『新・人間革命』第11巻 暁光の章 P93~
77年(昭和52年)の8月には、ブラジル文化会館が、サンパウロに完成し、メンバーも飛躍的に拡大していった。そして苦労に苦労を重ね、友の幸福の園が広がれば広がるほど、“山本先生をブラジルにおよびしたい”という皆の思いは、日ごとに強まっていった。
ブラジルでは、週に4回、婦人部の有志が文化会館に集まり、伸一の訪問を記念して、唱題会を開くようになった。また、メンバーは、学会の真実を万人に伝え抜いていくのだと、動きの動き、語りに語り、学会理解の輪を大きく広げていった。
やがて、それは大統領にまで至るのである。1982年5月 ジョアン・フィゲイレド大統領から伸一のブラジル訪問を歓迎する親書が届いた。皆が決意し、祈った通り、道は開かれていったのである。
83年7月、青年部を中心に、ブラジルの代表38人が、研修会に参加するために来日した。伸一は、ブラジルメンバー全員を部屋に招く。伸一のことばに、目頭を潤ませる青年もいた。「泣いてはいけない。私は、必ずブラジルへ行くんだから、また、会えるじゃないか」と優しい口調で言った。
そして、家族として歓迎の気持ちと言って、ピアノに向かい、「厚田村」、「熱原の三烈士」「荒城の月」へと移った。心に染み入る、旋律であった。日本語の全くわからないメンバーもいたが、伸一の思いは、皆の胸に痛いほど伝わっていた。
この日、この時、ブラジルの青年たちの胸に、永遠に消えることのなき誓いの炎が赤々と燃え上がったのである。
帰国したメンバーが この出会いを感動をもって語ると、全同志の胸に”山本先生が来てくださる!”との確信が光を放ち、それは、“勇気の光源”となり、“希望の光彩”となっていった。ブラジル各地に唱題の渦が広がっていった。その一念のうねりが、社会を、時代を、世界を動かしていくのだ。
遂に、山本伸一のブラジル訪問が正式に決定をみた。ブラジルの首脳幹部は、「絶対に油断があってはならない」と慎重であった。事実、訪問の日が近づくにつれて、学会への中傷も激しくなり、予期せぬ難問も生じた。その時、グロリア・斉木は、自ら交渉にもあたり、困難の壁を一つ一つ破っていったのである。
84年8月山本伸一は、北南米の歴訪の旅に出た。サンパウロの空港では、斉木たちがこの18年間の出来事をおもいながら、“山本先生の姿をこの目で見るまでは、まだ、安心できない”と到着を待っていた。66年の警察監視下のなかで行わなければならなかった文化祭。ビザが発給されず、訪問が中止となった74年、励まし合い、着実に社会貢献の大道を開いていった。
伸一は、大統領と会見したのをはじめ、外相、教育・文化相らと相次ぎ会談。また、ブラジリア大学への図書贈呈など、日伯交流の懸け橋を、幾重にも築いていった。
ブラジル大文化祭のリハーサル会場に姿を見せると、大歓声があがり、大拍手が轟いた。皆、この出会いを待ちに待っていたのだ。皆、目を赤く腫らしながら、声を限りに叫んだ。そして、泣きじゃくりながら、飛び上がって手を振り、肩をたたき合い、また号泣するのだ。
その様子を見て、グロリア・斉木も 涙が止まらなかった。18年間、こらえにこらえ、溜まりに溜まった胸の思いが、堰を切ったようにあふれ出たのだ。
翌日、開催された大文化祭には、フィゲイレド大統領から祝福のメッセージが届いた。
フィナーレでは、メンバーの愛唱歌「サウダソン・ア・センセイ」の合唱が広がった。それは、風雪に耐え抜き、自身の極限に挑んできた創価の勇者たちの、強き連帯の熱唱であった。
勝った!遂に、わが同志は勝ったのだ!この時、ブラジルのメンバーは、信仰という人間の至上の情熱と、仏法という宇宙の究極の力をもって、暗黒の闇を破り、暁光を迎えたのである。
<暁光の章 終了>
太字は 『新・人間革命』第11巻より 抜粋
ブラジルでは、週に4回、婦人部の有志が文化会館に集まり、伸一の訪問を記念して、唱題会を開くようになった。また、メンバーは、学会の真実を万人に伝え抜いていくのだと、動きの動き、語りに語り、学会理解の輪を大きく広げていった。
やがて、それは大統領にまで至るのである。1982年5月 ジョアン・フィゲイレド大統領から伸一のブラジル訪問を歓迎する親書が届いた。皆が決意し、祈った通り、道は開かれていったのである。
83年7月、青年部を中心に、ブラジルの代表38人が、研修会に参加するために来日した。伸一は、ブラジルメンバー全員を部屋に招く。伸一のことばに、目頭を潤ませる青年もいた。「泣いてはいけない。私は、必ずブラジルへ行くんだから、また、会えるじゃないか」と優しい口調で言った。
そして、家族として歓迎の気持ちと言って、ピアノに向かい、「厚田村」、「熱原の三烈士」「荒城の月」へと移った。心に染み入る、旋律であった。日本語の全くわからないメンバーもいたが、伸一の思いは、皆の胸に痛いほど伝わっていた。
この日、この時、ブラジルの青年たちの胸に、永遠に消えることのなき誓いの炎が赤々と燃え上がったのである。
帰国したメンバーが この出会いを感動をもって語ると、全同志の胸に”山本先生が来てくださる!”との確信が光を放ち、それは、“勇気の光源”となり、“希望の光彩”となっていった。ブラジル各地に唱題の渦が広がっていった。その一念のうねりが、社会を、時代を、世界を動かしていくのだ。
遂に、山本伸一のブラジル訪問が正式に決定をみた。ブラジルの首脳幹部は、「絶対に油断があってはならない」と慎重であった。事実、訪問の日が近づくにつれて、学会への中傷も激しくなり、予期せぬ難問も生じた。その時、グロリア・斉木は、自ら交渉にもあたり、困難の壁を一つ一つ破っていったのである。
84年8月山本伸一は、北南米の歴訪の旅に出た。サンパウロの空港では、斉木たちがこの18年間の出来事をおもいながら、“山本先生の姿をこの目で見るまでは、まだ、安心できない”と到着を待っていた。66年の警察監視下のなかで行わなければならなかった文化祭。ビザが発給されず、訪問が中止となった74年、励まし合い、着実に社会貢献の大道を開いていった。
伸一は、大統領と会見したのをはじめ、外相、教育・文化相らと相次ぎ会談。また、ブラジリア大学への図書贈呈など、日伯交流の懸け橋を、幾重にも築いていった。
ブラジル大文化祭のリハーサル会場に姿を見せると、大歓声があがり、大拍手が轟いた。皆、この出会いを待ちに待っていたのだ。皆、目を赤く腫らしながら、声を限りに叫んだ。そして、泣きじゃくりながら、飛び上がって手を振り、肩をたたき合い、また号泣するのだ。
その様子を見て、グロリア・斉木も 涙が止まらなかった。18年間、こらえにこらえ、溜まりに溜まった胸の思いが、堰を切ったようにあふれ出たのだ。
翌日、開催された大文化祭には、フィゲイレド大統領から祝福のメッセージが届いた。
フィナーレでは、メンバーの愛唱歌「サウダソン・ア・センセイ」の合唱が広がった。それは、風雪に耐え抜き、自身の極限に挑んできた創価の勇者たちの、強き連帯の熱唱であった。
勝った!遂に、わが同志は勝ったのだ!この時、ブラジルのメンバーは、信仰という人間の至上の情熱と、仏法という宇宙の究極の力をもって、暗黒の闇を破り、暁光を迎えたのである。
<暁光の章 終了>
太字は 『新・人間革命』第11巻より 抜粋