『新・人間革命』第5巻 開道の章 P16~
正本堂建立の資材調達のため、ドイツの工場を見学して回った山本伸一は、
夜、視察した会社の重役たちと会食の場をもうける。
創価学会のことを紹介した書籍を渡し、平易な言葉を使って、創価学会とはどんな団体かを説明していった。
重役陣は、驚いた顔をしながら、伸一の話に、真剣に耳を傾けていた。
彼らは、仏教の団体である創価学会の会長一行と聞いて、現実の社会から離れて山のなかにこもり、座禅でも組んでいる人たちではないかと思っていたようだ。
実際に会って話を聞くと、自分たちの描いていた仏教団体のイメージとは、まったく違っていたことに気づき、皆、大きな関心と興味をいだいたようであった。
あなたたちの仏法とは、どんな教えなのですかという質問に
伸一は、ドイツの文豪ゲーテの『ファウスト』を引用し、
「“人間は いかに生きるべきか”を説いたものが仏法です。
人間が幸福になるための、より人間らしくあるための方途を示したてつがくが、仏法といえます」と話した。
伸一が『ファウスト』を引いたのは、ドイツの人たちにとって、最もみじかな深い話を通して語ることが、仏法を理解する早道であると考えたからだ。
「仏法のヒューマニズムの哲理」をもとにした、「人間革命」運動についても、説明する。
伸一は、仏法用語はほとんど使わなかった。それは、通訳をしてくれている駐在員が、仏法についての知識がほとんどないことを、考慮してのことであった。
また、難解な用語を使わなくとも、仏法について語ることができなければ、仏法を世界に流布していくことはできないと、考えていたからでもある。
和やかななかにも、真剣な語らいが続き、話題は、教育、芸術へと広がっていった。
音楽の話になった時、伸一は 学会歌を披露することを 提案した。
学会の愛唱歌の一つ「黎明の歌」をひろうすると、ドイツの重役たちも歌い、
今度は、「荒城の月」を歌うと ドイツ人夫妻がシューベルトの「野バラ」を歌うと言うように
「日独歌合戦」となる。
歌ううちに、一行と重役陣の心は一つにとけ合い、昔からの友人であるかのような、ほのぼのとした雰囲気に包まれていった。
ドイツ人を代表して工場長が この出会いを通して、未来への希望と勇気を得るとともに、日本への理解を、一段と深めることができたと語った。
伸一にとって、ドイツの人びととの、仏法をめぐる本格的な語らいは、これが初めてであった。
彼は、ドイツの人たちが真摯に仏法を求めていることを実感した。
また、国境も民族も超えて、互いに共感し合えることを、強く確信することができた。
伸一は、鎖国時代の日本に キリスト教の布教が許されることを信じて来日した、
プロテスタント宣教師のフルベッキの話を通し、
日本語習得の原動力は 宗教的使命感であったようだと話す。
その国に貢献するためにも、語学を習得することが大事だと話し、
戸田先生も子どもが生まれたら、3か国語は マスターさせなさいと言われたことがあると語る。
「これからは、航空機もますます発達し、世界は狭くなる。それなのに、若い世代が、自分に言葉の壁があって、自在に交流することもできないのでは、残念じゃないか。」
「ともかく、語学だけでなく、世界に目を向け、あらゆることを勉強していこうよ。智慧は、仏法によって得、知識は広く世界に求めていかなくてはならない。」
伸一にとって、青年たちとの語らいは、楽しい希望のひとときであった。
伸一は、若い世代を大成させることこそ、自分が成さねばならない責務であると痛感していた。
というのも、彼は、いつまで、自分が生きることができるかは、全く予測しかねていたからである。
彼には、師である戸田城聖の構想を実現するために、生きて生きて、生き抜かねばならないと言う強い決意はあった。
しかし、誰の目から見ても、伸一が無理に無理を重ねていることは明らかであったし、事実、彼の疲労は、常に激しかった。
伸一が自宅に帰った時には、毎朝、彼の体温を測ることが、妻の峯子の日課となっていたが、そのたびに彼女の顔は曇った。微熱が続いているのである。
峯子には、日々、“この人は今夜も無事に、家に帰って来られるのだろうか”との思いがあった。
彼女は、伸一はいつ倒れても、おかしくはないと感じていたのである。
だからこそ、伸一は、青年の育成に、真剣に取り組んできた。
どこにいても、青年たちの栄光の未来に期待を寄せ、
その成長を念じながら、懸命に対話したのである。
太字は 『新・人間革命』第5巻より抜粋
正本堂建立の資材調達のため、ドイツの工場を見学して回った山本伸一は、
夜、視察した会社の重役たちと会食の場をもうける。
創価学会のことを紹介した書籍を渡し、平易な言葉を使って、創価学会とはどんな団体かを説明していった。
重役陣は、驚いた顔をしながら、伸一の話に、真剣に耳を傾けていた。
彼らは、仏教の団体である創価学会の会長一行と聞いて、現実の社会から離れて山のなかにこもり、座禅でも組んでいる人たちではないかと思っていたようだ。
実際に会って話を聞くと、自分たちの描いていた仏教団体のイメージとは、まったく違っていたことに気づき、皆、大きな関心と興味をいだいたようであった。
あなたたちの仏法とは、どんな教えなのですかという質問に
伸一は、ドイツの文豪ゲーテの『ファウスト』を引用し、
「“人間は いかに生きるべきか”を説いたものが仏法です。
人間が幸福になるための、より人間らしくあるための方途を示したてつがくが、仏法といえます」と話した。
伸一が『ファウスト』を引いたのは、ドイツの人たちにとって、最もみじかな深い話を通して語ることが、仏法を理解する早道であると考えたからだ。
「仏法のヒューマニズムの哲理」をもとにした、「人間革命」運動についても、説明する。
伸一は、仏法用語はほとんど使わなかった。それは、通訳をしてくれている駐在員が、仏法についての知識がほとんどないことを、考慮してのことであった。
また、難解な用語を使わなくとも、仏法について語ることができなければ、仏法を世界に流布していくことはできないと、考えていたからでもある。
和やかななかにも、真剣な語らいが続き、話題は、教育、芸術へと広がっていった。
音楽の話になった時、伸一は 学会歌を披露することを 提案した。
学会の愛唱歌の一つ「黎明の歌」をひろうすると、ドイツの重役たちも歌い、
今度は、「荒城の月」を歌うと ドイツ人夫妻がシューベルトの「野バラ」を歌うと言うように
「日独歌合戦」となる。
歌ううちに、一行と重役陣の心は一つにとけ合い、昔からの友人であるかのような、ほのぼのとした雰囲気に包まれていった。
ドイツ人を代表して工場長が この出会いを通して、未来への希望と勇気を得るとともに、日本への理解を、一段と深めることができたと語った。
伸一にとって、ドイツの人びととの、仏法をめぐる本格的な語らいは、これが初めてであった。
彼は、ドイツの人たちが真摯に仏法を求めていることを実感した。
また、国境も民族も超えて、互いに共感し合えることを、強く確信することができた。
伸一は、鎖国時代の日本に キリスト教の布教が許されることを信じて来日した、
プロテスタント宣教師のフルベッキの話を通し、
日本語習得の原動力は 宗教的使命感であったようだと話す。
その国に貢献するためにも、語学を習得することが大事だと話し、
戸田先生も子どもが生まれたら、3か国語は マスターさせなさいと言われたことがあると語る。
「これからは、航空機もますます発達し、世界は狭くなる。それなのに、若い世代が、自分に言葉の壁があって、自在に交流することもできないのでは、残念じゃないか。」
「ともかく、語学だけでなく、世界に目を向け、あらゆることを勉強していこうよ。智慧は、仏法によって得、知識は広く世界に求めていかなくてはならない。」
伸一にとって、青年たちとの語らいは、楽しい希望のひとときであった。
伸一は、若い世代を大成させることこそ、自分が成さねばならない責務であると痛感していた。
というのも、彼は、いつまで、自分が生きることができるかは、全く予測しかねていたからである。
彼には、師である戸田城聖の構想を実現するために、生きて生きて、生き抜かねばならないと言う強い決意はあった。
しかし、誰の目から見ても、伸一が無理に無理を重ねていることは明らかであったし、事実、彼の疲労は、常に激しかった。
伸一が自宅に帰った時には、毎朝、彼の体温を測ることが、妻の峯子の日課となっていたが、そのたびに彼女の顔は曇った。微熱が続いているのである。
峯子には、日々、“この人は今夜も無事に、家に帰って来られるのだろうか”との思いがあった。
彼女は、伸一はいつ倒れても、おかしくはないと感じていたのである。
だからこそ、伸一は、青年の育成に、真剣に取り組んできた。
どこにいても、青年たちの栄光の未来に期待を寄せ、
その成長を念じながら、懸命に対話したのである。
太字は 『新・人間革命』第5巻より抜粋