小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

三崎カーニバル

文化の開花をもって地域貢献をめざす

『新・人間革命』第15巻 開花の章 350P~ 

三崎の同志は、全友人にさんかしてもらおうと真剣だった。地域の興隆と発展のために「三崎カーニバル」を行うことを、地域の人たちに懸命に訴えて歩いた。しかし、ほとんど色好い返事はもらえなかった。

メンバーは、たとえ、いやな顔をされても、ニッコリと微笑むことを忘れなかった。そして、その後も、さわやかなあいさつを交わし続け、対話を重ねた。その誠実さが、春の太陽が雪をとかすように、誤解に基づく学会への先入観を、ゆっくりととかしていったのである。

当日は朝から、雨がふったりやんだりしていた。開会は夕刻である。伸一は、晴天を祈った。地元のメンバーも婦人部を中心に、懸命に唱題に励んでいた。仏法では、「一心法界」と説く。わが心に、宇宙のすべてが収まっているのだ。だから、自分たちの祈りの一念で雨を晴らせないわけがないというのが、皆の決意であり、確信であった。

そして、なんと午後の最終リハーサルが終わりかけたころ、雨は完全にあがった。会場の上空だけ晴れ、盛夏の到来を感じさせる強い日差しであった。

伸一は、近隣へのあいさつが終わっていることを確認し、向こう岸の方たちにもあいさつをするよう指示した。「声をかけられなかったお宅は、寂しい思いをするだろうし、また、騒いでいれば、近所迷惑だと感じるだろう。それではなんのための催しかわからない。あいさつ一つ、配慮一つで、同じ行事を行っても、結果は全く異なってくる。だから、幹部は、鈍感であってはならない。細かいところまで気を配っていくんだよ」と基本を一つ一つ教えていった。

第1回「三崎カーニバル」が開演になった。海の方向には、くっきりと富士の勇姿が浮かび上がっていた。楽しく有意義なひとときが終わると伸一は「これから大事なことは、青年が地域に対してどう貢献していくかだ。今、社会では、青年は地域から離れつつある。このままでは地域社会は、どんどんすたれていってしまう。だから、学会の青年部が先頭にたって、地域の繁栄のために、積極的に行動をおこしていかなければならない。そのために、青年部が中心となって、地域の文化や産業などを守り、発展させることを目的とした、社会的な団体を結成してはどうだろうか」青年たちは、目を輝かせながら頷いた。

「鎌倉祭り」と「三崎カーニバル」は、地位友好の突破口を開いた。9月初めには、滋賀県の琵琶湖で「びわこ祭り」が、また、10月初めには神奈川県の箱根で「箱根すすき祭り」が盛大に開催されている。また、伸一の提案を受けて、「鎌倉文化保護連盟」「三崎青年文化連盟」が結成された。

文化の開花をもって地域貢献をめざす、新たな運動が開始されたのだ。これが、全国の青年部員に大きな触発をもたらし、やがて各地に、社会貢献のための団体が誕生していくことになるのである。


三崎では、第二回の「三崎カーニバル」を開催した。この主催は、「三崎青年文化連盟」と「鎌倉文化保護連盟」等の団体であった。第二回のカーニバルを、最も積極的に応援してくれたのが、漁業協同組合の役員であった。

第二回のカーニバルは規模も内容も一段と充実し、市民行事として盛大に開催されたのである。日が暮れると海上には、サーチライトが照らされ、高さ3メートルほどの巨大なタコの飾り船が出現した。それを追いかけるように、タイや竜宮、浦島太郎など、色鮮やかな飾り船が続いた。

これは、地元の青年たちが、三崎の繁栄と大漁の願いを込めて作ったものだ。青年たちは、そのためにも、カーニバルを充実させ、地域の伝統になっていくような、特色のある企画を考えていかなくてはならないと思った。そして、青森の伝統行事である”ねぷた”に着目したのである。

青森から、”ねぷた”の職人を招き、真剣に技術を学んだ。その奮闘の成果が会場を飾ったのだ。ユーモラスな飾り船は大好評であった。地域を担い立とうとする青年の知恵と情熱が咲かせた、海の花であった。


太字は 『新・人間革命』第15巻より 抜粋

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半島には新しい文化を伝える天職がある

『新・人間革命』第15巻 開花の章 338P~ 

「鎌倉祭り」は、近隣の人びとや地域の友人を含め、数百人が参加し、盛大に行われた。
伸一も一人ひとりとあいさつを交わしていった。創価学会の最高責任者の丁重なあいさつに、近隣の人たちは驚いた。知らないことは人びとの不安をつのらせる。ゆえに、心を開き、交流をもって、真実を伝えることが大事になるのだ。

参加者に深い感銘を与えたのが、青年たちによる、「延年の舞」と「鎌倉源治節」と題する二つの創作舞踊であった。「鎌倉グルーフ゜」代表6人による日本舞踊である。前年伸一が体調を崩し、病と闘い続けていたことから、いつまでも元気で、広宣流布の指揮をとり続けてほしいとの思いを込めた舞であった。

真心あふれる演技に伸一は同行の幹部に語った。「30歳まで生きられないと言われていた私が、戦い続け、働き続けて、43歳になった。それ自体が寿量品に説かれた『更賜寿命』の姿であり、『延年』の実証ではないだろうか。」

「仏法は道理だから、健康に留意することは大事です。しかし、広宣流布のために、人びとの幸福のために働けば、歓喜が込み上げ、使命力がわき、元気になっていく。だから私の健康法は、戦うことなんです。」

「鎌倉源治節」の踊りを鑑賞しながら、伸一は、「青年は、義経のように、自分にとっての“鵯越の逆落とし”の歴史をつくってもらいたい。みんなの惰性や臆病を打ち破り、”こうやれば、わが地域の広宣流布はできるんだ”という自信と確信を与える突破口を開くんだ。それが、青年の使命だよ」と語った。

それから、鎌倉には、大聖人ゆかりの史跡も多く、数々の伝統文化があることから、若い世代がそれを守り抜いていくために、青年部が中心となって、「鎌倉文化保護連盟(仮称)」といったものをつくてはどうかと提案した。

午後六時に閉幕すると、地元の幹部に「近隣の方たちに、少しでも早く、御礼に伺ってください。やる時だけ、あいさつに行っても、終わった後は、知らん顔をしているようでは、無責任です。友好というのは持続であり、対話の積み重ねです。それがなければ、心はとけ合いません。むしろ、終了後、いろいろな意見を聞くなどして、次につなげていくことが大事なんです。私が、『くれぐれもよろしく』と言っていたとお伝えください」と言った。

翌日には、三崎で、第一回「三崎カーニバル」が予定されていた。伸一は思った。”学会の世界には、社会に誇るべき、数多くの無形の財産がある。それを社会に開き共有化していくのが、これからの時代の大事なテーマだ。その先駆を神奈川が切るのだ”

三浦市三崎は、マグロ漁船の基地として知られているが、地元の人びとの多くは、半農半漁で、沿岸漁業に従事している人が多く、神社仏閣の祭事が盛んであり、旧習の深い地域であったが、草創の同志は、勇んで折伏に歩いた。

伸一は、三浦半島の先端である三崎の広宣流布に、重要な意味を見いだしていた。初代会長牧口常三郎は、『人生地理学』のなかで、半島には、新しい文化を伝える”天職”があるというのだ。さらに、半島に住む人々の先駆性にも着目している。大陸に先んじて半島の人びとが覚醒することから、半島の国民は「文化の起発点」として称賛されてきたことを述べているのである。

山本伸一は、広宣流布の展望のうえからも、三浦半島のもつ大きな役割に着目していた。「広布新時代の起発点」というのが、伸一の三浦半島への期待であった。特に、旧習も深い三崎で、地域友好のモデルケースをつくり上げることができれば、それは、全神奈川に、さらに、東京に、そして、全国に波及していくにちがいない。三崎のメンバーも、伸一の思いを深く理解し、新たな活動に挑戦した。


太字は 『新・人間革命』第15巻より 抜粋

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