小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

ブラジル

教育の種を植えれば 幸の花園になる

『新・人間革命』第23巻 未来の章 92p

1995年(平成7年)4月には、マレーシア創価幼稚園の開園式が行われた。マレーシアも、多民族国家であり、同幼稚園も、世界市民の育成に力を注いできた。

マレー語、中国語(北京語)、英語の三つの言語の学習が、カリキュラムに盛り込まれている。園児が、各家庭で使っているのは、マレー語、中国語、英語、タミル語、などである。しかも、中国語は、北京語、福建語、広東語などに分かれる。それだけに、意思の疎通、相互理解のためには、語学教育が極めて重要であると考え、実施されたものだ。

言葉の習得だけでなく、文化も学んでいく。世界市民を育むうえで大切なことは、ただ言葉を理解するだけではなく、人種、民族、文化の違いを知り、その差異を尊重することであるとの考えに基づくものだ。

創価幼稚園の教育には、カントの主張の実現がある。それは、21世紀は世界が一つになる「地球民族主義」の時代、人間共和の時代にしなければならないとの、明確なビジョンがあってこそ、成り立つといってよい。

母親は、幼稚園で、「地球も人間も同じ生命であり、すべてのものが、互いに関係し合って成り立っている」と、教えていることを知ったのだ。それは、世界市民教育の基礎と言えよう。そこには、創立者の山本伸一の哲学がある。

ーー人間は、自然の恩恵を受けて生きている。したがって、自然を大切にすることが、人間を守ることになる。また、人間は、一人では生きられない。だから、両親や先生、友達などに感謝し、大切にすることだ。そうした考え方が、マレーシア創価幼稚園では、子どもたちの心に育まれている。

また、園児たちが、幼稚園生活のなかで、体験を通して、さまざまな物事を学べるように努力している。料理作りも、その一つである。そのため、子ども用の調理場がある。

子どもたちは、料理の準備を通して、いろいろな食材を知り、幾つ必要なのかなど、楽しみながら、算数も学んでいく。どうすれば安全で、危険なのかを体得し、その作業を通して、日々料理を作ってくれる人への感謝の思いも増していく。

生活のなかで身につけたことは忘れない。それは、一生の土台となる。マレーシア創価幼稚園もマレーシア模範の幼稚園として、高い評価を得ている。

2001年6月ブラジルのサンパウロで、ブラジル創価幼稚園の開園式が行われた。ブラジルSGIでは、1994年から、教育部が、牧口の「創価教育学」に基づく、教育プログラム「牧口プロジェクト」を推進してきた。

初等教育学校で、この授業を受けた子どもたちは、学ぶことに喜びを見いだし、思いやりを身につけるなど、人格的にも大きな成長を遂げていった。その教育実績を知り、「牧口プロジェクト」を取り入れる学校が広がり、百校ほどが実践校となっていった。

その本格的な創価教育の場として、ブラジル創価幼稚園が誕生したのである。同幼稚園では、子どもたちが興味をもてる、生活に即した作業を通して、総合的に、さまざまな事柄が学べるような学習方法がとられていった。

その一つが野菜作りである。子どもたちが、土を耕し、種を蒔き、野菜を育て、収穫する。栽培の仕方だけでなく、生命の不思議さ、尊さを教えていくのである。

子どもたちに、単に知識を詰め込むのではなく、想像力を培い、善、慈悲の心を育む教育への、社会の関心は強く、評価は高い。

ブラジルでは、幼稚園に続いて、初等教育学校も開校。ブラジル創価学園として、人間主義に基づいた一貫教育をめざしている。

2008年の3月には、韓国のソウルに、世界で6番目となる「創価の人間教育」の幼稚園が開園した。
世界のすべての子どもたちが、自ら価値を創造し、幸福を実現していくために、創価教育はある。
伸一は、先師の、その慈愛の一念から生まれた創価教育を、人間主義教育を、人類の未来のために、伝え、生かしていくことを、自らの使命とし、最後の事業としていたのだ。

伸一は、深く、強く、心に誓っていた。
「教育の種を植えれば、未来は、幸の花園になる。
 教育の道を開けば、未来は、平和の沃野へとつながる。
 私は、種を蒔く。
 今日も、明日も・・・。
 私は、この道を開く。
 全精魂を注ぎ尽くして、
 生命ある限り、生命ある限り・・・。
 私の一切は、若き人びとのためにある」とーー。

<未来の章 終了>

太字は 『新・人間革命』第23巻より 抜粋

価値の創造は、有効な時間の活用から

『新・人間革命』第19巻 凱歌の章 105P~

< 凱歌の章 開始 >


伸一はアメリカ、ブラジル、ペルーの三カ国を訪問する予定で、3月7日に日本を発った。アメリカでは、招聘を受けていたカリフォルニア大学バークレー校を訪問し、アルバート・H・ボウカ―総長と会談した。

マリブ研修所を中心にアメリカの最高協議会に出席するなど、連日、激闘が続いていたのである。当初の予定では、13日にブラジルに入国し、サンパウロでの世界平和文化祭などの諸行事に出席することになっていた。しかし、ブラジルに入国するビザが下りないのだ。

8年前の3月にブラジルを訪問した折の状況が思い起こされてならなかった。この訪問中伸一には、常に政治警察の監視の目が光っていた。当局が創価学会を、宗教を偽装した政治団体であり、社会の転覆をもたらす危険な団体であると、誤解していたのだ。

アメリカの一部マスコミが、偏見に満ちた報道をしてきたことを、真に受けてしまったようだ。また、学会に敵意をいだく日系人の他宗派有力者らが、政治や警察に、「学会は共産主義者たちとつながっている危険な団体である」などと吹聴していたのだ。

当時、軍事政権であったブラジル政府は、政治・思想的な動きにはことのほか警戒心を強めていただけに、政治に絡めて学会を中傷するデマに乗ってしまったのだ。

またしても、「山本会長の同行者に危険人物がいる」などといった根も葉もない情報が一部の日系人から流され、政府もそのデマに踊らされていることが判明してきたのである。そして、とうとう前日を迎えたのである。伸一は、悩み考えた末に、断腸の思いで、ブラジル行の「中止」を発表したのである。

伸一は、強い語調で言った。「負けた、失敗したという時に、未来の永遠の大勝利の因をつくることもある。ブラジルは、今こそ立ち上がり、これを大発展、大飛躍の因にして、大前進を開始していくことだ。また、そうしていけるのが信心の一念なんだ」

「私は、今回は、パナマに入る。パナマの同志が喜んでくれるぞ!」伸一は、パナマのメンバーとパナマ政府から、訪問を強く要請されていたのである。

ニューオーリンズに移ると、州立ニューオーリンズ大学を訪問し、ホーマー・L・ヒット総長と会談した。この都市の繁栄の陰には、労働力となったアフリカ系アメリカ人の苦しみの歴史があった。その民衆の悲哀が刻まれた地を幸福の大地に転換しようと、伸一は精力的に対話を重ね、この日集ったメンバーを「幸福グルーフ゜」と命名した。

そして、30年後、このニューオーリンズ市のシティパークに、山本伸一と峯子の名を冠した「友情の森」が誕生するのである。まさにそれは、わが同志の凱歌のドラマであった。

伸一が、パナマに到着したのは、午後7時過ぎであった。伸一がタラップを下りると、空港に大歓声が響き、報道関係者のカメラのフラッシュが光った。タラップの下からターミナルビル、送迎デッキまで、人、人、人であふれていた。

伸一たちが空港の貴賓室に入ると、元駐日大使であったパナマの高官が笑顔で迎えてくれた。今回スペイン語と日本語のできる通訳は同行していなかった。同じ言語で話し合うのに比べ、3倍も時間がかかることになる。

伸一は思った。"これでは、あまりにも時間がかかりすぎる。弾むべき対話も、弾まなくなってしまう"時間の浪費は、生命の浪費につながる。価値の創造は、有効な時間の活用から始まる。日本から直接、ペルー訪問の役員として吉野喜美夫が呼ばれた。

彼は、勉強も重ねてきた。しかし、通訳の経験は全くなかったのである。アメリカの幹部が吉野の通訳は6割ぐらいしか先方に伝わっていないと言われ、打ちのめされた思いがした。しかし、伸一は、「初めてやって6割も伝えらることができたのは彼だけだよ。すごいね。自信をもってやりなさい。」と話す。

伸一は、この日、吉野の奮闘を見て、彼をスペイン語の一流の通訳に育てようと思ったのである。


太字は 『新・人間革命』第19巻より 抜粋

本門の時代第1期の7年間の目標

『新・人間革命』第9巻 新時代の章 P35~

太平洋を横断し始めると、船の揺れは一段と激しさを増した。大揺れのため、食事の際も、テーブルに食器を置くことも、椅子にすわることもできない日が続いた。船酔いで、頭がフラフラになり、起き上がれなくなったメンバーが続出した。

船の揺れが、いくらか収まると座談会を開いた。船内で行われている座談会は、ほかの乗客たちの間でも話題を呼んでいた。最初は、朝晩、お経を唱え、集会で聞き慣れない歌を歌っている一団を、不可解に思っていたようだ。

そのメンバーが、創価学会員であることを知ると、多くの人は眉をひそめた。学会は「暴力宗教」であるとか「貧乏人と病人の集まり」であると、聞かされていたからだ。

ところが、船のなかで、日々、メンバーと接しているうちに、その明るさ、礼儀正しさに、好感をもつようになった。さらに、座談会の場には、朗らかな笑いがあり、そこは、和気あいあいとした雰囲気に包まれていた。乗客は、次第に、学会に強い関心をもつようになっていったのである。

座談会が開かれるたびに、乗客も、二人、三人と参加するようになった。そのなかには、後日、入会した人もいた。

5日未明「あるぜんちな丸」は横浜港の沖合に停泊していた。港から1艘のランチボートが近づき、出迎えた。桟橋に接岸すると、地元・横浜の学会員300名による 歓迎の合唱が、響いた。

歓迎に応えて、団長の小山万造がデッキの上からあいさつした。「南米総支部から13名元気に、日本にやってまいりました。私たちは、皆、ようやく南米で生活の基盤を確立したばかりで、楽な暮らしをしている者は、一人もおりません。ただ、ただ、日本に行きたい。日本に行って、山本先生にお会いしたいという一心で、約40日がかりで日本にまいりました。旅費を工面するのも大変でした。休みを取るにも苦労しました。しかし、こうして、同志の皆さんの真心こもる歓迎を受け、勇気が湧いてきました。歓喜がわいてきました・・・」感極まってか、小山の言葉は、とぎれがちであった。

山本伸一は、総本山の大講堂で南米の友を迎えた。南米の友は、この時を、この一瞬を胸に描き、苦難に耐え、万里の波濤を超えて来たのである。伸一は、南米の友の心の奥深く不動の信心の楔を打とうと、渾身の力を振り絞って励ましていった。

1964年(昭和39年)第27回本部総会が、行われた。「本門の時代」の開幕の本部総会である。
伸一は次の7年間を 広宣流布の総仕上げの第1期とし、活動大綱を発表する。

第1に、総本山への正本堂の建立・寄進とそれにともなう御供養の実施。
第2に、会員600万世帯の着実な達成。
第3に、学会本部のある信濃町に、「創価文化会館」の建設と すべての県に最低1会館の設置。
第4に、公明政治連盟は 政治部から解散し、独自の路線を歩む。“政教分離”への宣言。

政策は、政策とし、あくまでも信心は信心。たとえ、政策のうえで異論を唱える人があったとしても、学会員は 学会員として、信心のうえから、大きく包容していくように。また、政策に異議、異論のある方は、よく議員と話し合って皆が、心から納得し、一番よい政策にしていきたい。それゆえ、皆の意見がさらに優れた政策をつくっていくことにもなる。

そして、発表した4項目について、再度、皆に諮った。
伸一は、最後に、「私どもも、決意も新たに、仲良く、楽しく、大きなる前進をしていこうではありませんか。」本部総会に集った幹部の総意で、「本門の時代」の第1期となる、向こう7年間の目標は決まった。「新時代」の船出の、新しき帆は上がったのである。


太字は 『新・人間革命』第9巻より

300万総登山開始

『新・人間革命』第9巻 新時代の章 P26~

伸一は、師の戸田城聖に、次の目標として、会員600万世帯の達成を誓った。当時、日本の総世帯数は、約2300万世帯であった。会員600万世帯が達成されれば、日本の約4分の1の家庭に、御本尊が流布されることになる。

「本門の時代」の伸一の構想を実現していくには、それは、なんとしても果たさねばならない課題であった。墓参の終了後は、初の『仏教哲学大辞典』の編纂会議が行われた。

300万総登山は、この4月2日から翌年の3月25日まで、約1年間にわたって行わることになっていた。このうち、登山会が開催される日は、257日で、1日平均1万2千人近くが登山することになる。

登山会を無事故、大成功に終わらせるために、伸一は、運営の細部に至るまで、一つ一つ、全神経を研ぎ澄まし、検討を重ねてきた。彼は、首脳幹部に何度も、こう訴えてきた。

「信心をしているから、また祈っているから、事故が起きないなどという考えは誤りです。信心をしているからこそ、絶対に事故など起こすものかという、強い決意、一念が大事なんです。そして、御書に『前前の用心』と仰せの通り、事故を起こさないための、万全な対策を、徹底して練り上げることです。それが信心です。」

「行事に参加した人が、学会は安全のために、ここまで工夫し、神経を使ってくれているのかと、感嘆するようでなければならない」

輸送では、国鉄と話し合いを重ね、月間、3~400本の臨時列車が確保されていた。さらに、駅の改築も進められた。衛生面には、最も神経を配り、食事は完全に熱殺菌し、真空パックした「真空弁当」が配布されることになった。そして、1回、45分で、3千食を超す弁当をつくることができる、厨房も建設されたのである。

そのほか、寝具センターも建てられ、1日に12~1300枚の布団乾燥や、綿の打ち直し、布団のクリーニングなどが行えるようになっていたのである。
いずれも、極めて画期的な試みであった。

一方、下水処理場も完璧なものをとの、山本伸一の支持で建設に着手し、前年10月に完成をみていた。

待ちに待った300万総登山の幕が開いた。これには、日本国内だけでなく、海外各国からも、多数のメンバーが参加することになっていた。ブラジルのサンパウロから日本までの往復の旅費は、飛行機で1500米ドル(54万円)、船でも500米ドル(18万円)かかった。

当時、サンパウロの月額の最低賃金が30米ドル(1万800円)といわれている。つまり、庶民にとっては、1年分以上の総収入ということになる。それだけに、皆、渡航の費用の捻出は容易ではなかった。

一行13人は、皆同じような生活状態であった。経済的に豊かといえる人はいなかった。生活費をあらゆる面で切り詰め、あるいは、何年にもわたるローンを組んで、渡航費用を捻出したのであった。

サントスから日本までの船旅は、片道40日近くを要する。その間の仕事の段取りをつけるのも、容易ではない。しかし、“自分たちが目標としてきた、戸田先生の七回忌の年に日本に行き、山本会長ぱと会いたい”という一心で、出港の日を迎えたのである。

一行の乗った「あるぜんちな丸」は、大西洋を北上し、カリブ海を渡り、パナマ運河を通って太平洋に出た。そして、アメリカのロサンゼルスに到着すると、船内で、アメリカとブラジルの合同座談会が開かれた。

「あるぜんちな丸」は、さらに北上し、サンフランシスコに寄稿した。そして、太平洋を横断し、一路、日本をめざしたのである。



太字は 『新・人間革命』第9巻より

開拓者

『新・人間革命』 開拓者の章 P271

ニューヨークを発ち ブラジルのサンパウロを目指す。
現地の学会員の状況もわからず、
ポルトガル語と英語を話せる人もいないなか、ブラジルを目指す一行。

激しく揺れる機内で最悪な体調にもかかわらず、
ブラジル広布におもいをめぐらす山本伸一(池田大作)。

空港に到着したのは 午前1時半過ぎ。
二時間余り遅れての到着であったが、空港のロビーには
学会歌で、出迎える二~三十人の学会員がいた。


ほとんどが、日本から移住し、農業に従事していた男性だった。
座談会では、日系移住者の過酷な生活状況が 語られた。


明治41年に 日本政府による、ユートピアのようなうたい文句に、
「契約移民」としてこの世の楽園ブラジルにやってきた人たち。

だが、実際の ブラジルは 奴隷制廃止にともなう人手不足を補うため、
かつての奴隷に代わる 新たな低賃金労働者を 欲していたのだった。

夢を抱いてブラジルに来た人々を待っていたのは悲惨な生活であった。

戦後になるまでの、ブラジル日系人の“勝ち組”と“負け組”の対立など、
終戦後に移住が再開されるまでにも 長い歴史があった。


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知らなかったブラジル移住民の歴史。
政府に「ユートピア」だと言われて・・・。
どこかで聞いた文句だ。歴史は繰り返す。
政治も繰り返す。



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