小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

パラグアイ

新しいリーダーの要件

『新・人間革命』第30巻(下) 誓願の章 382p

チリは、伸一にとって、ちょうど海外訪問50カ国・地域の地となる。思えば、どの国も、一つ、また一つと、全精魂を注いで歴史の扉を開く、真剣勝負の広布旅であった。恩師は、一度も海外に出ることはなかった。伸一は戸田の言葉を遺言として生命に刻み、師に代わって世界を回り「太陽の仏法』を伝えてきた。

社会主義の国々へも、何度となく足を運び、友誼と文化の橋を架けた。日蓮大聖人の御遺命である「一閻浮提広宣流布」を実現するために、命を懸ける思いで世界を回り、妙法という平和と幸福の種子を蒔き続けてきた。戸田と心で対話しながらの師弟旅であった。

24日、彼は、首都サンティアゴの市庁舎で、名誉市民称号にあたる「輝ける賓客章」を受けた。サンティアゴでは、1973年軍事クーデターが勃発した。上空には戦闘機が飛び交い、街には戦車や武装兵があふれた。メンバーの中心者夫妻の家も、戦いに巻き込まれ、機銃掃射を浴びた。

二人は、戒厳令下の街へ飛び出し、同志の安否を気遣い、一軒一軒、訪ねて歩く日々が続いた。集会は禁じられていた。訪問した家々で、“家族座談会”を開いて歩いた。その後も、会合の開催には、当局の許可が必要であり、場所も会館1か所だけに限られた。

しかし、同志は皆、意気軒昂であった。会合の内容を視察に来た警察官にも、SGIの平和運動のすばらしさを訴えた。「牧口先生も、戸田先生も、戦時中、日本にあって、特高警察の監視のなかで、勇んで広布に戦われてきた。また、山本先生もは、私たちに、折々に心温まる励ましを送り、勇気をくださった。先生は、すべてご存じなんだと思うと、力が湧きました」師を胸にいだいて同志は走った。

いつも心に師がいた。ゆえに負けなかった。政情不安が続くなか、南北約4千2百キロという広大な国土で、知恵を絞り、工夫を重ね、スクラムを組んで前進してきた同志の苦闘に、伸一は、胸が熱くなるのを覚えた。地涌の菩薩は、日本から最も遠い国の一つであるチリにも、陸続と出現していたのだ。

伸一は、烈々たる気迫で呼びかけた。『賢きを人と云いはかなきを畜といふ』の御文を拝し、賢明なる振る舞いの大切さを強調した。広宣流布を展望し、広く開かれた心で、メンバーではない方々にも、よく気を配り、互いに尊敬し合い、友情を大切にしながら、仲良く交流を深めていくのが、私どもの信仰であると語った。

「信心即生活」であり、「仏法即生活」である。その教えが示すように、仏法は開かれた宗教であり、決して、学会と社会との間に壁などつくってはならないことを、伸一は訴えておきたかったのである。
この日、チリの新しき原点が創られたのである。

25日、伸一は、大統領府に、パトリシオ・エイルウィン・アソカル大統領を表敬訪問した。伸一とは通算、3回にわたって会談し、これらの語らいなどをもとに、対談集『太平洋の旭日』が発刊されたのである。

2月25日夜、伸一は、チリからブラジルのサンパウロに到着した。ブラジルSGI自然文化センターに世界32カ国・地域の代表が集って開催された、第16回SGI総会に出席した。さらに、3月8日には、アメリカのマイアミへ移動し、ここでは研修会に出席。その後、サンフランシスコで、科学者のライナス・ポーリング博士と4度目の会談を行ったほか、メンバーとの懇談・指導を続け、21日帰国したのである。

伸一は、5月には、フィリピン、香港を訪問。9月から10月には、アメリカ、カナダを回り、アメリカではハーバード大学に招かれ「21世紀文明と大乗仏教」と題して、同大学で2度目の講演を行っている。翌1994年(平成6年)は、1月から2月にかけて、香港、中国、タイへ。

5月半ばからは、ロシア、ヨーロッパを歴訪した。一日一日が、一瞬一瞬が、世界広布の基盤を創り上げる建設作業であった。動くべき時に動かず、やるべき時にやらねば、未来永劫に悔いを残す。伸一にとっては、“今”が“すべて”であった。

「栄光・躍進の年」と定めた95年、伸一は、21世紀を担うリーダー像について語った。「これから求められるリーダーの要件とは何か。それは、一言すれば『誠実』に尽きます。決して威張らず、友に尽くしていくことです。正直さ、優しさ、責任感、信念、庶民性ーーそうした『人間性』を、皆は求めている。ゆえに、自分を飾る必要はない。自分らしく、信心を根本に、人間として成長していくことが大事なんです」

伸一は、未来のために、平易な言葉で、リーダーの在り方を語り残しておきたかった。「仏法は、人を救うためにある。人を救うのは観念論ではなく、具体的な『知恵』であり、『行動』です。私どもの立場でいえば、以信代慧であり、信心によって仏の智慧が得られる。したがって、何ごとも『まず祈る』ことです。また、結果が出るまで『祈り続ける』ことです。『行動を続ける』ことです。」


太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋

南米の同志の活躍

『新・人間革命』第30巻(下) 誓願の章 364p

伸一はアルゼンチンの首都ブエノスアイレスに到着した翌日の15日、アルゼンチン代表者会議に出席した。伸一は、アルゼンチンの同志が一人も漏れなく「不屈の勝利王」であってほしかった。

16日、伸一は、ブエノスアイレスの大統領公邸に、カルロス・サウル・メネム大統領を表敬訪問した。今回の南米訪問では、各国で国家指導者等の会見や記念の式典が、間断なく続くことになる。そのスペイン語の通訳・翻訳を見事に務めたのが、アルゼンチン出身の女子部の友たちであった。

彼女たちは、日系人の両親のもと、アルゼンチンで育った。少女時代に、鼓笛隊の活動を通して、信心を学び、“人びとの幸せのために、広布のために生きたい”との思いを深めていった。そして、アルゼンチンの国立大学や、国費留学生として日本の大学で懸命に勉学に励む一方、語学の習得にも力を注ぎ、SGIの公認通訳となったのである。

16日の夜、伸一は、アルゼンチンの上院、ならびに下院を訪問した。上院では、伸一「平和への不断の活動」に、下院では彼の「『世界の諸民族の平和』への闘争」に対して特別表彰が行われた。地球の反対側にあって、伸一の発言に耳を傾け、その行動を注視してきた人びとがいたのだ。

これもアルゼンチンの同志が、誠実に対話を重ね、信頼を広げてきたからこそである。彼は、メンバーの奮闘に心から感謝し、その栄誉を、皆と分かち合いたい思った。

上院議長は、語らいのなかで、アルゼンチン議会で、伸一の平和提言などをもとにして、法律を作ったたことを伝えた。それは、新たに「平和の日」を設け、アルゼン チンの小学・中学・高校等で、平和について学び合い、諸行事を行うという法律である。

同法制定の理由のなかで、「ある優れた日本の思想家は、…」として「SGIの日」記念提言の一節を引用し、伸一の名を明記している。この法律は、85年8月に発布されている。SGIへの世界の期待は、余りにも大きかった。

18日夜には、第11回世界青年平和文化祭が、「民族融合の大地に希望の曲」をテーマに、男女青年部千五百人が出席して、開催された。文化祭の圧巻は、アルゼンチンタンゴの大巨匠であるオスバルド・ブグリエーセとマリアーノ・モーレスの共演であった。

ブグリエーセは、70年間のタンゴ人生を締めくくり、「もう舞台にあがることはない」と噂されていた。「タンゴの皇帝・ブグリエーセ」と「タンゴの王者・モーレス」の“夢の競演”に、青年平和文化祭は沸き返った。

山本伸一の平和旅は続いた。1993年(平成5年)2月20日、伸一の広布の舞台は、パラグアイへと移った。空港では、首都アスンシオン市の市長から、歓迎の「市の紋章」の盾が贈られた。

移住した日系人から始まった広布であり、そこには、計り知れない苦労があったにちがいない。パラグアイの同志は、決して多いとはいねないが、メンバーは、日本からの移住者をはじめ、皆が勤勉に努力を重ね、社会に深く信頼の根を張り巡らせてきた。

今回の伸一の訪問を歓迎し、郵政局では、彼の滞在期間中、すべての郵便物に「SGI」の消印を押すことを決定した。「SGI会長の訪問は、国家諸機関及び関係団体が、敬意と共鳴を表すべきものである」としていた。同志の地道な社会貢献の結実といえよう。

パラグアイSGI総会の席上、伸一は、「諸天は、勇気ある人を守る!」と訴え、一人立つことの大切さを語った。信仰という赫々たる太陽を燃やしながら自分の周囲に、わが地域に、希望と蘇生の大光を送り、友情と励ましの人間共和の連帯を築き上げていくーーそこにこそ、広宣流布の確かな軌道があり、世界最先端のSGIの運動の意義もある。

「何があろうが一喜一憂するのではなく、『生涯』という視野に立って、悠然と進んで行くことです。また、お子さん方にとっては、今は勉強が仕事です。信心の基本だけは、きちんと学びながら、徹底して『勉学第一』で進むことが、『信心即生活』となります。

信心の継承といっても、信仰は、子ども自身が選択していく問題です。要は、『大変な時には真剣に唱題すれば、必ず乗り越えられる』ということを、しっかりと示し、教えていくことです。あとは、いたずらに神経質になることなく、伸び伸びと成長させていただきたいのであります」

22日、伸一は大統領府にロドリゲス大統領を表敬訪問した。その後、パラグアイの外務省を訪れた。同国の「国家功労大十字勲章」の授賞式に出席するためである。そして、23日夕、彼は、次の訪問地のチリへと向かったのである。


太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋

パラグアイ同志の 求道心

『新・人間革命』第11巻 開墾の章 P174~

移住地で同志と巡り合うことは、筆舌に尽くしがたい喜びであった。「南無妙法蓮華経」と朝晩唱えている人がいると聞くと、喜んで訪ねて歩いた。しかし、なかなか見つからなかった。学会員を見つけて、互いに飛びつくようにして抱き合い、固い固い握手を交わした。

移住地での活動は、都会と違って危険も多かった。活動途中で、ガラガラ蛇に遭遇することもあった。雨が降ると滑って歩けなくなり、裸足で歩くこともあった。

また、生活は、植えた種子が流されたり、霜や雹にやられたり、イナゴに食べられたり、作物の収入がなければ、日本から持ってきた金もそこをついてしまった。

そうしたなかで生きる学会員にとって、信仰は「立ち上がる力」であり、困難に屈せぬ「勇気の源泉」であった。だから皆、必死になって、信心に励んだ。同志のなかからは、さまざまな体験が生まれた。知恵を絞って、見事な収穫を得た人もいれば、自然災害の被害を免れた人もいた。その実証が、移住地の人たちの仏法への共感を広げていった。

また、亡くなった学会員の安らかな死相に感動し、信心をしたいと申し出る人もいた。1963年(昭和38年)にはパラグアイ支部が結成されたのである。

清原かつをはじめとする幹部5人がパラグアイの激励に向かった。空港には、ブラジル国境のイグアス移住地から、数百キロの道のりを4日がかりで駆けつけた、谷川郁夫という班長も迎えに来ていた。

一行は、メンバーの求道の息吹に、心洗われる思いがした。一人の青年が指導会に来る予定のメンバーが大雨で車がスリップし、来られないので、ジープで行ってほしいとの要望があり、メンバーは向かった。

午後3時ごろ、出発して、到着したのは、夜9時過ぎだったが、行き違いで危険を覚悟で会合に出発していた。急いで引き返したが、着いたのは午前1時を回っていた。100名を超す参加者でいっぱいの会場についた。どの質問にも、苦悩と心の葛藤がにじみ出ていた。

清原たちは、懸命に御本尊の功力を、信心の大確信を訴えた。確信と揺らぐ心との真剣勝負であった。

老婦人は、生まれつき目が見えない子が生まれたことから、批判を浴びせられ、家族は、針の筵に座るようないたたまれぬ気持ちで日々を過ごしてきた。「信心を頑張れば、目が見えるようになるか」との質問に、清原は、「信心を貫いていくならば、絶対に、幸福になれる。信心をして生まれてきた子どもに使命のない人はいません。」と指導し、この家族の心の闇を打ち破った。

指導を受け、老婦人は、目の不自由な孫が、家の宝だと思えるようになり、家族も子どもの幸せを願い団結して、信心に励んでいった。

教学試験が行われると、大白蓮華や、聖教新聞が1、2部しかないため、皆が、ノートに写し、研鑽していた。そうした悪条件であるにもかかわらず、皆、実によく勉強していた。

派遣幹部たちは、思った。“もし、自分たちがこの環境のなかに、ただ一人置かれたならば、本当に信心を貫けただろうか、皆に指導はしてきたが、学ぶべきは、自分たちの方ではないのか・・・”

信心とは、立場や役職で決まるものではない。広宣流布のために、いかなる戦いを起こし、実際に何を成し遂げてきたかである。また、世界のいずこであろうと、今、自分のいる場所が、広宣流布の戦場であり、最高の仏道修行の道場であり、同時に、そこが常寂光土となるのである。

メンバーと山本伸一の念願が成就し、彼のパラグアイ訪問がじつげんするのは、1993年のことである。この訪問で、伸一は大統領、外相らと会見。そして、パラグアイ政府から、彼の世界平和への貢献を讃え、『国家功労大十字勲章」が贈られたのである。


太字は 『新・人間革命』第11巻より 抜粋

アルゼンチンとの 心の絆

『新・人間革命』第11巻 開墾の章 P165~

アルゼンチンは、白谷竹男を中心に、大木田和也・光子という若い力が団結し、メンバーも120世帯を超えるまでに至った。

春木らは、アルゼンチンの組織の新布陣が発表された。婦人部長に小堀代志江が就任した。彼女は入会1年ほどであったが、子どもの喘息を克服するなど、幾つもの体験を積んでいた。

春木は、山本会長の伝言を皆に伝えた。「日本とアルゼンチンは、地球の反対側にあり、遠く離れていますが、広宣流布に生き抜く人の心は、私と一体です。私の心のなかには、常に皆さんがいます。皆さんの心のなかにも、私がいることでしょう。私たちは、ともどもに不二の同志として、明るく、仲良く、誇らかに、この世の使命を果たし抜いていこうではありませんか。」

この伝言に、集ったメンバーの多くは涙した。ほとんどの人たちが、同志も数少ないなかで、寂しさ、悲しさに耐え、山本会長を思い、歯を食いしばりながら、広宣流布に邁進してきたからである。

アルゼンチンの幹部たちは、相談の末、ブラジルの山本会長を尋ねることにした。そのことを聞いていた伸一は、会合が終わると、小堀の名を呼び、記念の念珠を 渡しながら、「アルゼンチンの婦人部を頼みます!リーダーというのは、一人立つ、”勇気の人”でなければならない。そして、みんなと仲良く進むことができる“調和の人”でなければなりません。ご苦労をおかけして申し訳ありませんが、よろしくお願いします」と真摯で、誠実な言葉に小堀は感動を覚えた。

ロビーで待機していた大木田を見つけると伸一は 一緒に部屋に入り、手紙で励まし続けてきた青年が、元気に自分の前に現れたことが、嬉しくて仕方がなかった。

「人間の一生というのは、短いものだ。その一生をなんのために使っていくかで、人生の価値は決まってしまうよ。君はアルゼンチンにあって、生涯、広布のために生き抜いてほしい。私に代わって、この国の人たちを幸せにしてほしいんだ。」

この日、大木田の心は決まった。“俺の人生は決まった。山本先生とともに広宣流布に生きる。そして、いつか先生を、アルゼンチンにお呼びしてみせる!”

アルゼンチンに帰った彼は、成功していた花卉栽培をスッパリとやめ、花の販売の仕事を始めた。メンバーのために、思う存分に働くには、郊外ではないく、皆と連携のとりやすい、より都心に近い所に住もうと考えたからだ。最初は、見習いから仕事を始め、委託販売業者として独立した。

大木田は、広宣流布のためにアルゼンチン中を駆け巡り、翌年、アルゼンチンに総支部が結成されると、やがて総支部長になり、光子は婦人部長とあって活躍していくことになる。だが、山本伸一のアルゼンチン訪問という念願が実現するには、実に27年後まで、待たなければならなかった。

その間、伸一は、アルゼンチンの大学関係者や芸術家、駐日大使、また、大統領と会見するなど、日亜両国の友好と教育・文化交流に全力を注いできた。同時に、メンバーの奮闘により、仏法理解の輪は大きく広がり、学会の進める平和と教育の運動が高く評価されていった。

そして、1990年には、アルゼンチン政府から、最高栄誉の一つである「大十字五月勲章」が、山本伸一に贈られ、各大学からの顕彰も相次ぐことになる。

春木征一郎一行は、パラグアイのチャベスへ激励に向かった。南部のアルゼンチン国境の都市エンカルナシオンの北東16キロから始まるチャベス移住地や、隣接のフラム移住地、北東へ60キロほどのピラボ移住地などに入植した日本人移住者は、割り当てられた土地から木を切りだし、柱を立て、自分たちで家を建てるところから始めなければならなかった。

この移住者のなかに、学会員がいた。そうしたメンバーが、核となってそれぞれの移住地で、活動が開始されていったのである。


太字は 『新・人間革命』第11巻より 抜粋

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