大聖人の絶対の御確信であり、御遺命である。ゆえに、伸一は、人を育て、時をつくりながら、世界広布の幕開けを待ったのである。
彼は、戸田城聖のもとで共に戦い、日本国内にあって、幾千、幾万、幾十万の仏子の陣列を築き上げていくなかで、次第に、世界広布を現実のものとする、強い確信がもてるようになっていった。何ものをも恐れずに弘教に生き抜く同志の、不撓不屈の実践と決意を目の当たりにしてきたからである。
折伏に励むと、殴られたり、鎌を持って追いかけられたり、村八分にされたりすることもあった。それでも同志は、忍耐強く対話を重ね、地域に信頼の根を張り、喜々として広宣流布を推進していったのだ。その姿に伸一は、地涌の菩薩の出現を、深く、強く、実感してきた。そして、"世界広布の時代を開こう"との決意は、"絶対にできる"という大確信に変わっていった。
また、彼は、1954年夏、戸田の故郷・厚田村で、戸田に、こう託された。「世界は広い。そこには苦悩にあえぐ民衆がいる。いまだ戦火に怯えるこどもたちもいる。東洋に、そして、世界に、妙法の灯をともしていくんだ。この私に代わって」世界広布は、彼の生涯の使命となったのだ。