『新・人間革命』第4巻 大光の章 P320~


翌日、西ドイツ(当時)のデュッセルドルフへ向かった山本伸一。
空港には数人の人が出迎えてくれた。

戸田城聖の友人であった弁護士の娘夫婦、また、入会して3か月の日系婦人とその夫、出張でやってきた壮年であった。

伸一は、特にドイツの一粒種となるこの婦人には、記念の袱紗を贈り、話に耳を傾け、一期一会の思いで全魂を注いで励ましていった。

周囲に、学会員は誰もいないし、寂しく、心細い状況を知ったうえで、
「ひとたび、信心をしたならば、広宣流布をしていくことが、自分の使命なのだと決めて、ともかく、一人でも、二人でも、着実に同志を増やしていくことです・・・」

伸一は、真心を込めて、指導を続けた。たとえ、入会して日は浅くとも、この一人が立ち上がれば、そこから未来は開けるからだ。

もちろん、全力で激励したからといって必ず、その人が立ち上がるとは限らない。むしろ、期待通りに発心し、育ってくれることは希といえよう。

しかし、それでもなお、「皆、地涌の菩薩」「皆、人材」と確信して、命を削る思いで励ましていくことが、幹部の責任である。その積み重ねのなかから、まことの人材が育っていくのである。

市内を巡った伸一は、マルクト広場のウィルヘルムの銅像の 逸話を聞く。

この、銅像を制作したのは、当時の有名な彫刻家グルペッロであった。

銅像が、鋳造される時、銅が少し足りなくなった。それを聞いた町の人びとが家から銅器などを持ってきて差し出した。皆、優れた政治を行った領主ウィルヘルムを誇りに思い、慕っていたからだ。

銅像が出来上がると、人びとは称賛して大喜びした。しかし、この銅像の制作を依頼されず、グルペッロを嫉妬していた者たちが、銅像に、難癖をつける。人々は、その非難が妥当なものかどうかは、よくわからなかったが、あまりに、非難が激しいので、銅像を褒めることをやめてしまった。

グルペッロは 銅像の回りに板塀を巡らし、その中で、作業を始めた。なかから、槌を打つ音や何かを削るような音が聞こえた。三週間過ぎたころ板塀が取り除かれた。

すると、盛んに悪口を言っていた者も、難癖はつけなくなった。人びとは再び絶賛し、彼らも、皆と一緒になって、褒め始めた。

ウィルヘルムは『どこを直したのか』とグルペッロに尋ねた。
『銅像は直すことはできません。もとのままです。これで、悪口を言った者たちの考えは、おわかりいただけると思います』と答えた。


伸一はその逸話を聞いて言った。
「周囲の評価には、しばしば、そうしたことがあります。」

「創価学会もこれまで、根拠のない、理不尽な非難や中傷に、幾度となくさらされてきました。結局、それらは、学会の前進を恐れ、嫉妬する人たちが、故意に流したものでした。」

「しかし、それを一部のマスコミが書き立てると、自分で真実を確かめようとはせずに、皆、同じことを言うようになる。また、学会に接して、すばらしいと思っていた人も、自分の評価を口にしなくなってしまう場合がある。風向き一つで変わってしまう。そんな煙のような批判に一喜一憂していたら、本当の仕事はできません。」

「私は、学会の真価は、百年後、二百年後にわかると思っています。すべては、後世の歴史が証明するでしょう。」


ライン川の河畔にたたずむ一行は『ローレライ』の歌を思い出す。
伸一は、『ローレライ』の歌は、ヒットラーの時代には、“詠み人知らず”にされていたと話す。

それは、ハイネがユダヤ人だったから。ナチスは、過去の文学や芸術に至るまで、ユダヤ人の影響が認められるものは、徹底的に排除した。『ローレライ』の歌は、有名すぎて、作品まで抹殺できないので、作者のハイネの名前を消して、永遠にその功績を葬ろうとしたという。

『ローレライ』の歌の作者の名を消したのは、ナチスのユダヤ人迫害の、ほんの一端にすぎない。
ヒトラーの戦争は一面、『ユダヤ人への戦争』だった。
と思いがけず、ナチスのユダヤ人迫害の話になった。


太字は 『新・人間革命』第4巻より抜粋