『新・人間革命』第3巻 月氏の章 P150~
1961年(昭和36年)2月4日
東洋広布の歴史に、永遠の光を放つ、「埋納の日」の朝が訪れた。
釈尊成道の地、ブッダガヤで、「東洋広布」の石碑などを埋納する儀式を行った。
埋納場所は、日達法主と山本会長(池田先生)を中心に日本で検討し、
大菩提寺の丑寅(北東)の方向と決めていた。
その方向には、霊鷲山、さらに日本があるからである。
準備に入り、埋納場所の穴掘りが始まった。穴は五~六十センチメートル四方で、
一メートルほどの深さに掘られた。
掘られた穴の前にイスを並べ、テーブルの上に線香とロウソクが用意された。
そして、穴の傍らには、「東洋広布」の石碑と、「三大秘法抄」などを入れた
ステンレスケースが置かれた。
伸一は、そびえ立つ大塔を仰いだ。青い空に、白い雲がまばゆく映えていた。
この空の上から、師の戸田城聖が、じっと見守ってくれているように思えた。
午後3時30分。日達法主の道師で、唱題が始まった。埋納の儀の開始である。
日蓮大聖人の立教開宗から七百余年、その太陽の仏法が、今まさに月氏を照らし、
東洋広布の未来への道標が打ち立てられる瞬間であった。
初めに、山本伸一が「東洋広布」の石碑を手にした。彼は、石碑の表を、北東の霊鷲山、
日本の方角に向けて、地中に収めた。
続いて、「三大秘法抄」などを収めたステンレスケースが埋納された。
埋納の儀式は、やがて、滞りなく終わった。
今ここに、仏法西還の先駆けの金字塔が打ち立てられた。
彼は、師・戸田城聖への東洋広布の誓願を果たす、第一歩を踏み出したのである。
アジアに広宣流布という真実の幸福と平和が訪れ、
埋納した品々を掘り出す日がいつになるのかは、
伸一にも測りかねた。しかし、それはひとえに彼の双肩にかかっていた。
“私はやる。断じてやる。私が道半ばに倒れるならば、わが分身たる青年に託す。
出でよ!幾万、幾十万の山本伸一よ!”
月氏の太陽を仰ぎながら、彼は心で叫んだ。
太字は 『新・人間革命』第3巻より抜粋
月氏の章 終了
1961年(昭和36年)2月4日
東洋広布の歴史に、永遠の光を放つ、「埋納の日」の朝が訪れた。
釈尊成道の地、ブッダガヤで、「東洋広布」の石碑などを埋納する儀式を行った。
埋納場所は、日達法主と山本会長(池田先生)を中心に日本で検討し、
大菩提寺の丑寅(北東)の方向と決めていた。
その方向には、霊鷲山、さらに日本があるからである。
準備に入り、埋納場所の穴掘りが始まった。穴は五~六十センチメートル四方で、
一メートルほどの深さに掘られた。
掘られた穴の前にイスを並べ、テーブルの上に線香とロウソクが用意された。
そして、穴の傍らには、「東洋広布」の石碑と、「三大秘法抄」などを入れた
ステンレスケースが置かれた。
伸一は、そびえ立つ大塔を仰いだ。青い空に、白い雲がまばゆく映えていた。
この空の上から、師の戸田城聖が、じっと見守ってくれているように思えた。
午後3時30分。日達法主の道師で、唱題が始まった。埋納の儀の開始である。
日蓮大聖人の立教開宗から七百余年、その太陽の仏法が、今まさに月氏を照らし、
東洋広布の未来への道標が打ち立てられる瞬間であった。
初めに、山本伸一が「東洋広布」の石碑を手にした。彼は、石碑の表を、北東の霊鷲山、
日本の方角に向けて、地中に収めた。
続いて、「三大秘法抄」などを収めたステンレスケースが埋納された。
埋納の儀式は、やがて、滞りなく終わった。
今ここに、仏法西還の先駆けの金字塔が打ち立てられた。
彼は、師・戸田城聖への東洋広布の誓願を果たす、第一歩を踏み出したのである。
アジアに広宣流布という真実の幸福と平和が訪れ、
埋納した品々を掘り出す日がいつになるのかは、
伸一にも測りかねた。しかし、それはひとえに彼の双肩にかかっていた。
“私はやる。断じてやる。私が道半ばに倒れるならば、わが分身たる青年に託す。
出でよ!幾万、幾十万の山本伸一よ!”
月氏の太陽を仰ぎながら、彼は心で叫んだ。
太字は 『新・人間革命』第3巻より抜粋
月氏の章 終了