『新・人間革命』第4巻 大光の章 P305~

10月5日、ヨーロッパ訪問の最初の地 デンマークのコペンハーゲンに到着した山本伸一。


伸一は、デンマークの色とりどりの家並みを見て、デンマークのユニークな教育の一環を垣間見た思いがした。

彼は、牧口常三郎の「創価教育学体系」の「緒言」に書かれた、デンマークの復興の父グルントウィと、その若き後継者コルのことを思い出した。

この二人の教育者については、かつて、戸田城聖が何度となく、伸一に語ってくれた。

グルントウィは、デンマークが世界に誇る大教育者であり、「フォルケホイスコーレ(国民高等学校)」の創設者として知られている。


激動の時代に成長したグルントウィは、本の知識を、ただ丸暗記するだけの、暗記中心の詰込み主義の学校教育に大きな疑問をいだいた。後に、彼は、自分の教育理念をつづった著作「生のための学校」のなかで、そうした学校教育を、“死の学校”だと批判している。

グルントウィは、大地に根を張った民衆を蔑視し、民族の文化を軽く見る大学出の都会のエリートたちに強く反発した。

グルントウィの人生は、迫害の連続であった。しかし、彼は、信念を曲げなかった。

“民衆自身が目覚めて、政治を監視し、自由に発言できる力をもってこそ、真の民主であり、真の祖国の復興になるはずだ。民衆を聡明にしよう!民衆を勇敢にしよう!民衆を雄弁にしよう!”

そのために、彼が構想したのが、「フォルケホイスコーレ」であった。

最初の「フォルケホイスコーレ」がオープンしたのは、1884年のことであった。

そして、この「フォルケホイスコーレ」が、デンマーク社会に深く根を張り、大発展していく原動力となったのが、後継者のクリステン・コルである。

コルは、グルントウィよりも30歳以上も若い、少壮気鋭の教育者であった。
コルも、若くして教育者となったが、やはり、詰め込み教育になじめず、精神的にも落ち込んでしまった。そんな時、偶然、グルントウィの思想を知るのである。

その後コルは、グルントウィの「フォルケホイスコーレ」の構想に共鳴し、それを実践しようと、学校の設立に奔走する。しかし、決して裕福ではない彼は、資金的に行き詰まり、グルントウィに援助を求めた。

一面識もない青年の依頼ではあったが、グルントウィは、並々ならぬ情熱を感じたのであろう。
コルに対する援助を快諾するのである。

こうして、コルの「フォルケホイスコーレ」が開校する。1851年のことであった。

グルントウィの共鳴者はたくさんいた。しかし、グルントウィを師と定め、彼の「生きた言葉」を、師の心を教育の現場で、そのまま実践していったのは、コルをおいてなかったといわれている。

コルは、生涯、質素な作業着で、青年との対話、庶民との対話を続けた。その姿から、「野良着のソクラテス」と呼ばれ、人びとに慕われたのである。

この時、デンマークは、「外で失ったものを内で取り戻そう」と、祖国復興を目指して、未開拓の荒れ地の多かったユトランド半島で、植林運動を開始している。

そして、「フォルケホイスコーレ」という、グルントウィが種を植えた、“教育の森”も、デンマークの各地に広がり、祖国復興を担う人間の大樹を育てる力となったのである。

牧口常三郎は「創価教育学体系」の「緒言」で、この書の発刊は、愛弟子・戸田城聖の奮闘なくしてはありえなかったと述べ、その感謝の心情をグルントウィとコルの師弟の姿に重ね合わせている。

牧口、戸田の教育観、学校観も、「人間をつくる」「民衆を聡明にする」という点など、グルントウィに近いものがあった。

山本伸一は、コペンハーゲンの街を車窓からながめながら、自分もコルのように、先師牧口常三郎、恩師戸田城聖の教育の理想を受け継ぎ、一刻も早く、創価教育を実現する学校を、設立しなければならないと思った。



太字は 『新・人間革命』第4巻より抜粋