『新・人間革命』第22巻 命宝の章 307p 
<命宝の章 開始>

この世で元も尊厳な宝は、生命である。それゆに「命宝」と言う。生命を守ることこそ、一切に最優先されなければならない。本来、国家も、政治も、経済も、科学も、教育も、そのためにこそ、あるべき者なのだ。「立正安国」とは、この思想を人びとの胸中に打ち立て、生命尊重の社会を築き上げることといってよい。

1975年(昭和50年)9月15日、山本伸一は、ドクター部の第3回総会に出席した。仏法を根底にした「慈悲の医学」に道を究め、人間主義に基づく医療従事者の連帯を築くことを目的として、1971年9月に発足した部である。

このころ、医療保険の改正をめぐって厚生省と日本医師会の対立が続いていた。医療費が急増し、その大部分は、薬代、注射代などが占めていて、医師の医療技術は、ほとんど評価されず、薬漬け、検査漬けと言われる医療を加速させていた。

厚生省は、打開策として、医療費はそのままに、診療報酬体系の見直しを図る。医師会は「医師の犠牲のもとに低医療費政策を押しつけるもの」として猛反発し、保険医総辞退の方針を決議。おおくのサラリーマン家庭が一時、医療費の全額立て替え払いを余儀なくされ、新料金との差額が 患者の自己負担となった。それにより、医療費が払えず、治療を中断したり、自殺する人が出るなどがおこる。

保険医辞退は、1か月で終わったが、医師会と厚生省の対立は続いていた。伸一はそうした状況を見ながら、医師の良心という問題を考え、"人命を預かる医師という仕事は、聖職である。医師が生命の尊厳を守ろうとする信念をもち、慈悲の心を培うことこそ、再重要のテーマではないか・・・"山本伸一はドクター部の結成を提案した。

伸一は、本来、医療の根本にあるべきものは「慈悲」でなければならないと考えていた。「慈悲」とは、抜苦与楽ということである。一切衆生を救済せんとして出発された、仏の大慈悲に、その究極の精神がある。医療従事者が、この慈悲の精神に立脚され、エゴイズムを打ち破っていくならば、医療の在り方は大きく改善され、「人間医学」の新しい道が開かれることは間違いない。いわば、医療従事者の人間革命が、希望の光明となるといってよい。

ドクター部では、その伸一の激励に応えるために、自分たちに何ができるのか、協議を重ねた。そして、住民の無料健康相談を行う「黎明医療団」を組織し、医師のいない地域などに、派遣することにしたのである。

「黎明医療団」は各地に赴き、無料健康相談を重ねていった。その数は10年間で、120回に達している。この活動には、学会のドクター部以外の医師たちも、共感、賛同し、加わるようになっていった。ドクター部のメンバーは、自分たちの進めている運動に、自身と誇りをもち、なぜ、「黎明医療団」を組織し、無料健康相談を行うのかを、語っていったのだ。

慈悲の医学の体現者たる使命を自覚した、ドクター部員の活躍は目覚ましかった。それぞれの職場にあって、各人が人間的な医療の在り方を探求していった。体に負担の少ない治療法の研究に取り組む人もいれば、病院の環境改善に力を注いだ人もいた。さらに、健康セミナーの講師や、仏法と医学についての講演なども積極的に引き受け、地域にも、広宣流布の運動にも大きく、貢献していった。

医学は諸刃の剣ともなる。多くの人びとの生命を救いもするが、副作用をはじめ、さまざまな弊害を生みもする。特に医師をはじめ、医学にかかわる人たちが、誤った生命観に陥れば、医療の大混乱を招くことにもなりかねない。それだけに、正しい生命観を極めていくことは、必要不可欠な意思の要件といえよう。

「医学の分野に、慈悲の赫々たる太陽光線を差し込む作業は、単なる社会の一分野の改革にとどまるものではない。生命を慈しみ、育て、羽ばたかせる思想が、人びとの心の隅々にまで染み込んだ時に、初めて現代文明が、機械文明から人間文明へ、物質の世紀から生命の世紀へと転換され、人類が光輝ある第一歩を踏み出すのであります」

"ドクター部よ、現代の四条金吾たれ!"それが、伸一の心からの叫びであった。

太字は 『新・人間革命』第22巻より 抜粋