『新・人間革命』第11巻 開墾の章 P182~
理事長の泉田弘ら一行は、ボリビアの事実上の首都であるラパスに到着した。ラパスは、世界最高所の首都と言われ、海抜約3,700メートルの高原都市である。富士山とほぼ同じ高さということになる。ボリビアには、支部が結成されており、百世帯近くのメンバーがいた。
派遣幹部は、高地の気圧の低さ、酸素の少なさに、面食らっていた。耳鳴りがし、階段を上ったり、少し走ったりすると、動機や目まいがするのである。幹部は、世界の広さを感じ、日本を基準に世界を考えることが間違いだと実感した。
サンタクルスの空港では、ボリビア支部長の川浦太郎が、鼓笛隊の演奏で大袈裟に出迎えた。泉田は、南米各国が創価学会に対して警戒の目を向けているので、人目を引くような派手なことを避けるよう話した。
移住船には、7世帯38人の学会員がいた。川浦を中心に、メンバーは団結して、移住地で布教を開始していったのである。何人かのメンバーは、家の敷地の入り口に「創価学会員」と書き、表札を掲げる者もいた。同志の絆で結ばれた学会員は意気揚々としていた。
“俺は天下の創価学会員だ!”という強い誇りがあり、広宣流布への闘魂が燃え盛っていたのである。このサンフアンの移住地より早く移住が始まったオキナワ移住地では、熱病や川の氾濫などの被害で移転を余儀なくされた。
オキナワ移住地には、仲村一家が一粒種となり、その後6,7世帯の学会員が移住してきた。川浦は、メンバーの激励に、日に、1、2本しかないバスに乗ったり、トラックに乗せてもらい、120キロ以上離れた移住地に向かった。メンバーの家と家の間は、3、40キロ離れていて、移動には荷馬車か歩くしかなかった。2、3日がかりで激励に出かける川浦の努力が実り、次第に人材が育っていった。
メンバーは、旺盛な求道心をたぎらせ、夜道を何十キロと歩いたり、毒蛇に注意しながら、雨の日にはずぶ濡れになりながらも聖教新聞だけはぬらさないように手を揚げ、意気揚々と、凱旋将軍のごとく、進んでいくのである。
泉田弘一行がサンフアン移住地に向かうと 百人余りのメンバーが集っていた。会合終了後の懇談会では、日ごろ思い悩んでいる問題について皆が相談してきた。
人生の苦悩を破る、力を与えられるか。希望を、勇気を、確信を与えられるかーー派遣幹部は、懸命に指導にあたった。自らの生命を振り絞らずして、鉄をも溶かす炎の情熱なくして、人の心を揺り動かすことなどできないからだ。
実に創価学会の強さは、常に、幹部が、一人ひとりの同志と会い、指導と激励と触発に、全精魂を注ぎこんできたことにある。
泉田たちの訪問によって、ボリビア同志の心には希望の種子が植えられ、未来への大いなる飛翔の活力がもたらされていったのである。
泉田らが向かう前日、清原かつと岡田一哲の二人はドミニカ共和国に向かって出発した。戦後の中南米への日本人移住者のなかで、最も悲惨な事態にさらされたのは、ここに渡った人たちであった。
カリブ海に浮かぶ西インド諸島のイスパニョーラ島にあるドミニカ共和国はへの移住は、国策として実施されたが、示された条件があまりにもよかった。土地が無償提供され、家も用意され、自給できるまで小学校教師より高額な生活補助金が支給されるというのだ。
「カリブ海の楽園」という触れ込みであったが、実際に入植してみると、現地の状況はあまりにもひどかった。肥沃な耕地と聞かされていた土地は、石だらけで、耕作不能であったり、塩が噴き出て砂漠同然であったりしたのである。
移住者は、愕然とした。ただ、途方に暮れるばかりであった。
理事長の泉田弘ら一行は、ボリビアの事実上の首都であるラパスに到着した。ラパスは、世界最高所の首都と言われ、海抜約3,700メートルの高原都市である。富士山とほぼ同じ高さということになる。ボリビアには、支部が結成されており、百世帯近くのメンバーがいた。
派遣幹部は、高地の気圧の低さ、酸素の少なさに、面食らっていた。耳鳴りがし、階段を上ったり、少し走ったりすると、動機や目まいがするのである。幹部は、世界の広さを感じ、日本を基準に世界を考えることが間違いだと実感した。
サンタクルスの空港では、ボリビア支部長の川浦太郎が、鼓笛隊の演奏で大袈裟に出迎えた。泉田は、南米各国が創価学会に対して警戒の目を向けているので、人目を引くような派手なことを避けるよう話した。
移住船には、7世帯38人の学会員がいた。川浦を中心に、メンバーは団結して、移住地で布教を開始していったのである。何人かのメンバーは、家の敷地の入り口に「創価学会員」と書き、表札を掲げる者もいた。同志の絆で結ばれた学会員は意気揚々としていた。
“俺は天下の創価学会員だ!”という強い誇りがあり、広宣流布への闘魂が燃え盛っていたのである。このサンフアンの移住地より早く移住が始まったオキナワ移住地では、熱病や川の氾濫などの被害で移転を余儀なくされた。
オキナワ移住地には、仲村一家が一粒種となり、その後6,7世帯の学会員が移住してきた。川浦は、メンバーの激励に、日に、1、2本しかないバスに乗ったり、トラックに乗せてもらい、120キロ以上離れた移住地に向かった。メンバーの家と家の間は、3、40キロ離れていて、移動には荷馬車か歩くしかなかった。2、3日がかりで激励に出かける川浦の努力が実り、次第に人材が育っていった。
メンバーは、旺盛な求道心をたぎらせ、夜道を何十キロと歩いたり、毒蛇に注意しながら、雨の日にはずぶ濡れになりながらも聖教新聞だけはぬらさないように手を揚げ、意気揚々と、凱旋将軍のごとく、進んでいくのである。
泉田弘一行がサンフアン移住地に向かうと 百人余りのメンバーが集っていた。会合終了後の懇談会では、日ごろ思い悩んでいる問題について皆が相談してきた。
人生の苦悩を破る、力を与えられるか。希望を、勇気を、確信を与えられるかーー派遣幹部は、懸命に指導にあたった。自らの生命を振り絞らずして、鉄をも溶かす炎の情熱なくして、人の心を揺り動かすことなどできないからだ。
実に創価学会の強さは、常に、幹部が、一人ひとりの同志と会い、指導と激励と触発に、全精魂を注ぎこんできたことにある。
泉田たちの訪問によって、ボリビア同志の心には希望の種子が植えられ、未来への大いなる飛翔の活力がもたらされていったのである。
泉田らが向かう前日、清原かつと岡田一哲の二人はドミニカ共和国に向かって出発した。戦後の中南米への日本人移住者のなかで、最も悲惨な事態にさらされたのは、ここに渡った人たちであった。
カリブ海に浮かぶ西インド諸島のイスパニョーラ島にあるドミニカ共和国はへの移住は、国策として実施されたが、示された条件があまりにもよかった。土地が無償提供され、家も用意され、自給できるまで小学校教師より高額な生活補助金が支給されるというのだ。
「カリブ海の楽園」という触れ込みであったが、実際に入植してみると、現地の状況はあまりにもひどかった。肥沃な耕地と聞かされていた土地は、石だらけで、耕作不能であったり、塩が噴き出て砂漠同然であったりしたのである。
移住者は、愕然とした。ただ、途方に暮れるばかりであった。
太字は 『新・人間革命』第11巻より 抜粋