『新・人間革命』第11巻 開墾の章 P202~
スペイン語があまりできない彼らは、まず、日本人移住者全員に、信心を教えようと決意した。村木は一生懸命働き、運転手つきで車を借りて、妻の磯子とともに、毎月、数日かかりで布教に出かけた。
移住地で苦労を重ねてきた日本人は、商売が順調に軌道に乗っている村木の姿から、信心の力を感じとり、次第に、メンバーが誕生していったのである。
信心に目覚めた人たちは、人生の新たな意義を自覚していった。“私たちには、仏法をもって、このドミニカの人たちを幸福にする使命がある。その使命を果たすためにも、自分が人生の勝利者にならねば・・・。何があっても負けるものか!”
幸福も、不幸も、すべては人間の一念によって決まってしまうものだ。そして、村木たちによって、120世帯ほどの日本人移住者のうち、4分の1にあたる約30世帯が、信心を始めたのである。
清原かつ、岡田一哲の二人は、日本の幹部として初めてドミニカ共和国の首都のサントドミンゴに到着した。空港には、交通の便の悪いなか、百キロ以上も先の移住地から、14、5人もの人が、求道に目を輝かせながら集って来た。
清原たちは、山本伸一からの「支部を結成してはどうか」との話を伝えた。それを聞くと、村木たちは、「先生は、私たちのことを心配してくださっているのですね」と言って目を潤ませた。
ドミニカ支部が、結成され、ヒーマ、コンスタンサ、ダハボンの三地区が誕生することになった。
支部結成大会は、コンスタンサ移住地の倉庫のような集会所で行われた。
集って来たメンバーの顔は、生き生きと輝いていた。支部結成大会には、6、70人の人たちが参加した。
清原は、「『先生、ドミニカの広布を見てください』と胸を張って言える、見事なる歴史を残して、山本先生に、来ていただこうではありませんか!」と呼びかけた。
清原は、日本から幹部が来て指導しているわけでもないのに、皆が愚痴や文句、怨嫉もなく、強い、すっきりした信仰にたっているのが、不思議だった。
それには、陰から、側面でメンバーを支え、励まし続けていた、日本に住む一婦人の存在があった。東京・新宿区で、班長をしている田所キクという人で、彼女は、ドミニカに来たこともなければ、深い関係があったわけでもなかった。
中尾寛一の弟が、彼女を同じ組織で、中尾がドミニカに移住したと聞き、新天地の活躍を祈り、世界広布のために戦う同志を、なんとしても応援したいと、数珠や勤行要典、聖教新聞や大白蓮華、学会の出版物を 梱包して送り続けていたのだ。
現地のメンバーにとって、それは、宝のような贈り物であった。ドミニカには、幹部がいなかっただけに、メンバーは全く面識がないにもかかわらず、何かあると彼女に手紙で相談するようになっていった。
田所は、問題によっては、学会本部に問い合わせるなどして、その一つ一つに誠実に、一生懸命に対応し、励ましの便りを書いた。その便りは、メンバーの大きな心の支えとなり、皆は、田所に、“ドミニカ広布のお母さん”という思いをいだくようになっていった。
人に言われて始めたことではない。報酬や見返りを求めての行為でもない。同志を思い、世界の広宣流布を願うがゆえに、自ら始めた献身であった。
こうした励ましの連帯の絆が、地下茎のように張り巡らされ、友と友の心を結んでいたからこそ、世界広布の揺るぎない基盤が、築かれていったのである。
同志が念願してきた、山本伸一のドミニカ訪問が実現するのは、それから21年後の1987年のことである。この折、伸一はホアキン・パラゲール大統領と会見し、「クリストバル・コロン大十字勲章」を受賞したほか、サントドミンゴ自治大学から、名誉教授の称号が贈られた。
それは、伸一とメンバーが、ドミニカ社会で大きな信頼を勝ち取った最高の証であった。
この66年から中南米各国の広宣流布の、本格的な開墾が始まったといってよい。その作業は、石だらけの大地を耕し、畑をつくり上げるような、苦闘の連続であった。しかし、どの国も、どの友も、見事に勝ち抜いてくれた。
21世紀を迎えた今、中南米のあの地この地に、人間勝利の栄光の旗は、誇らかに翻っている。
<開墾の章 終了>
スペイン語があまりできない彼らは、まず、日本人移住者全員に、信心を教えようと決意した。村木は一生懸命働き、運転手つきで車を借りて、妻の磯子とともに、毎月、数日かかりで布教に出かけた。
移住地で苦労を重ねてきた日本人は、商売が順調に軌道に乗っている村木の姿から、信心の力を感じとり、次第に、メンバーが誕生していったのである。
信心に目覚めた人たちは、人生の新たな意義を自覚していった。“私たちには、仏法をもって、このドミニカの人たちを幸福にする使命がある。その使命を果たすためにも、自分が人生の勝利者にならねば・・・。何があっても負けるものか!”
幸福も、不幸も、すべては人間の一念によって決まってしまうものだ。そして、村木たちによって、120世帯ほどの日本人移住者のうち、4分の1にあたる約30世帯が、信心を始めたのである。
清原かつ、岡田一哲の二人は、日本の幹部として初めてドミニカ共和国の首都のサントドミンゴに到着した。空港には、交通の便の悪いなか、百キロ以上も先の移住地から、14、5人もの人が、求道に目を輝かせながら集って来た。
清原たちは、山本伸一からの「支部を結成してはどうか」との話を伝えた。それを聞くと、村木たちは、「先生は、私たちのことを心配してくださっているのですね」と言って目を潤ませた。
ドミニカ支部が、結成され、ヒーマ、コンスタンサ、ダハボンの三地区が誕生することになった。
支部結成大会は、コンスタンサ移住地の倉庫のような集会所で行われた。
集って来たメンバーの顔は、生き生きと輝いていた。支部結成大会には、6、70人の人たちが参加した。
清原は、「『先生、ドミニカの広布を見てください』と胸を張って言える、見事なる歴史を残して、山本先生に、来ていただこうではありませんか!」と呼びかけた。
清原は、日本から幹部が来て指導しているわけでもないのに、皆が愚痴や文句、怨嫉もなく、強い、すっきりした信仰にたっているのが、不思議だった。
それには、陰から、側面でメンバーを支え、励まし続けていた、日本に住む一婦人の存在があった。東京・新宿区で、班長をしている田所キクという人で、彼女は、ドミニカに来たこともなければ、深い関係があったわけでもなかった。
中尾寛一の弟が、彼女を同じ組織で、中尾がドミニカに移住したと聞き、新天地の活躍を祈り、世界広布のために戦う同志を、なんとしても応援したいと、数珠や勤行要典、聖教新聞や大白蓮華、学会の出版物を 梱包して送り続けていたのだ。
現地のメンバーにとって、それは、宝のような贈り物であった。ドミニカには、幹部がいなかっただけに、メンバーは全く面識がないにもかかわらず、何かあると彼女に手紙で相談するようになっていった。
田所は、問題によっては、学会本部に問い合わせるなどして、その一つ一つに誠実に、一生懸命に対応し、励ましの便りを書いた。その便りは、メンバーの大きな心の支えとなり、皆は、田所に、“ドミニカ広布のお母さん”という思いをいだくようになっていった。
人に言われて始めたことではない。報酬や見返りを求めての行為でもない。同志を思い、世界の広宣流布を願うがゆえに、自ら始めた献身であった。
こうした励ましの連帯の絆が、地下茎のように張り巡らされ、友と友の心を結んでいたからこそ、世界広布の揺るぎない基盤が、築かれていったのである。
同志が念願してきた、山本伸一のドミニカ訪問が実現するのは、それから21年後の1987年のことである。この折、伸一はホアキン・パラゲール大統領と会見し、「クリストバル・コロン大十字勲章」を受賞したほか、サントドミンゴ自治大学から、名誉教授の称号が贈られた。
それは、伸一とメンバーが、ドミニカ社会で大きな信頼を勝ち取った最高の証であった。
この66年から中南米各国の広宣流布の、本格的な開墾が始まったといってよい。その作業は、石だらけの大地を耕し、畑をつくり上げるような、苦闘の連続であった。しかし、どの国も、どの友も、見事に勝ち抜いてくれた。
21世紀を迎えた今、中南米のあの地この地に、人間勝利の栄光の旗は、誇らかに翻っている。
<開墾の章 終了>
太字は 『新・人間革命』第11巻より 抜粋