小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

リマ

リマの幸せ写真店

『新・人間革命』第11巻 開墾の章 P121~

そのころ、大会の行われるメトロポリタン劇場では、ペルー各地から集って来た1700人ほどのメンバーが開会を待っていた。実に見事な結集といってよい。参加者は山本会長と会うことを楽しみに、喜々として集まって来たのである。皆の視線は、壇上に注がれ、伸一を探した。

開会が宣言され、理事長の泉田が、山本会長のペルー到着と、この大会に来られないことを告げると落胆のため息が広がった。皆の顔は、見る見る曇っていった。

泉田は、山本会長のメッセージを読み上げた。「私と皆様方は、同志であります。同志とは同じ自覚、同じ決意で結ばれた人です。皆様方は、私と同じ自覚で、一人ひとりが獅子となって、友の幸福のために社会のために立ち上がってください。また、私に代わって、悩める人を、優しく、力強く、励ましていただきたいのです。今日の大会は、皆様が獅子として立つ集いです。」

「ペルー国家を声高らかに歌いながら、社会貢献の市民として前進していかれんことを、念願してやみません。」

メッセージを読み上げると泉田は、ペルーを総支部とする決定を告げ、その人事を紹介していった。
幹部たちは、なんとしても、メンバーを元気づけようと、懸命であった。


希望も歓喜もない、つまらない会合になってしまえば、大勢の求道者の大切な人生の時間を奪うようなものだ。絶対にそんな結果に終わらせてはならない”その真剣さが、その必死さが、次第にメンバーの心を揺り動かしていった。いつしか、参加者の落胆は決意に変わっていった。

伸一は、ホテルで、幹部の代表二十数人と会い、激励する。

カヤオ支部長婦人部長の任命を受けたキシベ夫妻。沖縄出身のキシベは、農牧の視察のため、アルゼンチンに渡ったのが、きっかけでペルーのリマで暮らすようになった。その後日系二世のロサリアと結婚。事業で大成功を収めるが、安易にサインしたせいで、莫大な借金を抱えることに。

長女の関節炎、長男の喘息、三男のてんかんと、子どもたちは病気をかかえていて、毎日の食費にもこと欠き、薬も買えなかった。絶望感から、2度自殺を図る。崖から飛び降りたり、猛スピードで走るバスから飛び降りたが、死ねなかった。

そのころ、友人に誘われ、仏法の話を聞き、その場でサインし、入会を決めた。その話を聞いた妻は、激怒。莫大な借金を抱えることになったのも、夫が安易に書類にサインしたせいで、それに懲りず、また、“得体の知れない宗教”の入会の書類にサインした夫が腹立たしかった。

祈ることで問題が解決できるなどと教える宗教は、まやかしに決まっていると思い込んでいたのだ。キシベは、学会活動に取り組むうち生命が躍動し、自分の考え方が変わっているのに気づく。何ごとにも意欲的に取り組めるようになったキシベは写真店「SIAWASE」(幸せ)を開く。信心で幸せになって見せるとの決意を込めた命名であった。

ロサリアは、信心に対し、冷ややかに見ていたが、会合に誘われ、話を聞き、“もしかしたら、この信仰で、一家の宿命を変えられるかもしれない。ほかに打開の道がないのだからやってみてもよいのではないか”と、信心を始めたのである。

夫妻で、勤行・唱題に励みだすと、子どもたちも病と戦いながら一緒にするようになる。しばらくすると、写真店の周辺に道路が整備され、店は大繁盛するようになり、多額の借金も短期間で返済できた。いつしか、子どもたちの病気も治っていた。

キシベは、感謝の思いを込めて、法のため、広布のために、身を粉にして働いた。その一念が、キシベの人柄となって表れ、彼は、皆から「ペルー人以上にペルー人の心がわかる」と言われるようになり、次第に日系人以外の入会者が増えていった。



太字は 『新・人間革命』第11巻より 抜粋

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ペルー創価学会の誕生

『新・人間革命』第11巻 開墾の章 P110~

<開墾の章 開始>

1966年(昭和41年)、ブラジルを発った山本伸一一行は、空路次の訪問地である、ベルーの首都リマをめざした。ペルーでも、政府が学会に警戒の目を向けていることから、派手な出迎えは避け、知名ら、数人の幹部らが出迎えた。

ペルー支部長の知名正義は、沖縄出身。両親がペルーに移住し、彼は沖縄に残った祖母の手で育てられた。彼は、海軍に志願して入り、国内各地を転々としていたが、ペルーが日本に宣戦布告し、両親とは連絡が取れなくなっていた。両親は 沖縄が玉砕したと聞き、息子も死んだものと思い込んでいた。

知名は、戦後建築会社を起こし軌道に乗っていたが、ペルーの両親のことが気がかりだった。宿命転換できる信心の話を聞いた時、両親が自分を探していると知る。入会を考えていた時、両親の消息がわかり、彼は不思議を感じ、創価学会に入会した。

信心に励むうち、両親にも仏法を教えたいと、ペルーに渡ることを決意。ところが、両親に会い、信心の話をすると、顔色が変わり、両親は他教団の熱心な信者であり、息子は死んだはずだと言って、知名を自分の経営するレストランの従業員扱いするほどだった。

しかし、彼は、懸命に働き傾きかけたレストランを立ち直らせ、両親も彼を高く評価するようになり、やがて、両親がともに入会した。生活のなかで示した実証ほど、雄弁に仏法の真実を語るものはない。

知名は、布教にも真剣に取り組んでいった。帰りのバスがなくなると車を止めて乗せてもらった。未明にタクシーに乗っていた、軍隊の検問に遭い、銃を突き付けられたこともあった。しかしこうした環境のなかでも、着実にペルー広布は進んでいった。

沖縄出身の城山京子が、御本尊を護持して、ペルーに帰ってくると、スペイン語も堪能な彼女と知名の二人を軸に、ペルーの広宣流布が回転していったのである。ペルー支部が結成され、知名が支部長、城山が婦人部長に就任。2地区、125世帯からの出発であった。

組織の誕生は、皆の決意を新たにした。弘教はさらに、進み、アンデスの山間の村々にも、次々と同志が誕生していった。そして、山本伸一が訪問した66年には、メンバーは千世帯を超えるに至った。同時に、政府も、学会に警戒の目を向けるようになっていたのである。

伸一は、ペルー入りしていた日本の幹部たちから詳細な報告を聞いた。ブラジルと同じように、政府関係者もマスコミも、山本会長の訪問は、政党づくりの準備が目的だと懸念しているという。また、今回の訪問で、なんらかの扇動的な面がみられるなら、今後ペルーの創価学会については、警戒心を強めなければならないと話していたという。

伸一は、大会でメンバーと会い、激励したかったが、ここに出席すれば、当局は、それを『扇動』ととらえ、『挑発』と見るに違いなく、メンバーに対して、さまざまな閉めつけが始まることが予測されることから、長い目で見て、大会に出席しないことを決めた。

同志を守るため、皆が安心して信心に励める状況をどうつくるかを考えた。そして、ペルーの未来のために、会っておくべき人物を紹介してもらい、会ったり、マスコミ関係者にも手分けして会い、あらゆる人に、学会を正しく認識させることが大事だと語った。

伸一は、知名から、この大会には、アンデスの山間の村から駆けつけてくる人や、バスで何日もかかってくる人たちもいると聞いていた。その健気な一人ひとりの同志に、希望を、勇気を、歓喜をもたらす集いにしてほしいと、懸命に祈った。真剣勝負の唱題であった。


太字は 『新・人間革命』第11巻より 抜粋

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