『新・人間革命』第20巻 信義の絆の章 355P~

学会として「教育・家庭の年」と定めた1975年(昭和50年)の幕が開いた。1月6日には、早くも山本伸一はアメリカに飛んだのである。対立が続く中国とソ連を訪問し、さらに、訪米する山本伸一に、アメリカ社会は驚嘆と戸惑いを見せていたようだ。

有力紙「タイム」は、揶揄するような、「驚異の伝道者」との見出しを立て、伸一と創価学会についてのリポートを掲載した。伸一が、ソ連のコスイギン首相、中国の周恩来総理と相次ぎ会見し、今回の訪米では、ワルトハイム国連事務総長と会見する予定であることも報じていた。

さらに、世界食糧銀行創設や核兵器の廃絶など、これまでの伸一の提言にも触れ、彼は「民衆と民衆を結ぶ国際的な反戦運動を起こすことに、最も強い情熱を傾けている」としていた。ところがリポートは、それらの伸一の行動や提案は、学会が権力を手に入れるための手段であるかのように報じていたのである。彼の平和への信念を理解できなかったのであろう。

伸一は、ロサンゼルスに到着。ニューヨーク入りした彼は、翌9日エール大学客員教授で評論家の加藤周一と会談した。その後、コロンビア大学を公式訪問。伸一は、教育国連、世界大学総長会議、世界学生会議などの構想を語り、活発に意見交換し合った。

大業とは、目立たぬ、忍耐強い作業の繰り返しによって、成就されるものなのだ。翌10日には、国連本部を訪問し、ワルトハイム国連事務総長と会談した。伸一が国連を訪れたのは 3度目であった。全人類の未来に責任をもとうとする事務総長は、伸一の思想と提案に着目し、高く評価してくれていたのである。世界は、仏法の智慧を求めているのだ。

伸一は、まず、核廃絶の問題を提起した。次に中東の和平をいかに実現するのかーーそれは山本伸一の悲願であった。伸一は、トルコ系住民とギリシャ系住民の紛争が続くキプロス島の問題や、飢餓に苦しむ国々の食糧問題、また、戦火が絶えないインドシナ情勢について見解を尋ねていった。そして、国連の役割に関しても、率直に質問をぶつけた。

「『国連を守る世界市民の会』をつくる時がきているのではないかと考えています」国連を中心として団結し、地球の恒久平和をめざすことだ。それが伸一の信念であり、決意であった。

「事務総長は、世界平和を妨げている元凶は、なんであるとお思いでしょうか」即座に答えが返ってきた。「それは不信です」

「全く同感です」「その『不信感』を『信頼』に変えていく道が、私は『対話』であり、さらに『文化の交流』『人間の交流』であると確信しています。」

伸一は、製本された三冊の署名簿をワルトハイムに差し出した。「これは『戦争絶滅、核廃絶を訴える署名』です。創価学会の青年部が戦争の絶滅と核廃絶の署名運動を展開し、日本全国で1千万人を超す人びとの署名を集めました」

事務総長は、署名簿を受け取ると、ページを開いた。それから、署名簿を捧げ持つようにして、伸一に語った。「非常に価値あるものです。その行為に敬意を表します。感銘を受けました・・・」

この署名運動は、伸一が1972年11月に人類の生存の権利を守る運動を青年部に期待したことに端を発し、これを受けて、男子部が「生存の権利を守る青年部アピール」を採択。そのための運動の一つとして「核兵器、戦争廃絶のための署名運動」が発表されたのである。

74年1月、青年部では年内を目標に、署名1千万をめざすことを決議し、総力をあげて、署名運動に取り組んだ。青年たちの奮闘が実り、9月には、遂に署名は1千万を突破し、千百万となった。1万人分で約6センチの高さである。全員の署名簿を積み上げれば、66メートルの高さということになる。

1千万の署名を、どのようにして国連に届けるかの議論を重ねていた時、山本先生が事務総長に会う時、持っていくとの伝言があったのだ。弟子の苦労に最大限報いようというのが、伸一の心であった。


太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋