小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

一念の変革

師恩

『新・人間革命』第18巻 師恩の章 183P~

山本伸一は、「私は、多くの文化祭や社会の文化的諸行事を見てまいりましたが、美しい真心と、尊い団結が光る、この"郷土まつり"は最高の名画でした。絢爛たる舞台で、展開される、どのような一流の芸能よりも、幾千倍も勝る尊い人間文化の香りがありました。」と話した。

豪雨禍から一年二か月ここには、苦難をものともせぬ、たくましき同志の不死鳥のごとき不屈の闘魂が躍動していた。伸一は、それが何よりもうれしかった。

鳥取幹部総会に出席した伸一は、力をこめて、訴えた。地域の開発、繁栄といっても、その基礎は「一念の変革」「精神の開発」から出発する。ゆえに、題目という生命変革の根源に還れ!

鳥取の同志の奮闘ぶりを見守ってきた伸一は、鳥取創価学会は、あらゆる面で全国の模範となる潜在的な力があると感じていた。もし、それを阻んでいるものがあるとするならば、"自分たちには無理だ"という、自身がつくり上げた心の壁である。それは、自らが描き出した幻にすぎない。その一念を変えることこそが、一切の勝利の源泉といってよい。


「一念の変革」という伸一の叫びは、同志の胸深く、永遠の指針として刻まれたのである。


広宣流布の道に安逸はないーーそれが、山本伸一の信念であった。11月6日には第一回栃木県幹部総会に出席した。伸一は、尋常小学校の5,6年生の時の担任の檜山先生夫婦を幹部会に招待した。

檜山は喜び勇んで、バスで1時間半もかけ、わざわざ夫妻で駆けつけてくれたのだ。教え子を思うその真心に、伸一は、胸が熱くなった。報恩は、人間の人間たる証といえよう。

牧口常三郎は「教育の根本は児童のもっている天性を発揮させ、興味をもたせることがまず大切である」と述べている。檜山は、まさに、その達人であり、伸一も檜山によって、どれほど多くのことに興味を覚えたか計り知れなかった。

伸一は「檜山先生」だけでなく、自分が教わった教師全員に、強い感謝の念をいだき、強い恩義を感じていた。いや、教師に限らず、自分がこれまでに関わったすべての人に、同じ思いをいだいていた。

仏法の基本には「縁起」という思想がある。いかなる物事も、たった一つだけで成り立つことはなく、すべては互いに依存し合い、影響し合って成立することを、仏法では説いているのである。

人間もまた、自分一人だけで存在しているのではない。あらゆる人に助けられ、影響や恩恵を受けて、生きているのだ。その考えに立つならば、父母、兄弟、教師はもとより、あらゆる人びとに、自ずから感謝の念をいだくことになる。


日蓮大聖人は「報恩抄」で、「いかにいわうや仏教をならはん者父母・師匠・国恩をわするべしや」と仰せになっている。

伸一は思った。「正法正義のために殉教された牧口先生、そして、日本の広宣流布の基盤を築かれたわが恩師である戸田先生のご恩は、いかに深甚であることか。その稀有の師に巡り会えた福運はいかばかりか。なんと幸せなことか。」

「戸田先生は、私に久遠の使命を教え、心血を注いで仏法の指導者に育て上げてくださった。先生なくば、今の自分も、創価学会も、そして、広宣流布の現在の広がりもなかったにちがいない。ゆえに私は、広宣流布の大師匠への、報恩感謝の生涯を生きるのだ!」

師への報恩の道とは何か。仏法を学び究め、幸福と平和の道を開く智者、すなわち広宣流布の闘将に育つことなのである。弟子は師匠以上に成長し、法のため、社会のために尽し抜くのだ。その功徳は、師に回向され、最高の追善となっていくのである。

師弟不二の道こそ、創価学会の魂であり、広宣流布の生命線なのだ。

<師恩の章 終了>

太字は 『新・人間革命』第18巻より 抜粋

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転重軽受の戦い

『新・人間革命』第13巻 楽土の章 P347~

伸一は、自分も夜学に通い、また、30歳まで生きられないといわれていた病弱な体で、貧しかったが、知恵を絞り、時間を捻出して、徹底して学んできた経験を通し、話した。

「鍛えのない青年は、軟弱になり、人生を滅ぼしかねない。ゆえに二部の学生は、最高の修行の場を得ているということなんです。頑張りなさい。」と激励した。

高等部には、人材の要件とは、広宣流布の使命を自覚することであり、人材とは、人格の人であるから、人への思いやり、包容力、自分を律する精神の力、正義への信念と意思等々人格の輝きこそ、人間として最も大事なので、自己の精神を磨き上げ、何か一つでよいから、これだけは誰にも負けない力をつけることが必要だと指導した。

高見は、伸一の行動にまばゆいばかりの真心と大誠実を感じていた。高見は決意した。"今回、山本先生が示してくださった、この真心をもって、沖縄中の人びとを包もう。"

伸一一行が、本島の北に向かっていくと百人ほどの学会員が待ち受けていた。高齢の方も多く、元気な姿そのものが信心の証明になると話し、集った人たちとお弁当を分け合い食べることにした。

そこに、岸山富士子があいさつにきた。彼女は、息子が悪性リンパ腫と診断され、2、3か月の命と診断された時、藁にもすがる思いで、信心を始めたのだ。祈りが通じたのか、長男は退院し、学校にも歩いていけるようになったが、4月半ば、眠るように息を引き取った。安らかな臨終の相であった。

彼女は、"息子が私たちに仏法を教えるためにあえて、難病にかかって生まれてきてくれた。仮死状態で生まれてきた子だった。御本尊様は、治らない病気を治してくれ、生かしてくれという無理難題を聞き入れ、半年も寿命を延ばしてくださった。"彼女は息子は他界したが、寿命を延ばすことができた喜びを、語り、勇んで弘教に歩いた。

年の瀬も押し迫った夜、岸山は、会合のあと、学会員の家に寄って話し込んでいると、家が火事だと連絡が入る。家は全焼し、次男と三男は、無事だったが二人の娘は遺体で発見された。あまりにも過酷な出来事であった。宿命の嵐は、容赦なく岸山一家に襲いかかったのだ。

富士子は号泣したが、"この事故は魔なのだ"と感じ、御本尊への不信をいだくことはなかった。しかし、自分を責め苛み続けていた。留守中に出荷して、大事な二人の娘を亡くしてしまったことが、悔やんでも、悔やんでも、悔やみきれなかった。

"なぜ、すぐにランプを新しくしなかったのだろう。きっと心のどこかに、信心しているから大丈夫だという思いがあったのだ。それが油断であり、魔であったのだ"また、地区担当員でありながら、地域の人たちにも、学会にも迷惑をかけてしまったことが、たまらなく辛かった。

火事依頼、地域の学会に対する風当たりは強くなっていた。学会員が折伏に訪れると、「あの岸山のところを見てみろ!家を焼き、子どもも亡くしたじゃないか。」組織のなかに動揺が広がっていった。

岸山は唱題したかったが、御本尊も火事で焼失してしまったのである。山本伸一は、報告を聞くと涙をにじませ、胸を痛めた。

「私たち凡夫は、自分が、どんな宿業をもっているかわかりません。大聖人は、本来なら、その罪の報いを未来永遠にわたって一つずつ受けるべきところを、法華経の敵を強く責めたので、大難となって一時に集まり起こったのだと言われている。それは、今世で成仏するためです。」

「しかも、その難は、仏法の功徳の力によって、過去の重罪の報いを現世で軽く受けているのだと、断言なされている。これを転重軽受ということです。つまり、信心をして苦しみを受けるということは、一生成仏への道を進んでいる証拠です。それは、絶対に間違いない。」


太字は 『新・人間革命』第13巻より 抜粋

環境を変えるのは 一念の変革から

『新・人間革命』第13巻 楽土の章 P334~

沖縄では、兵士による住民への暴行事件なども頻発していた。戦地に送られる恐怖から、兵士たちの心は荒んでいたのである。米軍基地に苦しむ沖縄の住民の怒りは、ますます激しさを増した。そして、反戦反基地の運動が盛り上がるにつれて、住民の米軍兵士への憎悪はつのり、両者の関係は悪化していった。

学会員も、基地の撤去を強く念願していたが、米軍の兵士だからといって、憎悪するようなことはなかった。メンバーの兵士と接触していた学会員の住民たちの目には、抽象化された"米軍"ではなく、「個」としての人間の実像が写っていたのだ。

まさに、住民と米軍という対立を超えて、学会員は互いに友情の絆に結ばれていたのだ。分断は、不信と反目を深めていく。なんでもないことのようだが、こうした人間と人間の交流こそが、平和建設の重要な基盤にほかならない。

マーシー地区は、世界広布の人材を育む、「信心のトレーニンググラウンド(訓練場)」としての役割を担っていったのであった。

伸一が沖縄本部にいることを知った会員が、続々と集まってきた。集まった会員と一緒に勤行をし、「時代は、沖縄の本土復帰に向かって動き出しています。ただ、大事なことは、社会を、環境を変えていくのは、最終的には、そこに住む人の一念であるということです。皆さん方が"私がいる限り、この沖縄を平和の楽土にして見せる"との強い決意で信心に励み、社会の建設に立ち上がっていくならば、必ずや、沖縄を変えていくことができます。」と激励した。

「依正は不二です。自分自身の生命の変革からすべては変わっていくんです。運命を呪い、歴史を呪い、他人を恨んでも、何も問題は解決しません。未来に向かい、何があっても挫けずに、生命力をたぎらせ、知恵を湧現しながら、前へ、前へ、前へと力強く進んでいくんです。」

「皆さんの存在こそが、沖縄の柱です。建設の原動力です。」短時間ではあったが、全生命を傾けての指導であった。


午後、沖縄発の芸術祭が行われた。第二部は、演劇「青年尚巴志」であった。これは、15世紀に琉球を統一した名将・尚巴志の史実をもとに創作した劇で、総勢100名の出演者による1時間半にわたる舞台となった。

シナリオを担当したのは、音楽家で音楽雑誌の編集にも携わってきた、山木厚雄であった。彼は、尚巴志が、父の志を受け継ぎ、民の苦しみを救うために立ち上がる姿と、戦時中から今まで、沖縄の民衆がなめてきた辛酸の歴史が、酷似していると思った。

"師に広宣流布を誓う、弟子の姿に通じるかもしれない。生命の尊厳の哲理をもって世界を結び、人類の恒久平和を実現していく使命がある。その使命に生き抜く師への誓いを、この演劇で示そう"また、皆が力を合わせて、首里城を建設するシーンでは、団結をもって沖縄の新時代を開かんとする、同志の決意を表現しようと思った。「青年尚巴志」は大成功であった。

伸一は、「本土に復帰したあともさまざまな苦労があるでしょう。問題は一朝一夕には解決しないかもしれない。しかし、わが同志がいる限り、みんなの、この心意気がある限り、心配はありません。すべては、人間の一年の姿勢です。意欲です。活力です。」伸一は、片時の休みもなく、同志の激励に奔走したのである。

芸術祭のあと、琉球大学、沖縄大学、国際大学の大学会の結成式に出席し、「戦争の悲惨さを最も知り、過酷な運命と戦い、苦しみ抜いてきた沖縄の出身者が、21世紀のリーダーになっていかなければならない」と期待を寄せた。

2部学生の質問に「全部やると決めて、挑戦していくことです。人生はある意味で死闘といえる。」悩み抜いていくところに成長があり、人間形成があり、それこそが、生涯の財産になると激励した。


太字は 『新・人間革命』第13巻より 抜粋

一念の変革

『新・人間革命』第3巻 仏法西環の章 P14~


組織の発展のためには、常にマンネリの古い殻を打ち破る斬新な発想と、
みずみずしいエネルギーが必要だ。
そして、それには 若い力に期待する以外にない。


山本伸一は、生命を削る思いで 青年の育成にあたっていた。


ある女子部リーダーが いた。
右足を膝から切断していて、歩くのに時間がかかり、
メンバーの家庭訪問も 1、2件が精いっぱい。


折伏の応援に 友人のところへ 行っても、不自由な足に 
無遠慮な 冷たい視線を浴びせられることが、少なくなかった。
彼女は いつも、そのまなざしに、蔑みの色を感じとった。


自分が中心者でいることによって、学会に対する周囲の評価を、
低いものにしているように思えてならなかったのである。

 
その悩みを 山本伸一に話した。


伸一は、彼女が 幹部リーダーとして活動することが、いかに、
大変かを、十分承知していた。彼女を称え、庇い、休ませたやりたかった。


しかし、あえて厳しい口調で話す。
「・・・女子部の幹部として、あまりにも 情けない。私はそんな弱虫は嫌いだ!」
意外なほど厳しい 指導に 茫然とする 女子部。


伸一は、彼女の気持ちが痛いほどよくわかった。しかし、単なる感傷や同情は、
彼女にとって、なんのプラスにもならないことを、彼は知り抜いていた。


彼女に必要なものは、人間としての強さである。


伸一は彼女ならばあの指導の意味を理解し、必ず、
新しい挑戦を開始するだろうと信じていた。
彼の厳しさは、信頼に裏打ちされていたのである。


泣きながら唱題する彼女に 幹部が伸一の言葉を伝える。
「先生は、あなたのことを、“弱虫ではない。きっと頑張るはずだ”と期待されています。
あなたの奮起を促そうとして、先生は あえて、あのように指導をされたんです」と


この時から、一念が変わり たちあがる女子部だった。


人間は 自らの一念が後退する時、立ちはだかる障害のみが大きく見えるものである。
そして、それが動かざる“現実”であると思い込んでしまう。


実は、そこにこそ、敗北があるのだ。いわば、
広宣流布の勝敗の鍵は、己心に巣くう臆病との戦いにあるといってよい。

伸一は今、一人ひとりの一念の変革を成そうとしていた。
人間革命といっても、そこに始まるからである。


太字は 『新・人間革命』第3巻より抜粋

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