『新・人間革命』第9巻 鳳雛の章 P163~

全国高等部員会で、伸一は、「正義」「親切」「勇気」など、すべては「信心」の二字のなかに収まり、信心強盛な人こそ、最高に立派な人であると訴えた。

指導後、ともに勤行・唱題を終えると場内から 歌の指揮をとってくださいとの注文が。伸一はそれに応え、「武田節」を3回、「日本男子の歌」をと休む間もなく、指揮をとった。幹部たちは、際限のない高等部員の要望に、ハラハラし始めた。しかし、当の伸一が、その要望に応え、「なんでもやります!」と言っている限り、制するわけにもいかなかった。

彼に、息の乱れはなかった。堂々とした、鳳を思わせる指揮であった。自分たちの要望をどこまでも聞生き入れ、何局も何曲も、指揮をとってくれる伸一の姿に、メンバーは、目を潤ませながら熱唱した。

“先生は、お疲れであるはずだ。しかし、ここまでやってくださる・・・”この部員会は、参加者にとって、生涯、忘れえぬ思い出となった。

さらに、首都圏の高等部員会に出席した伸一は、自身の胸に込み上げる思いを、率直に語っていった。
「私は、皆さんが出現するのを待っていました。師匠と弟子というのは、『針』と『糸』の関係にあたります。師匠が『針』、弟子は『糸』です。針は、着物を縫う時、先頭を切っていきますが、最後は不要になり、後に残った糸に価値がある。私は針です。最後に広宣流布の舞台に立つのは皆さんです。
諸君のために、完璧な布石をしていくことが、私の本門のなかの本門の活動であると決意しております。」

ここで山本伸一は、民族の解放のために戦い政府軍に捕らえられて銃殺された、20歳のベトナムの青年と、1920年に16歳で獄死した「韓国のジャンヌ・ダルク」といわれる、女子学生・柳寛順(ユクワンスン)について語っていった。彼女は、日本の過酷な植民地支配に抗し、韓国の独立のために立ち上がった乙女である。

伸一が二人の青年の話をしたのは、命を賭して祖国を守ろうとした、ほぼ同世代の若者の心を知ってほしかったからである。また、世界には、戦火に苦しみ、自由を奪われ、貧困に喘ぐ、たくさんの民衆がいる。その苦悩に目を向け、同苦する人に育ってほしかったからでもある。

特に柳寛順について語ったのは、日韓の友好のためには、日本人が日韓の歴史を、正しく認識する必要があると考えていたからであった。

伸一は、両国民が、末長く、信頼と友情で結ばれていくには、若い世代に、真実の歴史を伝えていかなければならないと、痛感していた。

日本の若者たちは、韓国のことも、かつて、日本が韓国で何をしたかも、あまりにも知らなすぎた。教育の場でも、ほとんど教えられることがなかったからであろう。だから、伸一は、高校生たちが隣国・韓国を知る“深き触発”になればと、あえて柳寛順について語ったのである。

彼はこの話のあと、こう訴えた「私は、皆さん方には、そんな苦しい戦いは絶対にさせません。体を張って守り、苦労は全部、私が引き受けていくつもりでおります。ただし、広宣流布の決意という面では、殉難の覚悟が必要です。遊び半分では、尊き世界の平和を築くことも、不滅の民衆の時代を開くこともできない。広宣流布の活動というのは、権力の魔性との厳しき戦いであり、人生をかけた、断じて負けられぬ、真剣勝負の戦いであることを、申し上げておきたい」

1月8日山本伸一の、男女高等部員の代表に対する御書講義が始まった。高等部員の大多数は、いわゆる「学会二世」で、親が先に入会し、いつの間にか、自分も信心をするようになっていたというメンバーであった。したがって、信心で生活苦や病苦を乗り越えたといった自分自身の体験を持っている人は少なかった。

そうした世代が、仏法への確信を深めていくには、教学を身につけることだ。教学という理は、信を生み、高められた信は、さらに仏法への理解を深めていくからである。

太字は 『新・人間革命』第9巻より 抜粋