小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

マルクス主義

人間性社会主義の提唱

『新・人間革命』第9巻 光彩の章 P280~

善も、悪も備え、無限の可能性を秘め、瞬間瞬間、躍動してやまぬ生命的存在が人間である。ところが、マルクスは、この限りなく深い、人間の内面を徹底して見すえず、その全体像を把握することはなかった。

人間とは何かを、正しく認識せずしては、人間の幸福を実現することは不可能である。

ロシア革命は、レーニンなどに代表されるように、知識人によって、意図的に計画され、遂行された、世界最初の革命であった。
レーニンの「大衆ー前衛」論は、彼が大衆を思い、愛するがゆえの、指導的役割の担い手として前衛党を誕生させた。

しかし、この考え方のなかに、既に「指導する前衛党」と「遅れた民衆」とが分断されていく萌芽が潜んでいたといってよい。前衛党のリーダーたちには、民衆以上に民衆の欲求を知っているという自負があった。その独善が、民衆蔑視の特権意識となり、遂には「赤い貴族」といわれる、官僚たちを生み出すに至ることになる。

人間は放っておけば、悪い方向に向かうという、いわば“性悪説”ともいうべき発想ゆえに、徹底した管理下、監視下に民衆を置く、巨大な官僚支配のシステムがつくられ、さらに“密告”など、民衆間の相互監視、相互不信のシステムがつくり上げられていったのである。

こんな話がある。少年が、自分の両親を密告し、両親は殺害された。ところが、この“親を売った”少年は、英雄、愛国者として称賛され、銅像まで立てられたのである。「イデオロギー」と「人間性」の倒錯である。

では、社会主義そのものが、根本的に否定されるべきものかというと、決してそうではあるまい。ある時代、ある段階では、社会全体の発展のために、計画経済を必要とし、それが大きな効果をあげることもある。また、自由主義、市場経済をとっている国であっても、社会主義の道徳的な特質である、「平等」や「公正」の理念を忘れれば、弱肉強食に堕してしまうであろう。

問われるべきは、それが、歴史を動かすすべてであるとの錯覚ーーつまり、「人間」という視点の欠落である。要するに、国家体制の選択よりも、「人間不在の政治」から「人間尊重の政治」への転換こそが、不可欠といってよいだろう。

伸一は、その新しい社会主義の指導として、「人間性社会主義」を提唱していたが、その確信をますます強くしたのである。伸一は、社会主義国の指導者たちと、会って語り合いたいと思っていた。いや、そうしていかねばならないと思った。


10月12日スイスのチューリヒに到着した山本伸一一行。自由主義の国に来るとホッとするというメンバーに伸一は答えた。

『大衆即大知識』という吉川栄治の言葉があるが、民衆に学ぼうという真摯な姿勢をもった政治家が、何人いるだろうか。また、民衆自身、主権者の自覚をもって社会をどうするか、政治をどうするかと、真剣に考えているとは言いがたい」

「私たちが今なそうとしていることは、人間革命を基軸とした相対革命だ。わが内なる悪と戦い、すべての根源である人間の内面を、生命を変革していく人間革命だ。」

「その方法は、急進的な暴力革命ではない。偉大なことは、一朝一夕にできるものではないからね。では、その武器は何か。一人ひとりとの対話だ。言論の力による革命だよ。そして、より根本的には、人格による触発作業といえる。したがって、自己の人格を磨くということが、私たちの運動の不可欠な要件となっていく。」

「根本的な人間不信が、次々と人間を分断していくことになる。私は、この分断こそが、最大の悪の要因であると断定したい。」

「今、私たちは、人類の歴史上、類を見なかった、全く新しい、未聞の革命を起こそうとしている。しかも一人の犠牲者もなく。これは、壮大な実験だ。しかも、失敗が許されない実験といってよい。」


太字は 『新・人間革命』第9巻より 抜粋

マルクス主義と 現実の相違

『新・人間革命』第9巻 光彩の章 P260~

長谷部は、日々、懸命に唱題に励んだ。“当たって砕けろ!”と 版画を持って有名な画廊を尋ねてみた。
予期せず、「面白いじゃないか」と画廊が、作品を買い取ってくれた。長谷部にとって、これが大きな自信となり、信心への確信につながっていったのである。

長谷部に信心を勧めた春野は、間もなく40歳になろうとしていた時、フランスに渡った。人生の背水の陣であった。山本伸一は二人の話を聞くと、力強い口調で言った。「仏法のうえから見るならば、深い使命があって、パリに来たのだから、精進を重ねていくならば、大成することは間違いありません。」

「これからは、真実の仏法を根底にした、新しい文化、芸術が花開いていかなければならない。その先駆者が、また、それを証明していくのが、あなたたちです。」と期待した。

メンバーのなかには、フランス人の青年もいた。伸一は、二人のフランス人に、大きな期待を託した。

10月10日、山本伸一は、東欧のチェコスロバキアのプラハに向かった。実際に、共産圏の国に足を踏み入れるのは、これが初めてであった。飛行機が説明もなく出発が遅れていた。やがてチェコスロバキアの政府高官が傲然たる態度で、席に着くと、飛行機は出発した。

伸一は、彼らの態度から、社会主義国では階級的差別はないという説明と現実とは、相当な違いがあることを直感した。チェコスロバキアでは、戦後に共産党の一党独裁の体制がつくられてから、16年が過ぎていた。

空港からホテルに向かう車中、ドライバーに話しかけると、家族のことは屈託なく話してくれたが、国のことを尋ねると口を閉ざし、警戒しているようだった。何か、目に見えぬ力に抑えられ、怯えているかのようでもあった。

翌朝、ハンガリーのブタペストに到着した。市内を視察すると、ハンガリー事件の時に、民衆が銅像を倒して、市中を引き回したという、スターリンの銅像の台座だけがポツンと置かれていた。壁にも弾痕が残る建物があった。

「ハンガリー事件」は、1956年2月、ソ連共産党のフルシチョフ第一書記らが、3年前に死去した「スターリン批判」をし、共産圏の東欧諸国にも動揺をもたらし、自由を求める機運が高まっていった。10月23日、ハンガリーの人びとが動いた。

政権を独占してきたハンガリー労働党は、市民の要求を聞き入れたが、その一方で、戒厳令を敷き、駐留ソ連軍の出動を要請し、ソ連軍の戦車や兵士がブタペスト市内に侵入した。これにより、市民の怒りは頂点に達し、ブタペストの内乱は、ハンガリー全土に広がった。

この事件により、数千人が死亡し、約20万人が亡命したといわれる。

伸一は、社会主義について、考えざるをえなかった。プラハでも、物乞いをする子どもたちも見ることはなかった。しかし、人びとの表情は暗く、寡黙であり、何かに怯えるかのような印象があったことは否めない。

それにしても、社会主義国にあって、なぜ、スターリンのような、血の粛清を重ね、無数の人びとの生命を奪った独裁者が作られたのか。また、なにゆえ、強権主義、官僚支配が生まれ、かくも民衆の自由が奪われてしまうのだろか。

共産主義を生み出すに至ったマルクスの理論構築の動機には、ヒューマニズムがあったことは事実だ。彼は、人間を「階級」という枠でとらえ、社会の矛盾や悪の根源を、「階級」の対立に見いだした。そして、この対立をなくすことによって、矛盾や悪の根を断つことができると考えた。

しかし、その人間の洞察は、あまりにも表層的であった。人間の欲望やエゴイズムは、理性や自覚化された意識の力で、すべてコントロールできるほど、単純なものではない。

善も、悪も備え、無限の可能性を秘め、瞬間瞬間、躍動してやまぬ生命的存在が人間である。ところが、マルクスは、この限りなく深い、人間の内面を徹底して見すえず、その全体像を把握することはなかった。


太字は 『新・人間革命』第9巻より 抜粋
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