『新・人間革命』第11巻 躍進の章 P325~

青年たちは、一党による権力の維持と、公明党の衆議院進出を阻むための党略であると見抜き、“小選挙区制”粉砕のデモを行いたいと申し出た。

だが、山本伸一は慎重であった。学会が、選挙の支援活動以外で、政治にかかわる行動をすることは、できる限り避けたかったのである。伸一は考え悩んだ。

東西両陣営の対立が、政界にそのまま持ち込まれ、保守と革新の対立の構図となり、真の意味での議論も、話し合いもなされていない、日本の政治の現状を憂慮していた。この保守と革新の溝を埋め、硬直化した事態を打開していくには、自民党、社会党という二つの極に対して、さらに新たな”第三の極”が必要になると、彼は考えていたのである。

そして、その役割を担いうる政党こそ、仏法の中道主義を理念とした公明党であるというのが、伸一の確信であった。しかし、“小選挙区制”になり、公明党の衆議院への進出が阻まれてしまえば、その道をつくった学会としても、見過ごすわけにはいかない問題である。

これまでの自民党議員の発言などから考え、“小選挙区制”が採用され、一党支配が永続化していけば、軍事大国への道を踏み出そうとすることが懸念された。“もしも、今、黙って、何もせずにいれば、取り返しのつかないことになるにちがいない”彼は、深く決意した。

青年部総会で伸一は“小選挙区制”問題に言及し、その危険性を指摘したあと、現とした口調で訴えた。「今、学会が動かなかったら、日本はどうなるか。もし、戦争に巻き込まれたら、民衆はどうなるか。それで、結論として、来年、
“小選挙区制”を強行しようとするのであれば、東京で五十万、全国で三百万の、未曽有のデモ行進をしようと思いますが、いかがでしょうか!」

「また、その時は、私がデモの先頭を切ります!」
社会のあらゆる階層、年代、職業の、八百万を超える人びとによって構成される学会は、日本の民衆の一大潮流といってよい。その学会員が怒りをもって、“小選挙区制”の粉砕に立ち上がったのだ。

虚勢や、ハッタリではなく、三百万人のデモが、日本列島を揺るがすことは間違いない。この同士の憤りと、粉砕への鉄の意思は、世論を目覚めさせた。

自民党首脳は、それでもなおかつ選挙区制を変えようとすれば、民衆の支持を失い、党の存在の基盤を根底から揺るがす結果になりかねないと、考え始めたようであった。

1966年、(昭和41年)自民党首脳は、政治制度の変更を、当面、見送る意向を固めたことが、報道されるようになった。12月27日衆議院が解散し、それまでの中選挙区制のまま総選挙が行われることになったのである。

結果的に、選挙区制改悪のもくろみは、一旦頓挫し、学会の抗議のためのデモが行われることはなかった。

公明党の衆議院進出に対する他宗教の反対は、極めて激しいものがあった。既成仏教の団体が大会を開き、「創価学会対策の急務とその決め手」について協議が行われている。ここで打ち出された具体的な対策のなかには、学会を”邪教”として禁止することなどを、時期を見て、国会及び政府に誓願することが提案されていた。権力を動かしての学会弾圧の画策である。権力を動かしての学会弾圧の画策である。

こうした激しい攻撃の礫のなかで迎えた、初の公明党の衆院選挙であったのである。
山本伸一は、衆院選挙を迎えるにあたって、支援活動に励む会員が、公明党の進むべき方向性について、より深く理解し、さらに自身を持てるようにしようと心を砕いた。

そして、新春の幹部会の席上、公明党の創立者として、党のビジョンを明らかにしたのである。



太字は 『新・人間革命』第11巻より 抜粋